身体、この遠きもの 解説その4

身体、この遠きもの
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「身体、この遠きもの」 解説その4
(解説その1 その2 その3)

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【前回までのまとめ】

 

-私たちの身体は物質として異質なもの-

精神との対比ではなく、「物質」として捉えた時、私たちの身体はとても異質な面を持っています。

不思議なのは、この「異質性」を私たちは「異質」だと思っていない事。

当然のことと思っているのですが、筆者の意見を読んでいると、本当に「おかしい」ということが解ってきます。

-透明な身体-

調子がいい時。私たちの身体は「透明」です。

つまり、違和感がない。全く意識の上に上がらない。

ならば、意識の上に上がるのは何時なのか。そう。体調が悪くなった時や、怪我をした時に、初めて不便を感じ、肉体を意識する。

そんな物体は他にありません。動かない時の方が存在感が増す。

そんな性質を筆者は「透明」と表現しました。

 

 

-所有物なのに、自由にならない身体-

「所有」という考え方は、「自分の自由に出来る」ということです。

けれど、私たちは自分の身体を確かに所有しているはずなのに、自由に出来ません。

心臓、自分の意志で止められない。
肺の機能のも止められない。

そんなとんでもない内部のことだけではなく、単純に体育の時間でも、思った通りに動かない自分の身体にじれたり、どうしてなんだろうと思ったりした事って、誰にでもあると思います。

そう。自由に私たちは自分の身体を動かせない。

所有しているのに、動かせないんです。

-身体は伸びたり縮んだりするもの-

そして、物理的な身体の占める面積以上に、私たちは自分の身体を伸ばしたり、縮めたり出来ます。

えっ? と思うかもしれませんが、これは本当。

本当に伸ばしたり縮めたりが出来てしまう。

自分のテリトリーだと思っている空間で、誰か他者が居た場合、それが見も知らぬ人だったら不快に感じてしまうことがある。それって、空間そのものに自分の感覚が広がっていることを示します。

その他にも、色んなものに自分の身体の感覚を伸ばす事が出来てしまう。車や自転車の運転。自分の意のままに操れるもののことを考えたら、解りやすい。

私たちの身体の感覚は、伸びたり、逆に満員電車のような圧迫されるような場所だと縮んだりもするのです。

身体と、自分の感覚が伸びたり縮んだりする身体空間は、違うものになる。

-身体は時間を記憶する-

そして、身体は時間を記憶します。

スポーツマンがどうしてあんなに熱心に毎日練習をするのか。それは身体に記憶させるためです。

無意識でも、何も考えなくても出来るようにするためです。

私たちも記憶を呼び戻す時、暗唱した文を口にしたり、覚えた漢字を指を動かす事によって、記憶を呼び覚ましている。

私たちの身体は、記憶するものでもある。

-抽象的な身体の捉え方-

これらの考え方は、抽象的。曖昧な身体の捉え方です。

つまり、イメージとしての身体の捉え方。感覚めいたものです。けれど、それらを使って身体を捕えようとしても、それ以外の例示が無数に沸いてくる。

物質として身体を捕えるのは、とても難しい。

ならば、抽象の反対。具体的に考えれば、良いのでしょうか? 今度は具体的に身体を捉えたらどうなるのか。

 

じゃあ、抽象の反対。具体的に考えれば、良いのでしょうか?

続きを読んでいきましょう。

【第8~11段落】

私たちは鏡を見ずにはいられない

-具体的な身体は、不完全にしか見えない-

物質の塊としての身体、わたしたちはこれを、もっとも具体的な身体として考えるくせになっているようだが、改めてよく考えてみれば、そういう物質体としての「具体的」な身体をわたしはきわめて不完全にしか知覚できない。(本文より)

身体を不完全にしか知覚できない。

知覚とは、五感のことです。目・耳・鼻・口・肌。それぞれの感覚器官で物を知ること。認識すること。

けれど、目で身体を見ることは、完全には出来ません。鏡やカメラを使わなければ、私たちは自分の顔を正面から見ることすら出来ない。

耳でも、身体の全ての音を聞くことは、到底出来ません。心臓の全ての音を聞けていたら、漫画の世界ですよね。居るのかな(笑)

鼻は、身体全ての香りをかぎとれはしないし、案外人は、自分の体臭には無関心だったりします。自分のものには気がつけない。何故ならば、身近だからです。

口も味わう味覚は、目で見ることは出来ません。

そう。身体って、改めて考えてみると、解らないことだらけなんです。

 

-もっと怖い事実-

いや、もっと怖い事実がある。他人がわたしをわたしとして認めてくれるときのその顔、それをわたしは終生、じかに見ることは出来ない。(本文より)

そして、何より怖いのは、こころは見える? 解説まとめ でも解説したように、身体の動き。特に表情の動きやしぐさに心が見えると筆者は解説しているのに、心がそれことだた漏れで現れているはずの表情を、私たちは自分の目で確認することが、直接には出来ないのです。

今、ここでこうしている瞬間にも、私たちは自分の顔を自分で確認することが出来ない。

1番相手に情報量を与えるものを、相手に晒して、それを自分で確かめることが、物理的に不可能なのです。

これは、とても無防備なことです。

自分で確認できることのできないもので、常に相手と面している。相手に、情報を渡し続けている、ということになるのですから。

 

