水の東西 解説 その4


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水の東西 解説その4。

ここまで、すんなり読めても、この後半の数行でいきなり解らなくなる子も多い、この「水の東西」。

評論文で解らなくなった瞬間、というのは、大事な部分です。それ以外が解るから、読みとばしてしまったり、「大丈夫!」と思って後回しにしたりすると、後からとても厳しいことになります。これは断言してもいい。

下手すると、受験まで理解を先延ばしする子もいます。

解らなくなった瞬間、というのは、あなたが伸びる瞬間です。成長する時に、人間は必ず壁にぶち当たる。だから、その壁をよじ登ってみましょう。
(参照⇒辛い時は成長している時 楽をしている時は落ちる時)

【伝統とは】

昨日までのエントリーで、「鹿おどし」と「噴水」に見る、日本と西洋の伝統の違い、というものを読んできました。

伝統とは、昔から受け継がれてきたもの。目に見えるものも、目に見えない精神的な部分も全て含めますが、主に精神的なもののことを指す意味合いが強いです。

私達日本人は、挨拶の時におじぎをする習慣があります。誰かにその場で「しろ」と強制されている訳ではないのに、自然と「おはようございます」「こんにちは」と言いながら、軽く頭を下げる。けれど、西洋人はおじぎの変わりに、握手をする。仲の良い相手だったら、ハグをする人も居ます。

それがなんとなーくカッコいいなぁ、と思って、形だけ真似てみようとします。すると、どうなりますか?

西洋人相手だったらまだ良いでしょう。けれど、日本人相手に、おじぎをやめ、握手を求めたり、ハグをしたりとしても、なじむでしょうか。

しっくりいって、皆もそれをしだすでしょうか?

しないですよね。これだけ国際化が進み、西洋の文化を知っても、日本人はずっとあいさつの定番はおじぎです。

それが悪いと言っているのではなく、伝統や文化などはそう言うものだと、筆者は言っているのです。表情が乏しい。つまり、なじまない。しっくりこない。

どれほどそれが良いと思って真似をしても、身に馴染まない。それが「伝統の恐ろしさ」だと。

日本人の女性が、西洋風のドレスを着ても、やっぱりどこか違和感が残ります。
それは西洋の女性が着物を身に付けていても、同じでしょう。

形だけ真似ても、どこかぼける。そぐわないし、肌になじまない。間が抜けているように感じてしまう。感覚は、本当に残酷で、でも正直でもある。

どこか無理をしている。なんとなく、合わない。そう思ってしまう。

理屈ではなく、長い時間。それこそ、何千年と積み上げてきたものの感覚と言うものには、嘘がつけないのだなと、筆者は感嘆しているわけです。付け焼刃は、通用しない、と。

良いか悪いか、ではなく、伝統とはそういったものなんだと解ることで、自分達が何を重んじ何を大事にしてきたかも、同時に理解出来ます。

多様性のこの時代。伝統を理解することは、決して悪いことではありません。何が自分達に合っているのかを、その精神性から紐解いていきましょう。

では、続きです。

【第9段落】

-形而上と形而下-

言うまでもなく、水にはそれ自体として定まった形はない。そうして形がないということについて、おそらく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。(本文より)

ここで、高校現代文において、とても大事な観念が出てきます。

それは、目に見えるものと目に見えないもの。

これを専門用語で、形而上(けいじじょう)、形而下(けいじか)と言います。

形而上が目に見えないもの。
形而下が目に見えるもの、です。

この違いを説明するのに便利なのが、人間の身体です。

棒人形の人間を書いて、その首の部分で横線を引っ張ってください。

人間の身体を、頭と胴体で上下に分ける感じですね。で、その線から上が、形而上。頭を指しているので、精神性や、思考、目に見えないもののことを指す。
その線から下。胴体のことを、形而下。実際の肉体や、物体。目に見える物質的なものです。




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よく、幸せは形而のモノであり、形而下に恵まれても人は悲しみを感じる時がある、なんて文が評論文に出でくるんですが、なんとなーく雰囲気で解っても、具体的には何を指しているのか解らない部分ですよね。これ。

これを噛み砕くと、幸せって精神的なものだよね。幾らブランド品に囲まれていても、孤独だったら幸せじゃないし。

ってこと。言い換えれば、物凄く簡単だし、「ああ、確かに!」って思える様なことを、単に評論文の用語で書いているだけなんです。

この言葉の知識ってすごく大事。

形而上、形而下は、この「水の東西」では使われてこそいませんが、内容はこの二つの言葉の対比と言っても良い。

形がないことにたいして、日本人は独特の好みを持っていた、と書いてあります。

つまり、形がない=精神的なもの=形而上ということ。

形而上のものに対して、日本人は西洋人とは違う、全く独立した好みを持っている。好み=感性です。理屈ではなく、瞬時に解っちゃうもの。勘と言ってもいいです。

何に馴染み、何を好むのか。

それが日本人は独特だと。特に、形のないもの。精神的なものに対しては、本当に独特だと言っています。

-行雲流水-

「行雲流水」という仏教的な言葉があるが、そういう思想はむしろ思想以前の感性によって裏づけられていた。それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、形なきものを恐れない心の現れではなかっただろうか。(本文より)

「行雲流水」とはなんぞや??

