水の東西 解説 その2


スポンサーリンク

水の東西 解説、その2

【第1.2段落まとめ】

「鹿おどし」という、日本の庭園に当たり前のように置いてある、この時を刻む装置から、筆者は「時の流れ」「水の流れ」という、流れているものの存在を、せき止めることによって見事に表している、と述べています。

当たり前のようにあるもの。自分の周りに存在するものの意味をふと、立ち止まって考えてみる。

評論家の凄いところは、その何気ない風景から、それを作った人々。そして、好んだ人々の考え方や思想とは、どんなものなのだろうかと、飛躍することです。

今回は、この「鹿おどし」を切っ掛けにして、西洋と東洋の考え方の違い。水で描く造形物、創造物から、水に対しての思い。そして、精神性まで掘り下げていきます。

物事の裏側にある背景が一体なんなのか。それを見抜き、一つの意見として提示する。「評論」とは、そういうものなのだと、文章が教えてくれています。

では、続き行ってみましょう。

【第3段落】

私はこの「鹿おどし」を、ニューヨークの大きな銀行の待合室で見たことがある。(本文より)

はい。「鹿おどし」の海外進出です(笑)

日本文化を紹介する企画のようなものの中の一つだったのでしょう。筆者はその素朴な竹の音に惹かれますが、ここで奇妙な事が起きます。

だが、ニューヨークの銀行では人々はあまりに忙しすぎて、一つの音と次の音との長い間隔を聞くゆとりはなさそうであった。(本文より)

-逆説の接続詞の意味-

「だが」という、接続詞

これは、評論文を読み解くには、必須のものです。この逆説の接続詞の後に続いている部分は、筆者の主張である部分がおおい。本当に多いんです。

なので、逆説の接続詞がきたら、筆者の一番言いたいところだと思って、印を付けてください。そこだけを繋げていっても、解答になるぐらいの威力はあります。

ニューヨークの人たちは「あまに忙し過ぎる」。だから、「鹿おどし」の音の間。間の間隔を楽しむ余裕などない、と書かれています。

ゆとりは無さそうだと書いてありますが、だからといって、日本人にゆとりがあるとはいっていません。では、どうして西洋人は、「鹿おどし」をきかないのか。逆に、筆者を代表する日本人は、その素朴な竹の音に、どうして耳を傾けてしまうのか。

この些細な違いに、筆者は気が付きます。

それよりも窓の外に噴き上げる華やかな噴水のほうが、ここでは水の芸術として明らかに人々の気持ちをくつろがせていた。(本文より)

日本人である自分は「鹿おどし」の素朴な音に、癒される。

けれども、西欧人は「鹿おどし」に全く反応せず、華やかな噴水の方が、人々の心をなごませていた。

この違いは一体どこにあるのだろう。

筆者の思想は、続きます。

-評論文とは-

このように、評論文は何かしらのヒントや切っ掛けから、人々の考え。その背景にあるものを読みとっていく。推測していく。人々の心は何処にあるのか。何が正しいか、とか、間違っているか、ではなく、この現象が起きているという事は、その裏側にはこのような思想や背景がある、ということを見抜くことに、評論文の価値は有ります。

だからこそ、説明文よりも難解になるし、より深く、より広い世界の物事を論じているからこそ、読み砕くのが難解になる。

なので、無茶は禁物です。ゆっくりでいい。おおざっぱでも駄目で、一つ一つ。階段を踏み締めるように、筆者の語る内容に耳を傾けましょう。

【第4段落】

流れる水と、噴き上げる水。(本文より)

-対比表現と抽象表現-

短い一文ですが、ここで重要な書き方のポイントが隠れています。

対比表現と、抽象表現の組み合わせ。

評論家は、具体的なことから、より広い、何でも当てはまる思想。これを概念といいますが、それを書き表すために、抽象表現。いわゆる、おおざっぱな括りのまとめの表現を使います。




スポンサーリンク


そして、抽象表現と同じく、対比表現を使って、自分のこれから言いたいことの概略を述べます。

その時の対比の順番は、一つの作品を通じて、変わることはありません。

よほど特殊なことが起こらない限り、順番はきっちり守るのが評論家です。なので、その順番通りに読むこと。ルールを守ってください。

この場合、
流れる水=鹿おどし=日本。
噴き上げる水=噴水=西洋です。

ここから、この二つの違い。何故そうなるかを、順に論じていきます。

日本人は何故、「鹿おどし」に惹かれるのか。西洋人は、何故「噴水」に惹かれるのか。

その背景を探り、西洋との対比を行うことによって、日本人の精神性まで言及していきます。

【第5段落】

そういえばヨーロッパでもアメリカでも、町の広場には至る所に見事な噴水があった。(本文)

そこで、筆者は気付きます。西欧諸国を尋ねると、必ず噴水が有ったことに。

広場や庭園。公園など、つまり、人々が憩いを求めて集まる場所には、必ず噴水があったのです。

-噴水の記述-

「鹿おどし」と同じ様に、噴水の描写もしっかりとなされています。ここで大事なのは、日本の象徴である「鹿おどし」との対比です。

冒頭の、「鹿おどし」の部分は、時間の流れや水の流れの音。人生のけだるさなど、「目に見えないもの」が主流の表現です。

けれど、噴水はどうでしょうか。

有名なローマ郊外のエステ家の別荘など、何百という噴水の群れが庭をぎっしりと埋め尽くしていた。樹木も草花もここでは添えものにすぎす、壮大な水の造形がとどろきながら林立しているのに私は息をのんだ。(本文より)

何百もの噴水。壮大な水の造形が庭を埋め尽くしている。

ちょっと想像してみてください。「鹿おどし」って、こんなふうに作られていますか?

大抵、どこの立派な庭園で有ったとしても、一つですよね。数があるとしても、庭を鑑賞するためのお部屋に、一つずつ、と言った感じでしょうか。

空間を埋め尽くすほど、「鹿おどし」は作られているかというと……そうではない。

と言うことは、明らかに違うんですよね。

庭にあるもの。
文化の象徴。
人々を和ませる。
水を使っている。

「鹿おどし」と「噴水」の共通点は、上の4つ。

けれど、違いは山のようにあります。

この違いが、私達日本人と西洋人との感覚。感性の違いを、表しているのではないかと、思考は続きます。

今日はここまで。

続きはまた明日。

ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。

続きはこちら⇒水の東西 解説 その3

 


スポンサーリンク



コメントを残す

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.