物語るという欲望 解説その4
(解説 その1 その2 その3)
【前回までのまとめ】
-映画の無意味な部分が意味あるものを際立たせる-
映像は、私たちの想像以上に情報が豊富です。
百聞は一見に如かず(百回聞いても、一回見たほうが、情報量は上)という言葉が示すように、映画の本筋に全く必要でないものもそこには映り込んでしまう。
その「余計な物」「本来、話の筋とは関係が無いもの」「意味がないもの」は、邪魔な存在のはずなのですが、その余計なものが入り込むことが、逆に私たち観客の注意を引き寄せ、「きっとあれは何かのフラグなんだ!!」と思わせることによって、結果的に映画の世界に入り込んでいく、という効果を発揮します。
意味のないものが、逆に作者の意図した意味あるものを際立たせていく。
何故、際立つのか。
それは、物語の中に参加しているからです。
その物語がどう展開していくのか。どういう結果になるのかを、観客は常に予想しています。
その予想する最初の切っ掛けは、この「意味のないもの」であり、それを解釈していくうちに、自然と作者の意図した本来の物語を理解していく。
物事を楽しむためには、まず、その世界に没頭しなければならない。
その没頭する切っ掛けを、「意味のないもの」が担っている。
-「何を意味するのかよく分からないもの」の価値-
では、本来邪魔でしかないはずの、「意味のないもの」が、どうしてそんな効果を発揮するのか。
人は、「意味のないもの」を、どう取り扱っているのか。
これが、この評論文の問題提起となります。
これは、今後の評論文を読む時の理解や、文章読解能力を上げたい人に、ヒントになるようなことが続いているので、今回の課題の話だけでなく、自分の国語の読解能力を上げたいと思っている人は、良く読み込んでください。
あなたのヒントになることが、書いてあります。
では、本文を読んでみましょう。
【第12~20段落】
-「意味の亀裂」に架ける「解釈」という橋-
私たちがあるテクストを読んでいるときに、「意味のつながらないところ」「意味の亀裂」のようなものに遭遇することがあります。「意味の亀裂」を私たちはそのままにしておくことができません。私たちはそこに「橋」を架けます。(本文より)
謎がある部分。分からない部分があると、人ってそこを埋めようとしてしまいます。
道でもそうですよね。
穴(=意味のわからないところ)があったら、そこだけが目立ちますよね。なので、どうにかして埋めて、平らにしようとする。
それと同じように、意味がわからないところがあったり、気になったりするところがあると、どうしても気になるんです。まじめに。
だから、そこをどうにかして繋ごうとする。
つまり、意味のあるもので繋げようとする、という事です。
この意味のあるものは、観客が勝手にかける橋です。作者ではなく、観客がそれぞれ引っかかるところは様々だから、それに対して皆、必死に穴を埋めようとする。
意味の亀裂を、綺麗に、平らに埋めようとするのです。わからないところが無いように。
これ、テスト勉強でも一緒ですよね。
意味が分からないところ。理解出来ないところって、いや〜な感じがしませんか?
気持ち悪いというか、ムズムズするというか。
放っておくこともまぁ出来るけど、でも、気になる。(それで勉強してもまた分からないから、そのいや〜な気分がするので、見ないふりをするのですが・・・(笑))
でも、映画だと別段正解なんてないので、解釈で橋を架けるのは自由なんです。
正解なんてどこにもない。だから、抵抗なく、嫌な感覚をなくそうと色々自由に考えることが出来る。
-論理的な脈絡付けをするのは「話のつじつまが合わないとき」-
この「意味の亀裂」こそ、実は私たちの知性と想像力を激しくかきたて、私たちを暴力的なほど奔放な空想と思索へと誘う「物語発生装置」なのです。(本文より)
溝があると埋めたくなる。
亀裂があるなら、繋げたくなる。
しかも、それの正解はありません。ある意味、何をどう思っても自由で、否定されることも誰かに注意されることもないから、皆様々考える。
この、亀裂が人に「物語」を考えさせる装置とも言えます。
しかもその衝動は、暴力的なほどに協力だと。
これって、その3で解説したSNSで皆が感想や解釈をコメント上で言い合ったり、ファンアートや2次創作で溢れている現在のネットをみると、分かりやすいですよね。
人間って、謎に対して妄想するのが大好きだということ。
しかも、この解釈の力が働くのは、ある一定の法則があります。
考えれば当たり前のことですが、私たちがあるテクストを読んでいる途中、解釈作業を行うのは、話の前後を論理的に脈絡づけるためです。(本文より)
謎があり、意味が分からず、納得が出来ないことがあるからこそ、人は勝手に繋げようと解釈を始めます。
ならば、そこに必要なのは、脈絡のある、誰もが理解できる関係などではなく、むしろ、意味のわからない部分がないと、これは発動しないんです。
なんだよ、訳わかんないよ。
あれ、なに?? 何か意味があるの??
