高校一年生にとって、現代文の初難関である評論文。「水の東西」を今回から解説で取り上げます。
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中学の「説明文」とは違い、「評論文」を初めて読むことになる題材でもあり、長年教科書に取り上げられ続けているとても素晴らしい評論文です。
けれど、長年取り上げられているってことは、それなりに難しいということであり、
「なんだよ、これ????」
となる人が多い文章でもあるわけで(笑)
中学は、解らない物事を噛み砕いて解る様に、「説明」してくれている文。
高校は、評論家自体が、現実に表れている事象から、ある考え。観念を導き出す過程を描いた、思考の道筋を「論ずる」文章。
解りやすく例えるなら、
中学生が注文も食事を運んでくれる人も片付けてくれる人もいる、座って居れば大丈夫なお店とするのならば、高校生はセルフサービスのお店かなと。
自分で取りに行って、自分で運んで、自分で片付けなきゃいけない。自分で動かなきゃ、そもそも食べれない。
同じ文章を読んでいても、そんな違いがある。
その違いを、最初に教えてくれる作品が、おそらくこの「水の東西」山崎正和さん著の「混沌からの表現」からの抜粋の文章です。
では、参りましょう。
【第1~2段落】
「鹿おどし」が動いているのを見ると、その愛嬌の中に、なんとなく人生のけだるさのようなものをかんじることがある。(本文より)
はい。いきなり観念的文章が出てきました。
まず、十代の子からしてみたら、「鹿おどし」って何よ??というところから始めなきゃならない(笑)
ということで、現代は便利ですね。すぐ動画で確認できるから。
そう。こんな音をしている日本庭園にある、仕掛けです。
ちょっと高級な料亭やホテル、旅館などには定番とも言っていい、この「鹿おどし」
普通だったら、「ああ、鹿おどしがあるなぁ~」ぐらいで音を楽しむか、意識の中にそもそも入らないか(多くの学生はこっちだと思いますが)。そんな、普通だったら、気にも留めないその仕掛けや、現象に、引っかかるのが評論家何ですね。
ここから、「なんで日本人は「鹿おどし」なんて物を作ったんだろう。西洋には無いよね」っていう、思考が始まっていく。
微かに水の流れる音が聞こえて、一定のリズムで、「カッコン」と、竹が鳴る。まるで、音楽のリズムを刻む道具である、メトロノームみたいです。
そんな決まりきった動きが、どことなく愛嬌があるなぁ~。可愛らしいなぁ、ほっとするなぁ~と思いながらも、人生のけだるさを感じる。と、筆者は言っている。
-人生のけだるさとは-
いきなり大きく「人生」と来ました。
更に、「けだるさ」
けだるさとは、気だるいの変化語で、どことなく締まりが無くて、億劫だなと感じる様。倦怠感。
つまり、何となくやる気が出ない。だるい。面倒、億劫。と感じること。
よくありますよね、それ。何時も元気一杯で、何事もやることが楽しくて堪らない!!ってのは、子供によくありがちな事なのですが、高校生にもなると、何となく意味もなくだるいってことは、よくあると思います。
確かに、生きている時間のなかで、何時も何時も全力疾走って訳にはいかない時も有ります。何事も全力で、と張り切りたいけど、張りきれるものでもない。休むこともちゃんと必要で、億劫だな、と感じることもある。
そんな、生きることに対しての倦怠感や、だるさ。やる気の無さを、「鹿おどし」を見ていると感じるというのです。
-何もない時間が「動」を際立たせる-
見ていると、単純な、緩やかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし何事も起こらない徒労がまた一から始められる。(本文より)
第2段落の冒頭に、前段落の「人生のけだるさ」の意味と通じるものが書かれています。
同じリズムがずっと繰り返し、無限に続くかのような状態が続いている。
これを人生になぞらえると、毎日の生活を当てはめることが可能です。本当はそんなことは無いのだけれど、毎日毎日が同じ様に続いているから、それが無限に続くものだと勘違いしてしまう。そして、その毎日の中にも緊張する瞬間というのは確実に存在する。
受験なんかがそうですね。
毎日の勉強は続いていくけれど、結果を出さなきゃいけない受験を受ける年は決まっていて、緊張はある。けれど、それを過ぎ去ってしまうと、また何時もと変わらない日々が続いていく。
そんな人生の時の流れを、この「鹿おどし」が表しているのではないか。そして、殆どの人が人生というと、この緊張の部分。受験だったり、就職だったり、部活の試合だったり、色んな場面の出来事を考えてしまうけど、むしろこの「鹿おどし」が示している様に、音がするのは一瞬で、その音を作り出すために、長い、なにも無い時間=けだるさが存在することを教えてくれている。
そんな気分がしてくる、と言っているのです。
水の流れなのか、時の流れなのか、「鹿おどし」は我々に流れるものを感じさせる。それをせき止め、刻むことによって、この仕掛けはかえって流れてやまないものの存在を強調していると言える。(本文より)
流れてやまないものとは、何でしょうか。
この場合、水の流れ。そして、時の流れ、ということになります。
ここでのポイントは、水も時間も、人が勝手に流れを止められるものではない、ということです。特に、われわれ日本人はこの感覚が強いので、ここを後半まで覚えておいてください。
-刻むことによって際立つもの-
本来、止める、やめる、という行為は、その存在を無くしてしまう。悪いことだというように思ってしまうことの方が多いですよね。
ずっと続けてきたことを止めてしまうことは、駄目なことではないのか。ずっと続けなければならないのではないかと、そんな風に思ってしまうこともある筈です。
けれど、一旦止めてみる。
止めてみることで、次にその物事に触れた瞬間。全く新しいものに触れたように感じる時や、自分の受け止め方が変わっていたり、違った面が見えてきたり、変化を感じ取れるものもある。
流れを一旦せき止め、その動きを封じ、押し止めることで、次の動きだす瞬間を強烈に意識する。意識させられてしまう。
確かに、時間も今は時刻というもので刻まれているから、過ぎ去る事を意識出来ますが、それが全く何もなく、ただ流れていくだけだったら時の事など意識しないでしょう。同じ様に、水も、流れている事は知っているけれど、せき止めてみて初めて、流れているその水の量を意識することか出来る。
そんな風に、流れるもの。目に見えない物を「感じたい」「意識したい」という欲求が、「鹿おどし」に代表される様に、私達日本人の感覚の中には、備わっているのではないか。
そんな風に、評論文は進んでいきます。
今日はここまで。
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ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。
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