【前回までのおさらい】
-ものとことばに溢れている世界-
私たちの世界は、驚くほどものとことばに溢れている。
けれど、この世界。森羅万象全てのものには名前が付いている、という認識からスタートするのですが、当たり前ですがそれで終わっちゃ面白くないですよね。
ということは、逆を考える。
全てに恐らくことばが付いていのかもしれないけど、それって私たち人間はちゃんと認識しているのかな?
もしかしたら、「名前」が解らない存在は、私たちの中でどう処理されているのか。
もしかして、名前が解らないゆえに。その正式な名称を知らないが故に、私たちはその「もの」を存在しないものとして扱っているのではないか?
という筆者の疑問を掘り下げていく評論になります。
-もの⇒ことば ではなく、ことば⇒ものになっている-
では、前提です。
もの。つまり、物質があって、その性質に相応しいことばが名前として名付けられた、というのが私たちが常識として感じている状態ですが、実は全くの真逆なんじゃないのか。
つまり、人間にイメージを与える「ことば」が先にあって、その言葉が示すイメージ通りのものを私たちは想像したり、連想したり、認知し、認めるようになることもあるのでは? と筆者は語っています。
良い例が、「商品名」を変えると、売り上げがUPした商品などを知ると、「ああ、商品って、そのものの価値とか質で売れているわけではなく、『商品名』が私たちに与えるイメージで売れているんだ」ということが良く解ります。
そう。ことばは、もの、のイメージを私たちに呈示してくれる。イメージを抱かせるもので、そのイメージ通りに私たちはその「もの」を見、価値を与えるのです。
-ことばは私たちの印象に影響を及ぼす力を持っている-
ことばは、相当大きな力を持っています。
なによりその大きな力は、「イメージ」を私たち人間に抱かせるということ。
その効果は、プラスにも、もちろん、マイナスにも影響します。
日本語に、「言霊」という言葉がありますが、まさしく「ことば」は魂。人間の心に響く力を持っている。
夢枕獏の小説。「陰陽師」の作中で、安倍晴明が、「この世で一番短い呪い。それは『名』だ。『呪』とは、ようするにものを縛ることよ」という台詞があるのですが、まさしくこの筆者が語っている事を、台詞で表しているようなシーンです。
(原作小説だけでなく、映画でもこのシーンはあるので、良かったらぜひ。清明役の野村 萬斎さんがとても素敵です。)
商品の中身を変えずに、名だけ変えた。その瞬間、その「名」が持つイメージが、「もの」を縛った。
中身は、何一つ変わっていないのに。
そんな、馬鹿なことがあるのかと思うかもしれませんが、私たちの住んでいる世界は、人間は、そんなあやふやな世界に生きているのです。
では、続きを読んでいきましょう。
【第19~21段落】
-初めにことばありき=聖書のことば-
私の立場を、一口で言えば、「初めにことばありき」ということにつきる。(本文より)
初めにことばありき、は新約聖書のヨハネ福音書の言葉です。
世界が作られる前に、ことばは既に存在した。言葉=神が作ったもの。なので、ことばは神様と常に一緒に居て、ことばは神そのものだという思想は、だからこそ、口にすることばを大事にしなさい。
あなたの言葉を神は見ていられるのだから、という教えに繋がる言葉です。
日本語の、悪いことを言うと、悪いことを引き寄せてしまう。だから、自分の為にも人の悪口は言ってはならない、という言霊信仰と通じる部分があります。
そして、筆者は言語学者なのだから、「ことば」が先に存在していた、という立場で今、この論理を語っています。
けれども、この「ことばありき」ということは、何も存在していない空間に、「それ」を示すことばが最初からあったと言っているわけではありません。
スマホがない20年前に、スマホってことばが存在していたら、怖いですよね(笑)
筆者の言う、「ことばありき」の考え方は、ちょっと特殊です。
-私たちは世界をことばで認識している-
ことばがものをあらしめるということは、世界の断片を、私たちが、ものとか性質として認識できるのは、ことばによってであり、ことばがなければ、犬も猫も区別できないはずだというのである。(本文より)
要するに、この部分の内容は、「私たち人間は、ことばが持つイメージによって、様々なものを認識(犬が犬。猫が猫だと理解し、納得し、気付くこと)し、区別することが出来ると言うことです。
何か「もの」を認識する時、全て私たちはことばにおいて知り、認めている。
あくまでも、「初めにことばありき」の世界は、「ただし、人間の認知においてのみ」という前提がくっついているんです。
そもそも、ことばは人間しか使っていないし、私たちはことばが持っているイメージで、その「もの」を認識している。
つまり、呼び方が変わっていれば、同じ存在でも、全く「認知」の仕方が違うんです。
-ことばの構造が違えば、認識される対象も変化する-
ことばが、このように、私たちの世界認識の手がかりであり、唯一の窓口であるならば、ことばの構造やしくみが違えば、認識される対象も当然ある程度変化せざるを得ない。(本文より)
例えば、解説その2で出てきた。各国それぞれの犬の名前。
日本語の犬は、犬を横からみた形を現した、象形文字に近いものです。
けれども、中国では、狗(コウ)。この漢字は、「卑劣な存在、小さいもの」という意味が込められており、誰かに付き従うことしかできない=無能、というイメージが中国の持つ犬のイメージだとすると、忠犬ハチ公のイメージが強い日本人には、ちょっとずれる面も。
でも、日本語の中にも主人の言いなりになる。スパイなどの意味もある。無能は無いけど、面白いなぁ、と思う瞬間です。
更に、英語のdogの意味には、犬という意味だけでなく、卑怯者、裏切り者やら、なぜか女性に対する侮辱の言葉の「ブス」という意味もあり、何で??? と首をかしげてしまいますよね。
