解った!!の罠 国語が持つ、成績が伸びない原因


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国語を教えていると、良くこんなことが起きます。

一週間前に説明し、生徒達も納得し、理解出来たと思うものが、時間が経つとびっくするぐらい解らなくなっていたり、書けていたものが書けなくなっていたりする現象です。

「あれ? 説明聞いた時には、確かに出来たんだけどなぁ」
「先週は解ったのに、なんで解らなくなってるんだろう」
「あの時は解ったんだけどなぁ……」

覚え、ありませんか?

【国語の難しさ】

良く、「国語は問題をやったとしても、出来たような実感が全く掴めないから、どうやって勉強して良いか、良く解らない」という質問を受けます。

確かにそうですよね。古文や漢文は、まだ句形を覚えたり、文法が出来るようになったりと、問題をやればそれなりの成果も出るし、問題をやることに意義を見出すことが出来ます。やれることも、何となく解るし。

けれど、現代文に到っては、やってもやっても、出来るようになったかどうか、なんて全く解りません。

更に、授業を聞いて、「ああ、そう言うことなんだ!」と解った筈なのに、同じ課題文での校内テストでは、結果はボロボロ。

「解ったはずなのになぁ……」と首を傾げることが、多いんです。

【数学の勉強法との違い】

ここで、全く違う分野の数学の勉強法と比べてみたいと思います。

-数学の勉強方法-

三月末の今現在。進学校に合格した新入生たちは、新しい教科書が手許にあり、その難しさと直面していることと思います。

けれど、数学って、例えば因数分解の定理。

超基礎的な3次式の因数分解の公式を勉強し、理屈を理解したら、すぐ演習問題に行きますよね。

新しい定理を理解した。解った。⇒すぐさま自分がそれを使いこなせるか、演習に向かう。

数学という学問においては、「理解したこと」「解ったこと」が、「使いこなせること」「自分でできること」になるまでには、演習。つまり、問題集を徹底的にこなして、自分に馴染ませることが必要だと、誰もが解っているのです。

だから、解った定理があればあるほど、すぐ問題を続けてこなそうとする。そして、定理を理解しただけでは、問題は解けない。理解しただけでは、自分は使いこなせないということを、皆、ちゃんと知っています。

-国語の勉強法-

ところが、これが国語になってくると、話は急変します。

論理構築、という部分では、数学と国語の評論はとても論理の展開が似通っているのですが、演繹法も帰納法も、数学の証明問題や関数の問題だったらすんなり法則を使えるのに、国語ではさっぱりです。

そして、大きなポイントは、例えば評論で植民地思想や西洋・近代思想を勉強したとしても、その時に授業で説明を聞き、解ったら解った分だけ、自分で演習をこなそうとは思わないのです。

数学は、定理を知ったとしても、それが使いこなせるまでは練習が必要だと、ちゃんと理解している。

けれど、国語は、「理解」=「出来た」になってしまいがちなのです。

これは、とても恐ろしいことです。

【解ったという感覚がもたらす害悪】

解ったものに対して、人間は油断します。

例えば、慣れている道だと安心しますよね。何処に続くかも解っているし、毎日通っているから、慣れている。

知っている。解っている、という感覚は、安堵や安心。そして、油断を招きやすいんです。

けれど、解っていない。という感覚は、人を警戒させます。

全く見知らぬ土地。例えば、知らない言語の外国の町に一人で放り出されたとして、安心なんか出来ますか? やばい、どうしよう。どうにかしなきゃって、必死になりますよね。

それと同じです。

-解った瞬間、努力をやめる国語-

解らない時。読んでも全く意味が解らない時は、皆必死になります。




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どうして良いのか解らない。どうやって読んだら意味が解るのかと、説明を必死に聞くのですが………

理解をしてしまうと、ぱたりとそこで努力を辞めてしまう。

自分一人で理解できるかどうかを、演習しなくなってしまうのです。

つまり、スポーツで言うのならば、プレイのやり方を頭で理解した。指導された時に、一回だけ不完全だけど、出来た。

それで自分はもう出来たと思い込み、完全に身について、好きな時に出来る様になると勘違いし、何も練習しなくなる、ということ。

それと同じことを、国語では当たり前のように皆がしてしまっているのです。

「授業では解ったんだけどなぁ~」

この言葉を口にしたことがある生徒は、ほっとんどの場合、「説明を聞く」=「理解」=「国語はもう大丈夫」=「点数が取れる」と思っています。

思考、概念とは目に見えないものですから、そう思ってしまうのも仕方のない事なのかもしれませんが、それを口にしている生徒は、大抵宿題をしません。当たり前ですよね。「出来る」って思いこんでいるのだから、やる必要なんて何処にも無いわけです。

-勘違いしている子ほど自信満々-

これは小論文指導をしているからこそ気付けるのですが、面白いことに小論文を書かせると、タイプが真っ二つに綺麗に分かれます。

それは、

自信満々に書いてくるタイプと、上手く書けているかなぁ……と、疑問符を頭に付けながら出してくるタイプです。

割合で言うのならば、前者が90%。いえ、99%と言ってもいいぐらい、殆どが前者タイプ。

後者は、ほんの1%です。

理解をしている。書きたい事もちゃんとある。だから、書けるはずだ!! 自分の文章はちゃんとしている筈だ!!と、読み直しもしない状況で出してくる子が殆ど。

まだ、全く書けない子の方が、伸びが速いぐらいです。

だって、まず「あなたは解っているかもしれませんけど、書き表せてないから、それって解っていないことと同じ様に評価されますよ」ということを、理解させなきゃいけない。

なので、その手のタイプに対する私の最初の仕事は、「鼻っ柱を折る」ことから始まります。

自信を崩壊させることが目的なのではありません。けれど、一旦、自分がどれほど傲慢なことをしているのかを理解させないと、学びはありません。

「出来ない」って思っている生徒は、色んな事に素直です。けれど、「出来る」と思い込みが発生する国語という教科では、何故か皆自信満々で文章を出してくるんですね。(大概ボロボロになって帰っていきます。悔しくて泣く子も出るぐらい。泣くのは主に男の子かな。)

【解った=出来た では無い】

もしあなたが「授業では解ったんだけど、テストで結果が中々出ない」と思っているのならば、少し振り返ってみてください。

授業の時に解ったものが、時間が空き、テストの時にもう一度読んだ時に理解が出来なかったとしたならば、演習が絶対的に足りていません。

練習が足りていないのです。

家に帰り、授業を受けた文章と同じものを読み、同じ考え方。理屈に到達できるか。まとめを自分で書き表すことが出来るか。

是非、それを練習してみてください。

授業ノートと同じ解説が出来る、まとめノートが自分の力だけで作れたのならば、演習になっています。ただ、教科書の本文の書き写しなのでは無く、自分でそれがどう言う事なのか。細かく、説明でき、文章として書き表す練習を繰り返す。

それが国語の、現代文の勉強です。

ぜひ、やってみてください。

 

ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。

 

 


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