思考バイアス 解説その1

思考バイアス
mohamed_hassan / Pixabay

今回から、池内了さんの「思考バイアス」を取り上げます。

この思考バイアス、とても内容的に面白い評論文で、バイアスって気を付けなきゃなぁて、自分の戒めにもなります。

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【真逆を考えたこと、ある?】

-正解を求めてしまう人間の性-

何かを選択したり、考えたりするとき、どうしても私たちって「どこかに正しい考え方があって、それを見つけなきゃいけないんだ!」って、思っちゃいますよね。

これって、絶対に学校でのテストによる弊害だと思うんですけど、何か考えるときにも無意識に、正解って何だろうって考えちゃうとか思うんです。

それって、出来るだけ間違えたくないから。

失敗したくないから、やっぱりある程度考えちゃう。

でも、その考え方って、ある程度幅が最初から決まってしまっている時があります。

-正しい道があるんだと、思い込んでしまう-

その視野を狭めてしまうときって、意外ですけど、(正しい道が絶対にある!!)って思い込んでいるんです。

テストの解答みたいに、絶対的に正しい何かがこの世の中にはあって、自分はそれを知らないだけなんだって思っちゃう。

それって、ものすごく幅の狭い考え方になってしまう。

考える以前の状態で、解答が1つしかない!って思っちゃうと、それ以外の道を無意識に潰しちゃうんですね。

あるんだけど、見えてない。

存在するんだけど、その人にとっては無いも同じことになってしまう。

-「こうだ!!」と思うと、考え方を変えたくないのは、何故なのか-

でも、人って「これが正解なんだ!!」って思い込むと、そこから動きたくなくなります。

数学の解答だったらそれで良いかもしれないけど(笑)現実の問題で何かを考えるときって、実は明確な答えなんかどこにも無いし、「これでもう大丈夫!」なんてことも、実は無かったりします。

それは特に、明確に数字になってなかったり、曖昧なもので確認できないものほど、私たちって正解を求めちゃったりする。

自分の考え方を固定しちゃったりするんですよね。

なぜ人間はそうなってしまうのか。

どうして考え方の視野が狭まってしまうのか。

そんな疑問に答えてくれる評論分です。

では、本文です。

【第1~3段落】

-帰納的推論とは-

人間はある種の思いがけない体験をすると、それがなぜ起こったのかの「仮説」を持ち、仮説から論理的に導かれる「推論」を行い、結果と照合して仮説を「検証」する、という思考回路を採っている。「帰納的推論」である。(本文より)はい、意味のわからない言葉がきました。帰納的推論。帰納と演繹って、よく対義語で学ぶんですが、改めて聞かれると、なに?ってなりますよね。ここで、おさらいです。帰納的=具体例をたくさん並べ、それに共通する仮説を立てて、たぶんこうなるんじゃ無いのかなぁ?って、思いながらやってみて、結果を見直す。という考え方。逆に演繹的な考え方は演繹的=絶対に間違いない論理があって、そこから結論を導く法則です。人は絶対に死ぬ(確実な論理)→わたしは人間だ→わたしは絶対に死ぬ。(結論)という考え方。帰納的にも演繹的にも、欠点はもちろんあります。帰納的は、具体例が少ない場合、それ以外の例外はどうするだよ!という反論が出来ること。(反例です。)演繹は、前提の確実な論理がぐらつくと、当たり前だけど結論もぐらつきます。要するに、帰納的は例示が少ないと間違えることもある。演繹的は、前提論理があやふやなものだと、結論も間違うよー、ということ。ここで、筆者は帰納的推論を例示にあげています。なので、その欠点。例示が少ないことによって、結論に間違いが生じる場合がある。ここを、確実に押さえておくと、そのあとがスッキリ読めます。わからないことはその場で調べるって、どんなときにも大事なんですよね。で、その帰納的推論に狂いが生じる場面。つまり。例示が少ない。とっても珍しい体験だったり、滅多にできない事だったりすると、人は簡単に思考に偏向。つまり、偏りが生まれてしまいます。帰納的推論の欠点。間違った結論を導きやすくなってしまうんですね。

-思考に狂いが生じる場合って?-

このように結果が明白にわかる場合は簡単だが、結果が曖昧であったり、神秘的に見える体験をしたりすると、思考に狂いが生じてくる場合がある。(本文より)