-人間が鏡を必要とする訳-

それを恐れて、わたしたちは、表情を繕い、化粧をし、たえず鏡をのぞき込んで、自分の顔を微調整する。(本文より)

鏡は太古の昔から存在しました。

現在でも、基本的な機能は同じです。自分の姿をそのままに映し出す。

こんなに鏡が普及しているのは、本能的にそれを人間が求めているからです。なぜか。

それは、自分の身体が。表情が、無防備にさらされている事を知っているからなのでしょう。だから、写真の写り具合や、良い悪い。自分の思い描いているイメージとの違いに、一喜一憂してしまう。

そういう意味では。現在のわたしたちのように素顔を外にさらすよりも、ヴェールで覆っておくほうが、よほど理にかなっているように思われる。(本文より)

理にかなっている=道理的。合理的、ということ。

人前に顔を晒すと言うことがそんなに気になるのならば、仮面やヴェールで覆っていた方が、安心してコミュニケーションが取れるのではないか。少なくとも、不安は取り払われるし、無防備な状態ではなくなるのだから、その方がよほど合理的だし、不安が無い。

有りますよね。マスクやサングラスなどで顔の一部を覆っている時、なんとなく安心している自分を感じたことが。

無意識に、誰の前に立つと緊張してしまうのは、無防備あること。自分で自分の表情をコントロール出来ていない事を、解っているからかもしれません。

だからこそ、わたしたちは、自分の存在を確固としたものとして感じられるように、まさにわたしがそれであるところの身体を、たえず確認しつづけていようとする。(本文より)

不安だから、確認する。

これは、テストの時を思い返してみれば、良く分かることだと思います。

自信のあるものって、確認しませんよね。確認するのは、自信のない時だったり、不安だったり、あやふやな知識の時だけです。

と言うことは、鏡があるたびに自分の容姿を確認したり、外見や身だしなみを整えたり、服を着て身体のラインを補強したりすることは、言ってみれば「身体が不安定で、不安なもの」だから、ということに行きつきます。

-想像される一つの像としての身体-

私たちは、自分の容姿で悩みます。

外見について。容姿について全く不安が存在しない人など、この世には存在しないでしょう。

・プロポーションは良いか。
・顔がおかしくないか。
・色はどうか。
・化粧はどうか。
・髪は薄くないか。etc…..

挙げて行けばキリがないほどに、悩みは尽きません。

過剰なくらい飾り立てたり、固定観念に縛られ続けていたり、捉われてしまったり。

容姿、外見に関しては、どんな人でも問題ばかりです。

このようにわたしと身体の関係が、わたしが抱く身体のイメージや観念を通して、もつれたり、かたよったり、硬直したりするのは、身体がわたしにとっては知覚される物質体であるよりもむしろ、想像されるひとつの<像>であるからだろう。(本文より)

不完全なもの。欠けているものに、人は興味関心を抱く。想像で、その欠けている部分を埋めようとする欲求が出てくる、という評論文は多く存在します。
(参照1⇒ミロのヴィーナス 解説その6 まとめ)
(参照2→物語るという欲望 解説その6 まとめ)

と言うことは、不完全な物に対して、私たちは「想像」する、という機能が備わっている。

だから、身体に関しても、全てを観ることは不可能。不完全。だから、理想的な<像>という、理想図を描いてしまう。

その理想図に近づけたい。または、そこからずれていると大変だから、整えようと必死になっていく。

そう。

わたしたちの身体は、想像上にしか存在しない理想的な<像>であって、実際の物ではない。

だから、拡大したり、めり込んだり、記憶するものであったり、透明な存在であるのも、全て、ここにある。

想像上のものを、私たちは常に自分の身体に対してイメージを持っているから、実際のものとはズレが生じ、近い物の存在で有るはずなのに、遠くしている。

そんな矛盾が、通用してしまうのが、「身体」なのです。

-最も近くて、最も遠いもの-

じぶんがそれであるところの身体がじぶんから遠く隔てられているということ、身体とのぎくしゃくした関係のすべてはそういうわたしたちの存在条件に因る。(本文より)

遠く隔たりのある友達の関係って、奇妙にぎくしゃくする時がありますよね。

実際の身体と、自分達が想像で描く、理想的な身体の<像>

それが遠くなっていればいるほど、ぎくしゃくしてしまう。

理想図が遠ければ遠いほど、そのギャップに苦しめられる。

誰にとっても、自分の身体は近くて、そして、近いが故に、その全てを知ることは出来ない存在なので、その不完全さゆえに想像が働いてしまい、実際の像とのズレに苦しめられる。

そんな存在であると、筆者は「身体」を定義しています。

【まとめ】

-近くて遠い、異質な身体-

物質体として、極めて特殊なわたしたちの身体。

抽象的にとっても、具体的にとっても、そこには矛盾が生じます。

その矛盾が生み出される正体を、筆者はわたしたちが身体に対して抱く想像上の。理想的な<像>があるからだと、結論付けました。

理想的な姿を思い描けば思い描くほどに、矛盾が生まれて行く。

想像は、あくまで想像です。実物では有り得ません。

だからこそ、近い存在のはずなのに、果てしなく遠くなる、という矛盾が生じてしまうのです。

では、次はこの評論文のまとめです。

東大入試にも選ばれた有名な評論なので、じっくりと振り返っていきましょう。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

 

 

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