脳や「からだ、この遠きもの」 解説その3.(解説その1 その2)
【前回までのまとめ】
私たちの身体は、物質として捉えた場合、とてつもなく異質です。その異質さを2つ。具体的に取り上げてみました。
-調子がいい時は透明な身体-
身体は本当に不思議なものであり、異質な物質です。
身体の調子がいい時は、全く持ってその存在を感じさせません。
その存在が強烈に意識されるのは、身体が不調の時だけです。それが急に襲ってくると。例えば、指の感覚なんて別段そこまで感じるものではないはずなのに(本来は、人間の手の平の感覚って、機械でも再現できないレベルの正確さがあるようですが、それを私たちは問題が無ければ、全く感じないのです。)切り傷や擦り傷を負ったとたん、その指先に流れている血流すら感じ取れるほどになってしまう。
傷が無ければ、そこに血が流れている感覚すらないはずなのに。
そんな、異質な行動が起きた時だけ、その存在感を増す、という他の物質にはない特徴が身体には有ります。
-持っているのに自由に出来ない身体-
更に、所有という概念から考えると、もっとおかしなことになります。
所有って、自分の自由に出来る物のことを指すはず。
けれど、私たちの身体は、私たちが所有しているし、それはまず間違いないはずなのに、自分の思う通りに動かすことなんか出来ません。
物理的に、出来ること出来ない事もそうなのですが、内部の臓器を自由に動かす、なんてこと。出来ませんよね。
心臓、この瞬間に止めたり動かしたり、なんてことも出来ない。出来ない物だらけなんです。私たちの身体って。
なのに、所有しているものとして私たちは認識している。
自分の自由にならない。むしろ、不自由さを与えるものでもあったりするのに、「持っている」という所有している感覚はある。
その点で、他の物質とはやはり違ったものなんです。私たちの身体は。
身体の異質さは、この2つだけにとどまりません。その例示は、続きに書いてあります。続きを読み、身体の異質さを確認していきましょう
【第6~7段落】
-身体は伸び縮みする存在-
身体は皮膚に包まれているこの肉の塊のことだ、と、これもだれもが自明のことのように言う。が、これもどうもあやしい。(本文より)
身体って、どっからどこまでなのでしょうか?
は??そんなこと、自分の身体の表面までじゃないか!! と思いますよね。
でも、私たちの「意識」は実は、身体のことをそうとは思っていないのです。
次のことを考えてみてください。
・裸足じゃないのに、歩いている時、靴の下がアスファルトか土か、砂利道かが解る。
・テニスとかバドミントンとかをしている人だったら、ラケットの先で届く範囲が、段々解ってくるように。
・車・自転車など乗り物を運転していると、自分の身体の幅だけでなく、その乗り物の幅自体が測れてくるようになってくる。
ってぐらい、自分が触っているものや、意のままに扱っているものまで感覚が伸びている。まるで、ラケットの先まで自分の腕みたいな感覚や、触っているハンドルの先にある、タイヤの感覚まで感じられる。
そんな不思議な感覚を私たちは持っている。
-身体空間≠物理的な身体の体積-
身体に占める空間はさらに、わたしのテリトリーにまで拡張される。(本文より)
まだあります。
通勤・通学ラッシュの満員電車ってなんであんなに辛いのでしょうか………
人混みも大っ嫌いって人の方が、多いですよね。実際。
人の身体の感覚が、本当に皮膚までであるのならば、そこに触れられない限りは大丈夫なはずなのに、親しくない人にそばに座られると、不快になってしまう事って、誰にでもあります。
触れられなくとも、特に理由もないのに誰かに傍に来られると、「何で?」と混乱しますよね。混んでいるならまだしも、空いているのに傍に来られたら、それだけで「はぁっ??」と不審な目を向けてしまいそう……(笑)
そう。私たちの身体は、人に入ってこられると不快なエリアが存在している。と言うことは、身体の感覚が実際の身体以上に伸びたり、縮んだりしている時があるのです。
このようにわたしたちの身体の限界は、その物体としての身体の表面にあるわけではない。わたしたちの身体は、その皮膚を超えて伸びたり縮んだりする。(本文より)
伸びたり縮んだり………某、海賊王になりたい麦藁の人ではありませんが、人間ってそういう感覚を誰もが持っているのです。
身体空間は物体としての身体が占めるのと同じ空間を構成するわけではないのだ。(本文より)
ここで言葉の表現をチェック。
些細な違いでも、評論家にとっては大きな違いです。表記を徹底的に分析するのは、国語の点数が欲しい、評論文が解るようになりたい私たちには、絶対に必要な手順です。そこで、読み飛ばさない。いい加減にならない。
