知の体力 解説 その1

知の体力
khamkhor / Pixabay

今回から、数研出版の国語総合 現代文編に収録されている永田和宏さん著の「知の体力」を解説します。

高校1年生が最初に読む文章として選ばれている評論文ですが、内容はいたって簡単な構成となっています。

スポンサーリンク

【評論文の構成】

-一般論の呈示⇒一般論の否定⇒筆者の主張-

まず、評論文、というものの形に慣れましょう。

評論文は、簡単に言うと、書いている人。筆者が、「自分の言いたいこと」を思いっきり強調して書く文章のことです。

で、この強調する、というのがポイント。

何でもかんでもそうなのですが、インパクトが強くないと、読んでくれる人の心に残りません。筆者は、一人でも多くの人に、自分の意見を知ってもらうことが目標なのですから、やっぱり「見せ方」って大事になってくる。

映画やドラマ、漫画、アニメ、ゲーム、何でも構いませんが、ストーリー性があるものって、やっぱり冒頭の部分でどれだけ読者を惹きつけられるか、に懸ってくるんです。

だから、最初っから道徳の授業みたいな、「あーあ、どうせ勉強しろってことなんでしょ。そんなの解ってるからもういいよ。聞きたくないよ」みたいな内容をずらずらっと並べても、興味なんか湧くわけがない。

それは筆者もちゃんと解っている。

けど、ちゃんと自分の話を聞いてほしい。なら、どうするか、って方法を考えた。書き方、見せ方を工夫したんです。

この見せ方の順番を理解しておくのとそうでないのとでは、大きな違いが生じます。

何故なら、最初は内容が然程難解ではないので、読んでるだけで理解できるのですが、内容が難解、または自分の全く知らない分野になってくると、戦えなくなってくる。

その時の為に、やり方を学んでおきましょう。

この論の展開は、定番中の定番です。センターや大学受験の文章でも良く出題されるので、頭に入れておいてください。知っていれば、難解な文章でもどこを読めばいいかが、良く解ってきます。

論の展開の順番は、

その1 常識と思われている一般論の呈示。
その2 その常識をボロボロに否定する。徹底的に、容赦なく。(笑)
その3 一般論とは違う、筆者の主張を呈示。

という、順序で行われます。

 

-一般論を否定するのは筆者の言いたいことを強調するため-

面白いのですが、人は自分の常識をくつがえされたときに、深くその言葉が印象に残るものです。

「えー!! そうだったの???」

という、意外性のマジックですね。

自分が思い描いた常識を否定されると、「だったら答は何なんだよ。教えてくれよ」という欲求が湧く。筆者は、これを利用して書いているわけです。

「あー、つまんない。もう読まないでおこう」

って思われるのが一番嫌なことですから。

だからこそ、「どうやって一般論を否定してくれるのかな♪」ぐらいの感覚で読むと、面白いかもしれません。ええ、そりゃもう徹底的に否定しますから。

その後の、自分の意見を「正解だよ~」と示す為に(笑)

この構造を解っていると、どこをどのように重点的に読めばいいかが、理解できるようになってきます。

評論文を読むときには、まず、一般論(常識)を探す。

それを否定しまくった後に、筆者の主張が出てくる、という順番を、忘れないでください。

 

では、本文を読んでいきましょう。

 

【第1~7段落】

目的⇒解決をしてくれる、とっても便利な道具。勉強って、これですかね?

 

-「どんな役に立つのか」という質問-

私たち研究者も、ときにプレスリリースというものをすることがある。(本文より)

プレス=報道、という意味です。

報道機関に向けて、発表会をする時がある、と書いてあります。研究者がやることは研究で、それをまとめたのが論文。その論文を発表するのは、大概学術誌なのですが、重大な研究発表だった場合、報道関係者の前で内容を説明する時があるんですね。

その場で必ず質問されるのは、その研究がどんな役に立つのかという点である。(本文より)

国の研究機関として研究しているのであれば、その原資は国民の税金です。

ならば、それは国民に還元、つまり返さなければならない。

国民の税金を使って研究をしているのだから、国民の利益になるような。つまり、私たちの生活が楽になるような発見なのですか? という質問が必ずされるのは、ある意味当然なことです。

というよりも、国もそれを期待して研究所を開いているわけですから、この質問に対して、筆者は否定を全くしていませんし、むしろ当然だと受け止めています。

この「質問」に、対してはね。(笑)

-「役に立つ」ばかりに焦点をあてる思考パターンに対する疑問-

しかし、何かをやるとき、あるいはやったとき、すぐにそれが役に立つかを考えるという思考パターンについては、私は若干の疑問を持っている。(本文より)

はい、来ました。

「しかし」という、逆説の接続詞です。

一般論の否定がここから始まります。

この「しかし」「だか」「けれども」という逆説の接続詞。その後は、必ず筆者の主張や、強調したい意見が隠れています。

それをしっかりと理解しましょう。読みやすくなりますし、まとめる時に逆説の接続詞の後だけを書きだして並べてみると、論の展開が解りやすくなります。

「これやったら何の役に立つのかな」

そういう思考パターン。つまり、考え方の型、ですね。

一部は確かに必要かも知れないけど、ずっとそうやってばっかり考えていると、全部がそのパターンにはまっちゃうよ、と警告しているわけです。

人間は慣れの動物です。

思考のパターンも、目に見えないけどパターンにはまってしまう。

「役に立つかどうか」ばかり物事を考える事は、筆者にとっては凄く嫌なこと、なんですね。

-目的・目標と対になってしまった勉強-

勉強について、それはより顕著であろう。勉強しなさいと言われる。なぜ勉強しなければならないのか。それはいい成績をとるため、というのが最も端的な答だろう。(本文より)