曖昧な結果。

神秘的な体験。

曖昧な結果って、数字で表せない事です。つまり、人間の感情だったり、体感だったり。

毎回同じ結果にならない事。

ちゃんとした仮説に基づいているのならば、毎回同じ結果に誰がしてもなるはずですよね。

でも、それが曖昧ってことは仮説が間違ってるか、サンプルが少ないか。どちらかになってきます。

そうして、毎回同じじゃ無い!ってのは、神秘体験ってものすごく当てはまるんです。

その最たるものは、偶然の一致ってやつです。

-「死」にまつわる神秘的な仮説-

例えば、ある晩、友達が夢枕に立って、翌日その人が亡くなった。(本文より)

例示がものすごく少ないものの典型ですね。

人の死にまつわるものって、当たり前ですが特殊です。

だって、人の死がその人の考え方に影響を及ぼすのは、亡くなってしまった人が大概大切な人の場合です。

というか、それ以外考えられません(笑)

となると、大事な人が100も200も、1000も、10000も、いるわけじゃないですよね。

大概、数人から多くても数十人。

それって、帰納的な考え方からしたら、とても例示は少ないです。

この少ない例示でも、その体験が強烈な場合、人はそれを絶対だと思い込んでしまう傾向性がある。

自分には、大切な人の死を予知する力があるのではないか。なにかが自分に不吉なことを教えてくれたのではないか。虫の知らせとか、感が良くなったのではないか。

そんな推論を人はしちゃうんです。

殆どは、たった1度の体験で。

で、例示が欲しいから、強引に他のことも、くっつけて考え判断しようとする。

仮説=超感覚的知覚が働いた

推論=自分には超能力があるのかもしれない

検証=そう言えば、あの時も友達が死ぬことがわかっていた(ような気がする)

仮説→推論→検証。

これが成り立っちゃうんですね。

-確証バイアスとは-

まず仮説を持ち出す段階で「確証バイアス」が入り込む。自分にとって確かそうな仮説しか思い浮かばないことだ。(本文より)

バイアスは、偏りがあること、です。

人間が仮説を持ち出す場合、そこには必ず意見の偏りがある。

逆に言えば、仮説を話す場合、偏りがある意見しか出てこないのです。

何故なら、自分が思いついたものは、(そうだったら良いな)という意識がどうしても混ざり込みます。願望がどうしても入り込む。

友人が死んだ日に、夢にその友人が出るなんて、偶然だとは思えない。

きっと、何かしらの力が働いたんだ、と思いたくなってしまう。むしろ、そう思いたい。

何か友人が自分に伝えたいことがあったから、夢に出てきたんだ。そうだ。きっと、そうに違いない!と思い込んでしまう。

そうすると、「偶然だった可能性」という仮説は、初めから排除して考えている。

つまり、考えに偏りが生じているんです。

自分の意識が働こうが働かまいが。

-どの仮説も等しく考えていない人間の思考-

どの仮説も等しく考える必要があるのに、初めからある仮説を除外して考えるというバイアスがかかっているのである。(本文より)

友人が死んだ日に夢枕にたった。

この場合、

1.偶然

2.友人に超能力がある。

3.自分に超能力がある。

の3つの選択肢があるはずなのに、偏向がかかると、

1.自分に超能力がある。

という、1つの選択肢しかない考え方で仮説を始めてしまいます。

30パーセントの可能性が、最初から100パーセントになってしまう。

これは、大きな違いだし、偏りが思いっきり入っています。

でも、目に見えない思考や超自然的現象って、これが思いっきり掛かってしまうんですよね。

何故なら、私たちの思考は、目にめえないので偏向がどうしても掛かりやすいし、掛かっていてもそれを自覚することはかなり難しいです。

【今日のまとめ】

-私たちは初めから仮説を除外して考える-

私たちは、何かしらについて考えるとき。

特にそれが超常現象のような場合は、「ただの偶然」というのを、外してしまう。

その変更にすら気付けない時がある。

それは、まるで、自分が世界を見る時に、色眼鏡で世界を見ていることと同じような現象が起きているのと同じことです。

さて、この仮説の偏り。

今日は、「偶然」を外すという偏向を説明しましたが、それだけでしょうか?

もっと偏りがあるとしたら、それはなんでしょうか?

今日はここまで。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

続きはこちら⇒思考バイアス 解説その2

コメント

  1. […] ジにたどり着きました。 参考:思考バイアス 解説1 […]

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