めんどくさいけどね(笑)でも、欲しい物のために、振り返りましょう。
身体空間とは、何なのか。
これは、筆者が考える、「私たちが自分の身体のなかにはいるもの、と思い込んでいる空間」のこと。
伸び縮みする空間のことです。
物体として、身体が占める体積と、私たちが身体だと思っている空間は、本当に違う。
例えば、家や部屋の中が身体空間だとしたら、そこに誰か部外者が居たら、不快どころか通報ものですよね。(笑)
物理的な身体の体積と、私たちが「身体」だと思っている空間は、本当に違うんです。
これがプライベートな空間になると広がって、公共性の高い空間や、混雑しているなどの条件が加味されると、狭まったり、縮んだりしていく。
-常に変化し続けている私たちの身体-
で、更に身体の異質な部分は続きます。
今度は、時間的な身体の感覚です。
身体はまた、時間的な現象でもある。(本文より)
また、訳のわからない事を……と思いたくなるのをぐっと我慢して、考えましょう。
身体って、時間の積み重ねで出来ている、ということです。ほら、単純になった。
髪や爪が伸びるように、私たちの身体は常に細胞分裂で古いものが捨てられて、新しいものに代わっていますよね。
更に、身体って素直で、ちゃんと積み重ねた行動を記憶してくれます。
英単語とかを覚えるとき、最強の覚え方って、ぶつぶつ呟きながら、手でスペリングを書くことなんですよね。(人目が多いところでやったら、変人扱いされる覚え方だけど、ね)
これは、視覚、聴覚、触覚、の3つの感覚を使っています。
だから、記憶に残りやすい。更には、指先の筋肉で書いてもいるので、書いている量が多ければ多いほど、身体はそれを記憶して、次から次へと記憶する。
脳内で記憶するには、身体を動かさないと駄目だというのが、皆なんとなく経験上で解っているけれど、改めて言われると確かに身体って、記憶しますよね。
-記憶はこころではなく、身体に刻まれている-
筆者、鷲田さんは、「こころは見える?」でも、こころは身体のしぐさに現れて見えるものだと解説しています。
こころと身体はリンクしている。そして、記憶も、頭ではなく身体がしているもの。
そう考えると、勉強って自分の身体に覚え込ませているものなのかもしれません。だから、ある程度の時間が必要になってくる。
身体に覚え込ませる必要があるから。
だから、メモを取らないと、覚えられない。書かないと、記憶できない。
耳が痛い話です(笑)
身体の運動のなかに記憶は書き込まれているのである。このように身体の存在を、いま・ここという経験の中心に限定すること、あるいは皮膚に包まれたこの物質的な身体の占める空間に限定することは、どうも身体についての抽象的な考え方のようである。(本文より)
抽象的な考え方って、今のこの場では「頭だけで考えていて、具体性が無いこと」と捉えます。
ある意味、悪い意味としてここでは使っていますね。
具体的に考えていると、私たちが身体に対して抱くイメージと言うのは、曖昧で、とてもふわふわしたものになってくる。
その曖昧な考え方の最たるものが、
・身体の存在を物理的な皮膚に包まれた存在として限定すること。
・いま、この瞬間の経験しか覚えていないもの、として限定すること。
これを、ちょっと違うのではないか、と筆者は言いたいわけです。
これは、本当に納得。
苦手な場所とか苦いな人って、その場で嫌なことがあったのではなくて、以前に「嫌だなぁ」と思うことがあったはず。
それを身体が記憶しているんですね。だから、勝手に身体が委縮してしまう。
なので、筆者の考えは逆だと考えればいい。
・身体の存在は、皮膚に包まれた部分に限定されないものである。
・私たちの身体は、経験を記憶し続けていく存在である。
が、筆者の考えだと言うことです。
この否定部分をくみ取るのが、とても大事になってきます。
だって、そこさえ解れば、筆者の意見は逆なんだって無条件に解ってしまうので。
チェックしてみてください。
【今日のまとめ】
-私たちの身体に対する常識は、抽象的=あやふやなもの-
こうして読んでくると、非常に当たり前のことばかり。
私たちは自分の身体について考えるとき、とてもあやふやな考え方しか持っていないということが、解ります。
徹底的に具体的に考えることの大事さが、哲学であり、見えない、気付かない部分に気付く道筋なんだと解ります。
明日は、決して自分の目で見ることのできない身体の異質さ。それがもたらす、人間の行動への影響に迫っていきます。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
続きはこちら⇒身体、この遠きもの 解説その4
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