と言う場所があると、無意識に「何か論理的につながりがあるはずだ!!」と思考が発動し、つなげ始めるんです。
関係が無ければ無いほど、この力は逆に強くなる。関係がないからこそ、無理やりにでもつなげようと人間はしてしまうんです。
-「ご飯を食べる」と「新聞を読む」-
例えば、「彼はご飯を食べながら、黙って新聞を読んでいた。」という文章があります。この1文を読むと、私たちは何となく彼の行動を脈絡づけなければならない、という気になります。(本文より)
関係が無いことが同時並行で書いてあると、どうしても人は結びつけたくなってしまう。
というよりも、結びつけなければならない!!
やらなきゃ!!
という気分になっちゃうんです。私たち(笑)
ここで言うのならば、「彼」が行っている、「ご飯を食べる」という行動と、「黙って新聞を読んだ」という行動。
これって、全く別の行動です。
口を動かしているのに、「黙って」いる。つまり、話していない。新聞を読んでいるんだから、当たり前ですが、けれどもわざわざ「黙って」と書いてあるからには、何かしらの意味があるんだ……
と、勝手に考える。
・「一人で食事をしているので、暇だから読んでいる」
・「家族と話したくないから、壁として自分を守るために新聞を読んでいる」
・「重要な記事が新聞に載っていて、思わず夢中で読んでいるから黙っている」
「脈絡がない」から、つなげようとする。「黙っている」という表記に、意味のある説明を欲しがる。
だから、その前後の文脈を利用して、勝手につなげようとする。
そんな場所が、映画には無数にちりばめられているし、小説や物語の中にもちりばめられています。
そして、その「勝手につなげる」という行動を通して、物語の世界に入り込む切っ掛けを得ることが出来るのです。
-解釈の必要を感じないもの-
「脈絡がある」行為というのは、「ご飯を食べながら、歯で食物を噛む。」とか、「ご飯を食べながら、嚥下する。」とかいうほとんど同語反復的な行為のことです。(本文より)
疑問が無いものって、解釈は必要が無い。
けど、分かりきったものが続くとどうなるのか。
そう。「飽きる」んですね。退屈になってしまう。「つまんない」というやつです。
けれど、謎があるからこそ、それを能動的に解釈しようとして、のめり込む。その世界にどっぷり浸かる切っ掛けを与えられるのです。
-私たちに解釈を要請するものとは-
しかし、そうではないすべての行為は「脈絡がない」行為なので、何らかの解釈を私たちに要請することになります。(本文より)
「意味がないもの」
「無駄なもの」
「脈絡がないもの」
「論理的に説明がつかないもの」
邪魔で無意味なものがあった時ほど、人は謎だからつなげようとする。
欠損があること。謎があることが却って、人を思考にかりたたせ、理解しようと、論理的につなげられるように解釈をしてしまう。
ミステリー物やサスペンス物。更に最近で言うのならば、脱出ゲームや人狼ゲームが根強い人気を誇っている事の根拠が、ここに見えてきます。
謎があるからこそ、人はそれを解明したいと解釈をし始める。
分かりやすいものよりも謎があるほうが、人は惹かれるのです。
参考その1
参考その2
【今日のまとめ】
-脈絡がない時に、人は物語を発生させる-
意味がないものが、意味あるものを際立たせる。
意味がない物にも、価値がある。それがあった方が、意味のある物語を楽しめるという逆説的な考え方。
何故、その逆説が成り立つのかは、「脈絡のなさ」です。
脈絡がないからこそ、それを繋げようとする。つなげようとする時に、人は「物語」つまり、論理的思考をして、どうにかこうにか「アリだな」というところに落とし込もうとする。
タイトルにも関わってきますが、「物語る欲望」を掻き立てるものは、この「脈絡のない」「意味のない」ものです。
明日は最後まで解説します。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
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