と成るかもしれませんよね。言葉って本当に怖いです。何となく解る様な気になってしまい、通り過ぎてしまうけれど、実際は違ったりする。だからこそ、辞書をひく習慣はとても大事です。少しでも「んっ??」と思ったら、確認する。覚えなくて良いです。むしろ。覚えなきゃいけないと思うと、ひくのが億劫になるので、捨ててください。確認する回数が多くなれば、勝手に覚えます。(参照⇒「覚えよう」と思った瞬間に、覚えられない不思議。記憶は楽しんで覚えるのが吉。)

「行雲流水」とは、仏教用語と言われている様に、観念的な、精神的な意味を持つ言葉です。

風の流れにそって行く雲の様に、流れる水のように、物事に執着せず自然の成り行きに任せてすすむことのたとえ。また、一定の形をもたず、自然に移り変わってよどみがないことのたとえ。

それが、日本人の好み、感性だと、いうんですね。

深く執着すると、必ず澱みます。簡単にいうと、受験なんかも入るかもしれない。絶対に「この学校!! 受からなかった人は、駄目な人生を歩む」なんて決めつけていると、落ちた時に地獄の苦しみだし、第一受験時期に、とっっっっっても辛くなります。

深く執着するって、決めつけること。自分の思考を固定してしまうことにも繋がってしまう。それは、あんまり私達の好みじゃない。

どちらかと言うと、私達の好みって、物事に執着せず、時の流れに身を任せて、一定の形を完成形だと思わずに、その場その場で心地よい場所へと流れていく。それは努力をせずに、流されていく、と言うことではなく、様々な受け取り方を自分に許すということにも繋がる思想です。

この考え方が西洋になく、東洋思想とも違い、日本のみに際立っているのは、恐らく土地的な風土の影響でしょう。

私達の祖先は、長い間自然災害に悩まされてきました。

長年苦労して積み上げてきたものが、地震によって一瞬のもとに崩れ去る。台風で吹き飛ばされる。大雪で潰される。火山の噴火で住む場所を奪われ、津波で全てを押し流される。

こんな自然災害満載な国って、ないです。世界中、どこをみても、ここまで毎年毎年、苦しめられている国は滅多にない。

歴史的にそうなんです。でも、見た目を変えれば、だからこその恩恵も沢山受けている。豊かな四季に恵まれ、植物も豊富にあり、何よりも海の恵みや山の恵み。何よりも、水に恵まれている。

深く物事に執着しても、一瞬のうちに自然に押し流されてしまう。

けれど、それでも人間は生きることを諦められない。生き続けたいと思ってしまう。ならば、成り行きに任せよう。その自然のなかで、合わせて生きていこう、という独特の精神性が生まれ、根付き、そして伝統として私達の身体の中に馴染んでいる。

だから、形のない水を、造形物のように扱うことには、違和感がある。美しいと心の底から思っても、肌になじまない。噴水がどこか間抜けになってしまうのは、そういうところに原因があるのではないかと、筆者は述べています。

-思想と感性-

思想以前の感性的なもの、という言葉がありますが、この思想と感性。

する、っと読んでしまうと流れてしまいますが、ここも重要なポイントです。

思想とは、心に浮かんだ考え、と辞書には載っていますが、感性と対比すると、違う意味合いが出てきます。

それは理論だてて考えると言うこと。理屈、論理的な思考で、系統立てて、体系的に理解すると言うこと。構造を理解する、と言うことですね。科学的に、目に見える形でしっかりと把握すること。

けれども、感性は違います。

感覚で解ること。ぶっちゃけ好ききらいです。

解りにくかったら、好きな食べ物と、嫌いな食べ物、思い浮かべてください。それを、理屈だてて系統立てて、誰でも理解できるように説明って出来ますか?

無理ですよね(笑)

納豆だいっきらい、って人も居れば、大好きな人も居る。

見ただけで生クリームなんて吐き気がする! って人も居れば、生クリーム見るとテンションあがる女子も居るわけで(笑)好き嫌いって、理屈じゃないんです。思想じゃない。感性です。

だから、私たちが物事に執着せず、形のないものを好み、よどみがないことを好むのは、理屈ではなく、感性だと。

そういう感じ方が、好きなんだ。それはもう、理屈じゃない。

そう言っているのです。

-形なきものを恐れない積極的な姿勢-

そして、その感性を培っているのは、私達が住んでいる日本の環境です。

災害大国である日本。積み上げたものも、一瞬で崩れ去る土壌の上に、私たちは住んでいます。

だからこそ、その現象をありのままに受け入れるために、流れに身を任せるように、地震が来るんだから仕方がないよと諦めるんじゃなくて(受動的)、地震が起こる土地なんだから、それに合わせた感覚を持とうと、積極的に形無いものを好んだ、能動的な行動が、私達の感性をはぐくんだのだと。

災害が起こるから仕方がない、と投げやりになるのではなく、災害が起こるのだから、それに合わせて何が出来るだろうと、科学技術の発達していない、災害が起こるメカニズムなど知らない世界で、皆が積極的に前向きに生きていくために、考え方を変えていった積み上げが、私達の伝統や感性を作り上げた。

だからこそ、形のない水で何かを象ろうとは思わないし、またなじまない。むしろ、形なきものの存在を感じさせてくれる。感覚に訴えてくる、目に見えない物を私たちは愛するのではないか、と筆者は意見を投げかけています。

 

明日は最後の部分を解説します。

表面上はただの数行ですが、その背後に隠れている論理はとても深いものです。ゆっくりと理解していきましょう。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

続きはこちら⇒水の東西 解説 その5


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