声の諸相 解説その1

声の諸相
manfredrichter / Pixabay

本日から、筑摩書房発刊「精選現代文B」に掲載されている、辺見庸さんの「声の諸相」を解説として取り上げます。

胡散臭いなぁ~って思う人の顔って、大概、笑顔ですよね。

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【イントロダクション】

-「ない」ことの価値-

私たちは、「ない」よりは「ある」こと。

存在することに価値をとても置きがちです。

けれども、本当にそうなのでしょうか。例えば、いつもは一緒に居るのが当たり前すぎて、存在すら意識していない家族の誰か。いつも一緒にクラスに居る存在や、確かに存在するのに意識をそれほど向けていない存在って、誰にでもあるものです。

もし、それらが居なくなった時。

失われた時に、強烈にそのことの価値や、存在の重さを気付かされることって、覚えがありませんか?

 

-存在よりも不在の方が印象は強烈になる人間の不思議-

居て当たり前の時には全く意識しないのに、それが無くなった突然。強烈に意識すること。

本当に自分にとってどうでも良い存在ならば、居なくなったとしても気にも留めないはずです。

けれど、存在が居ない事を強烈に意識する、ということは、自分にとってその存在がとても大事であったということを指し示します。

この、存在することよりも、不在。つまり、無い方が、よほど心に伝わるものが大きいという不思議。

これは様々なところで見られる人間の不思議です。

 

-「ない」からこそ、伝わるもの-

特にこれは、人の感情に強く訴えたい時に有効です。

具体的に言うのならば、自己推薦文や、エントリーシートの書き方なんかにも応用できるテクニック。

(参照⇒自己推薦文の書きかた)

映画やドラマなどの映像作品でも、無言のシーンって結構ありますよね。

台詞も、長いものが残っているではなく、少ない言葉の方が印象に残っていたり、無言のシーンが深く心に残っていたりするものです。

小説などでも、「…………」などに代表されるように、ためらいや、言葉にならない気持ち、心の動きを表す表現が沢山使われています。

この声にならない声。言葉にできない気持ちの方が、もしかしたら伝わる力は強いのではないか。

この、欠損の方が伝わる力が強い、という現象は、様々な評論文で取り上げられているものでもあります。

(欠損した像が、どんな美術品よりも美しいことを論じた芸術論の解説 参照⇒ミロのヴィーナス 解説その6 まとめ)

逆に言うのならば、豊富にあるもの。

情報の氾濫や言葉の洪水は、本当に人間にとっていいことなのだろうか。

この、欠損の価値を。「ない」ことの意味を、私たちは捉えなおさなければいけないのでは? という内容の評論文になります。

諸相、とはいろいろなあり様、その様子のこと。

声の在り方、その様子とは、何なのか。

そして、筆者がタイトルを「言葉の諸相」とはせず、あくまでも「声」にこだわった意味を考えると、この評論文は読み解きやすくなります。

では、読んでいきましょう。

【第1~2段落】

 

-犬が話したら-

犬が吠えたり唸ったりではなく、グルグルとのどにくぐもり、もつれる声でなにごとか話そうとしているように見えるときがある。(本文より)

 

じっ……と見つめられるときってありますよね。犬とか猫とかも。

たまにありますよね。

じーーーーーっっ、と見つめられている時とか、たまに何かを訴えてくるように、口が動くんだけど吠えない時とか。

なーに考えてるのかな。何を伝えたいのかな、ってこちらも思わず見つめてしまう時があります。

これがとつじょせきを切ったように話しはじめたら、さぞおもしろかろう、と。(本文より)

「せきを切る」のせきは、流れを押しとどめるもの、の意味です。

おもに川などで水流の勢いを調節したり、流れの方向を変えたりするしきりのこと。これが切れると、川が氾濫したり、あふれたり、しますよね。

そこから派生した意味は、押しとどめられていたものが一気に解放されて、流れるさま。物事が突如始まり、勢いがすさまじい様、となります。

動物だって、感情があります。

何かしらを伝えたいことが、豊富にある筈。けれど、言葉が通じないから、彼らはアクションで伝えようとします。

お腹が減ったとか、散歩連れて行け、とか、不思議と言葉が無いのに伝わる時は伝わってくるものがありますよね。

単なるこちらの勘違いや、思い込みなのかもしれないけれど、なんとなく伝わってくるものは確実に在ります。

明確にお互いに伝わる、共通言語。言葉も無いのに。

ポイントはここです。

 

-能弁よりも寡黙を好む気持ち-

逆に、この犬がヘラヘラとしゃべりだしたら、畢竟厄介だし、うるさくてとても同居は無理なのではないかと自信をうしなう。(本文より)

「畢竟??」と思うかもしれませんが、「畢」も「竟」も、終わるって意味です。

なので、結局、とか、最終的には、の意味。

「喋ったらなぁ~」

って思っても、犬が喋り出したら絶対に嫌になるんだろうなと。一緒に暮らすのも嫌になるくらいに、と筆者が早々に降参の旗を掲げています。人間って、我儘ですよね。(笑)でも、とても同意してしまうこの文章。