そんな風に、犬のさまざまな国の言葉の意味を探っていくと、違いが明確になってちょっと面白いですよね。こればかりは、「なんで?」と言っても、仕方がない。
なぜならば、ことばは、私たちが素材として世界を整理して把握する時に、どの部分、どの性質に認識の焦点を置くべきかを決定するしかけに他ならないからである。(本文より)
「ことば」は人が作るものであり、その「ことば」が持つイメージが、私たちの意識を変化させ、その「もの」自体の取り扱い方が変わってきてしまう。
何故なら、ことばでしか私たちは世界を認識し、理解し、分類することが出来ないから。
「いぬ」という言葉も、その国その国で、「いぬ」に対して人間が持っているイメージのどこを中心的に考えているか。それが如実に表れているんです。
日本は、忠実な臣下のイメージ。
中国は、自分で自立出来ない。命令されなければ動けない、というマイナス面をとった。
英語は、犬が主人を変える性質があることをとって、卑怯者、裏切り者、という意味が付随したのでしょう。
「ことば」=イメージ。
なので、その言葉が持っているイメージで、「もの」の内容や価値、性質を決めてしまう。
逆に言うと、「人間」の立場になると、「もの」を認識するためには必ず「ことば」が居るので、「ことば」がない「もの」は認識できないということに。
これって、すっごく単純に考えると、人混みとかが当てはまると思います。
都会では沢山の「人」という存在。つまり、「もの」が居ますよね。
でも、その一人一人に「名」という「ことば」は確かに付いているはずなのに、存在しているはずなのに、それもちゃんと解っているはずなのに、一人の「人」という存在として認識しているか、というとはてなになります。
酷い言い方をすると、知り合いではない人間達の人混みって、ただの風景ですよね。
人を認識する時、ちゃんと顔と名前をを一致させ(認識)、そして、それをカテゴリー分けしている。(家族、学校の友達、学校外の友達、部活の先輩、後輩、趣味の友達、SNSの知り合い……などなど)
大量に「もの」は存在するのに、「名」という「ことば」が付いて、一緒になっていないと私たちにとってそれは、「存在しないもの」と同じことなんです。
-窓が違えは見える世界が変わってくる、とは?-
ことばは人間が世界を認識する窓口だという比喩を使ったが、その窓の大きさ、形、そして窓ガラスの色、屈折率などが違えば、見える世界の範囲、性質が違ってくるのは当然である。(本文より)
世界を見る窓、ということばで表されているのは、これは、人間が住んでいる世界の文化や常識などの環境に左右され、「もの」の認識が変わると言うことです。
例えば、自然は日本にとっては、畏敬の対象。人の勝手で動かしてはならない、自然=神、という認識ですが、西欧では、素材として造形の対象です。
(参照⇒水の東西 解説 その1)
同じ自然のはずなのに、認識や捉え方が住む場所で変わってくる。
これって、色んなところで当てはまる話です。
環境によって人間が影響を受けるのは、この為。
例えば、「本好き」や「本を当たり前のように読む環境」の人々に溢れた環境で育った子は、「本」というものに対して好意的な認識を持ちます。
けれど、何かの切っ掛けでそれが歪むこともある。
大好きなものが、何かしらの切っ掛けで、大嫌いになったり、または大嫌いなものが大好きになったり。
そう言う事ってありますよね。
窓ガラスの大きさ・形=視野の広さ
窓ガラスの色が違う=色眼鏡。
窓ガラスの屈折率=偏見。
評論文は、一方の見方ではなく、違う立場に立ってものを見れるかどうか。
違う価値観で物事を考えたことを、表している文章です。
その入り口である「ことば」が違えば、見えてくるものも当然変わってくる。
その言葉のもつイメージに、私たちの認識や感覚が影響されている。それを皆が意識していない。
それをこの評論文では表しています。
-見えていても当てはまることばがなければ、それは居ないも同じこと-
そこにものがあっても、それを指す適当なことばがない場合、そのものが目に入らないことすらあるのだ。(本文)
ここまで読むと、この文の意味が解りますよね。
さっきの人混みの例や、見てないドラマとか、興味ない芸能人なんかも、はっきり言って目に入らない。つまり、居ないも同じこと。
そこに存在していても、自分が認識できることばが浮かばなければ、誰かが知っていても、「へ~……」で終わっちゃうのです(笑)
これ、自分が好きなものを幾ら人に説明しても、反応が薄かったり、興味持ってもらえなかったりして、虚しい気持ちになる時がありますよね(笑)
その人その人が持っている「窓」が違うんだから、それは仕方のないことです。だって、存在していないんですから。興味の持ちようがない。
だから、人にものを説明する時は、相手のことを良く見て、その人に響くことばや、相手の好きそうなところから攻めないと、認識してもらえないんですね。
先ずは、目に入れてもらわないと。認識してもらわないと、それこそ話にならない。
【今日のまとめ】
-ことばとものが一致していない存在は、居ないも一緒-
「ことば」は世界を認識する「窓」です。
だから、その「窓」が狭かったり、向いている方向が違うのならば、映らないものは「ない」のと一緒。
テストのためだけでなく、これを知っていて使えるようになると、説明上手になったり、話上手になったりします。
人って、自分が考えているように、他者も考えていると思いがちですが、そこがそもそもの間違いなんですよね。
さて、明日は本文で呈示されている具体例に入っていきます。
自分の中である程度抽象論を認識出来ていると、この具体例が物凄く解りやすくなります。
今日はここまで。
続きはまた明日。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
続きはこちら⇒ものとことば 解説その4
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