本文にも書いてある通り、こんなこと、耳タコですよね。

良い成績を取るために。
良い高校or大学に入るために。
良い就職をするために。
将来の為に。etc,etc,etc,,,,,,

これを逆に使うと、「勉強しないといい大学に入れませんよ」という脅し文句にもなる。

テスト前に何故こんなにも勉強するのか。

「テストやばいから」
「成績とらないと、やばいし」
「えっ? テスト前って勉強するの、当然だよね?」

とか、授業をしていると(特に古文や漢文ですが……(笑))「先生ーっ!! そんなこと勉強して、将来、なんか役に立つんですか―???」という質問が必ず飛んできます(笑)

皆も、思ったことありませんか?

「こんなことして、何の役に立つんだよっっ!!」って。

ちなみに私は現役の時に、そう思ってました(笑)おもに、数学に対して。(参照⇒数学のススメ ~数学偏差値学年最下位だった私が、高等数学をやり直したわけ その1~)

でも、筆者はこの考え方が嫌だと言います。

というよりも、この考え方。思考パターンにはまっていると、とんでもないことがやってくるよという警告でもある。

-大学に入ったとたん、学ぶことの意義を見失う大学生が多い理由-

しかし勉強というものは、大学に入ってしまえば終わりというものでは、もちろんない。むしろ、高校を卒業してからが、本当の勉強であるとも言えるのである。(本文より)

「本当の勉強」とは、どんなものであるのか。

それは、まだここでは語られていません。

そして、この「本当の勉強」のやり方を。「本当の勉強の思考パターン」をちゃんと身につけよう! というのが、筆者の主張になります。

つまり、これは違う言い方をすれば、「役に立つから勉強する=間違った勉強の仕方・間違った思考パターン」なのです。

これ、本音を言えば、この文章を教科書の最初に持ってきたのは、「何の役に立つんですか?」という、生徒たちの声に答えるのが面倒だから、ちゃんと理解しておこうねと学校側から言われているような気がするのは、私の性格がねじ曲がっているからでしょうね。うん、そういうことにしておこう(笑)

勉強=目的達成の手段、としてしまうと、目的を達成したらそれはいらないものになってしまうんですね。

だから、大学合格、や、高校合格、を達成してしまうと、一気に何もやらなくなってしまう。

大学生が、合格したとたん勉強をしなくなるのはこのためです。

目的達成したから、もういいや~ってなっちゃう。

目的とあまりにも、対になってしまった。

そのことの、危険性を筆者は指摘しています。

勉強は、むしろ学生時代よりも社会人になってからの方が。もっと言うのならば、人間は死ぬまで基本、学生です。生きている限り、学びは終わることがありません。

何故ならば、私たちの脳がそういう構造になってしまっているのです。(参照⇒脳科学者 茂木さん著の評論解説 可能無限 解説 その9 まとめ)

けれど、「勉強=役に立つもの」という思考パターンが出来あがってしまうと、「役に立たない=しなくてもいいもの」というパターンにはまってしまい、何も吸収できない人間になってしまうし、目的が達成されてしまうと、燃え尽き症候群のように、何もできない、モチベーションも湧かない人間になってしまうのです。

 

-学ぶことの本当の意義とは-

ところが、勉強があまりにも目的と対になって身についてしまったために、大学に入ったとたん、学ぶということの意味と意義を失ってしまう学生が多すぎるように思うのである。(本文より)

大学合格、高校合格、就職試験の合格が目的であった場合、勉強はその為の手段ということになってしまいます。

目的が達成されれば、手段はいらなくなります。

けれど、「勉強」「学び」とは、それだけで終わりなのでしょうか。

そのあまりにも目的にそくした勉強が続けられているために、短期的な利益が密接にかかわり過ぎてしまったがために、それが達成されてしまうと、とたんにやる気を失ってしまう。

何を勉強すればいいのか、解らなくなってしまう。

それは、「本当の意味の勉強・学び」ではない。

筆者は、そう言いたいわけです。

 

【今日のまとめ】

-一般論の否定-

何かをやるときに、すぐにそれが何の役に立つのかを考える思考パターンって、正しいのだろうか。

その一般論を、筆者は否定しています。

つまり、役立つものだけを行う思考パターンばかりしてしまうと、大事なことを見失ってしまうのではないか、という切り口で、始まるこの評論文。

-「役に立つ」と思って、勉強していませんか?-

「役に立つ」「大学に合格するため」「就職試験に有利になるため」にする学びは、物事・目標を達成すると途端に何もしなくなってしまいます。

学びの意味とは、本当にそれだけなのでしょうか。

もっと、違うことが「本当の学び」なのではないか。

それが、筆者の意見の後半へと繋がっていきます。

続きはまた明日。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

続きはこちら⇒知の体力 解説 その2

コメント

This site is protected by wp-copyrightpro.com

タイトルとURLをコピーしました