これは一体、何故なのか。

犬にかぎらず生きとし生けるものに、私はたぶん能弁より寡黙をのぞんでいるようだ。(本文より)

能弁、は、弁舌が巧みであること。話が上手いこと、です。

良いことのように思いますよね。もっと上手くなりたい。もっと話せるように、書けるように、なんて皆が願うことです。

寡黙は、その逆の話が下手な人、という意味ではありません。

言葉の数が少ないこと。口数が少ないことを指します。

なぜ、口数が少ないことを筆者は望むのでしょうか。

逆に言うのならば、弁舌が巧みな人を、どうして望まないのか。一般的には、話の上手い人の方が望まれているし、いいことだと認識されているはずなのに、そうではない心理とはどういうものなのか。

 

-滑らかな語りが抱かせる嫌悪感のわけ-

なぜそうなのかといえば、このごろしゃべることに疲れ、ツルツル滑らかな語りを聴くのにも辟易しはじめているからではないだろうか。(本文より)

辟易、とは、困難があって物事に挑むことに躊躇する、という意味もありますが、ここでの意味は、嫌になること。何も言いたくなくなること。反論するのが苦痛であること、を指します。

このほかに、嫌なものの代表として、

・書き言葉のあやしげな調子の良さ。
嘘くさい美文。
・選挙時の、容姿端麗な(要するに、イケメンor美女)な若手候補者。

などが挙げられていますが、これらをなんで嫌いなのかは、はっきりと書いてありますよね。

そう。その語りが綺麗であればある程、なめらかであればあるほど、

「胡散臭い……」
「どうせ、そうやって練習してきたんだろ」
「本音は違うんじゃないのか?」
「って言うか、取り繕っているのが見え見え」

とか思っちゃうのが、人間だってことです。(笑)

大学受験の面接や、就職試験の面接にも、おんなじことが言えるかも。文章からも、言葉や話し方からも、全部それが伝わってきちゃうんですよね。

答えづらい質問にも、滑らかに答えられると、

「きっと答え作ってたな……」って。

つまり、「嘘くさい」

綺麗であればある程、「なにか違う目的があるんじゃないか」って思ってしまう。

そんな感覚が人間には備わっているのでしょう。

何せ、約2500年前の人も同じこと言ってますから(笑)

(参照その1⇒付き合ってはいけない人の特徴~巧言令色鮮なし仁)
(参照その2⇒小説読解 太宰治「走れメロス」その8~善人の仮面を被った卑怯者~)

綺麗にまとまっていればいるほど、どうにも「本音で言ってないな」と感覚が反応するんですね。違和感をどうしても抱いてしまう。

それは、目の前の人が、本音で喋っていないように感じてしまうから。

良く思われたいからだろうな。
人目を気にしているのかな。
先生の好むものを挙げているのかな。

そんなふうに、思っちゃうんですね。

-口下手な人が信頼を得られやすいわけ-

ごくごくまれにおそろしく口下手の医師や店員、お役人にであったりすると、立て板に水ではないという、ただそれだけの理由でじわっと情味をかんじたりするのだが、これは過ぎたおもいこみか。(本文より)

立て板に水、とは弁舌が巧みで、よどみなく語る様のことを言います。

これの逆は口下手。口数が少ない人たち。

本来なら、口数がすくないことはマイナスと取られがちですが、数が少ないからこそ、巧みではないからこそ、出てくる言葉に真実味があったり、伝わってくるものがあるのではないか。

そう筆者は語っています。

情味とは、人間らしいあたたかみのこと。

上手くないな、巧みじゃないんだな、でも、それでも話してくれようとしている。何かを伝えようと自分の為に頑張ってくれている。

そんなふうに、苦手なことでも真摯に伝えようとしてくれる気持ちは、違うところから伝わってきます。

それは、ふとしたジェスチャーだったり、表情だったり、声のトーンだったり、色んなところから「ああ、この人良いな」って思えるところがある。

その気持ちに、自分の気持ちが反応をする。共鳴をしてしまうから、なんとなく心があたたかくなる。

それは、饒舌な人よりも、訥弁な人に感じるのは、気のせいなのか。

言葉の数が少なくとも、いや、むしろそのほうが伝わるものが多いのではないか。

犬が、言葉が伝わらなくとも、何かを訴えてくるのを感じ取ってしまうように。

【まとめ】

-饒舌よりも訥弁-

言葉が巧みであることよりも、むしろ訥弁。口数が少なく、むしろつっかえながら喋る、喋りが下手な人の方が、伝わってくることが多い。

その伝わってくるものは、人間らしいあたたかみ。その人の、人柄のよさだったり、あたたかい気持ちだったり、様々です。

美辞麗句を並びたてるのは、却って嘘臭く感じてしまう。演じているのでは? と思ってしまうんですよね。

そんな人の不思議さ。

沈黙の価値について、筆者は更に考察を続けています。

 

続きはまた明日。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

続きはこちら⇒声の諸相 解説その2

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