今回から、内田樹さんの『「贈り物」としてのノブレス・オブリージュ』を解説として取り上げます。
【評論文の典型的なパターン】
大修館書店の現代文B下巻の冒頭に掲載されているこの作品。
評論文の、典型的ともいえるパターンで書かれている、とても綺麗な構成をしています。
評論家は、結論である論旨を最初には書きません。
結論を最後に書くのは、もったいぶっている訳ではなく、順序立てて説明したいし、論旨をいきなり書いても恐らく上手く伝わらないだろう。出来るのならば、伝わりやすいようにと、工夫して書いてくれています。
なので、その特徴を此方がきちんと掴んで読むと、分からなくなった瞬間にも筆者の論旨に戻れますし、基本の読み方を分かっていると、どんな文章を読む時にも応用がききます。
-評論パターンの順番-
評論文のパターンは、種類が大体決まっているのですが、一番、中学時代から読んでいる基本のパターンは、身近なものの例示から特徴を引き出し、定義と認知をして、論旨に繋げるパターンです。
つまり、
具体例⇒分析⇒特徴の抽象化⇒概念化⇒筆者の主張
に繋げていく、パターンです。
このパターンの特徴は、最初に出てきた具体例の特徴は、全体の要旨に繋がっている、と言うことです。
ポイントは、概念化、です。
概念化、とは、物事の共通項を抜き出して、抽象化すること、です。
言葉で書くと、物凄く固いイメージに見えますが、いつもこれは人間がやっている日常的な行動です。
例えば、ペンとか定規とか、消しゴムとか、下敷きとか、ノートとか、ひとつひとつはばらばらなものですけど、「文房具」という言葉でくくると、「物を書く為に必要な道具」という共通項で結ばれます。
こういう概念化、というのは本当に便利で、この概念化ができるから、人間は様々な物事を共通なものとして、分かりあうことができます。
この概念、というものが、評論文全体を通して、共通するものである、と分かっていると、どこかでこの概念の内容が解っていれば、「同じことが書いてあるはず!」という考えを頭のなかにおいて、文章を読めます。
文は、必ず繋がっていると言うこと。
そして、具体例から概念化が行われていれば、それは必ず違う例示の時にも繋がっています。
今回は、「贈り物」という存在を具体例としてあげ、分析、概念化をします。
そして、もうひとつ。「才能」という具体例も概念化をします。
もう分かりますよね。この「贈り物」と「才能」の二つは、共通の概念が存在している。全く違うものだけれども、概念化すると、同じものとしてくくることができる。
そこから、本当に筆者の言いたいことに繋げる、という手順を踏んでいるのです。
では、本文を見ていきましょう。
是非、「概念化」を覚えてください。評論文を読むのが、ぐっと楽になります。
【第1~6段落】
-贈与という儀礼-
「贈り物」というと、私たちはふつうお中元お歳暮のようなかたちのあるもの、価値のあるもの、実用性のあるものを思い浮かべます。でも、贈り物はそれには尽くされません。(本文より)
一般的な贈り物のイメージを書き、「でも」という逆説を経て、筆者の主張を書く。
ここでは、贈り物は、お中元とかお歳暮とかを皆はイメージするけど、それだけじゃないんだよー! むしろ、ものとか実用性のあるものだけに限らない、と言っています。
そもそも、贈り物というのは「価値あるもの」を贈ることではありません。そうではなくて、「これは贈り物だ」と思った人がそう思った瞬間に価値は生成する。(本文より)
これが、「贈り物」の概念化です。
「贈り物」とは、「贈り物」を受け取った側が、「これは贈り物なんだ」と思った瞬間に、価値が生まれるもの。価値が発生するもの、という概念を表しています。
ん?? どういうことだ?? と、少し理解な難解なものは、必ず前後に具体例がくっついています。それを探しましょう。
-挨拶という贈り物-
例えば、挨拶というのはある種の贈り物です。(本文より)
さて、ここで、挨拶が贈り物の一種であると、書かれています。
どうして挨拶が? モノではないし、贈り物をしている、なんていう感覚すら無いのに?? と首をひねります。けれど、続きを読むと納得する。
「おはよう。」と誰かに呼びかけられる。私たちはそれを聴くとこちらも「おはよう。」と言わなければならないという強い返礼義務を感じます。負債感と言ってもいい。(本文より)
「おはよう」と言われると、「おはよう」と返さなきゃいけない。
それを義務として背負ってしまう。負債感のようなものまで、抱いてしまう。「返さなきゃ!!」と思ってしまうものなんですね。
これは挨拶をした方もそうで、挨拶をして返礼がないと、「無視された???」と、気持ちが全く落ち着かなくなってしまう。それだけで、人間不安になってしまうものです。
本文では、心に傷を負う、とまで書いてあります。
これはどうしてなのか。
挨拶は、予祝意味合いがあります。「今日一日、あなたにとって良い一日で有る様に」という意味合いで使われる言葉です。
それだけでなく、日常的なコミュニケーションの一種としても、とても大事なものです。
だからこそ、それを人は、「自分に対する相手からの祝いの言葉。予祝の言葉」として、解釈して受け止めてしまう。
それ自体に価値があるのかと言われれば、単なる声と言葉です。科学的に言ってしまえば、単なる空気の振動です。
けれど、それを「贈り物」としてしまうのは、ただの数語の挨拶、という言葉のなかに、「相手からの感情」を、人は受け取ってしまうのです。
-返礼がないと傷付くのは何故なのか-
贈り物というのは、それ自体に価値があることが自明であるようなものではないのです。それは、受け取った側が自力で価値を補填しないと贈り物にならない。(本文より)
贈り物の価値は、ものそれ自体にはない。挨拶は、ただの空気の振動です。ただの声です。言葉であり、形のない、消えてしまうものです。
けれど、それに価値を生じさせるのは、受け取る側であると。
しかも、自力で価値を補填させる必要がある、ということも、大事なポイントです。
贈られた物を「ああ、なんて素敵なものを貰ったんだろう」と思うのは、自分自身であるということ。価値を自分で与えることで、それは始めて「贈り物」と成る。
こう考えると、「嬉しくない贈り物」というのは、今までどんなものであったのか。それを思い浮かべると、この概念が、ぴたりと当てはまります。
「嬉しくない贈り物」は、贈られた物の価値ではなく、自分が嫌いな相手から贈られた物です。若しくは、価値があったとしても、自分の欲しいものでは無かったり、好みとずれていたり、「相手が自分の好みや要求を分かっていない」と思った瞬間、その贈り物は意味のないがらくたになります。
けれど、逆に「嬉しい贈り物」とは何なのか。
贈り物自体に価値がある、のではなく、「好きな人」から贈られた物は、どんなものであったとしても、嬉しいものです。若しくは、自分の好みを考えて贈られた物だったり、相手の気遣いが見えたりした瞬間に、それは「最高の贈り物」となります。たとえ、他の人から見て、価値の無いものであったとしても、その人が価値を自力で補填したものは、贈り物となります。
贈り物は、物の価値では無い。
受け取る側が、価値を決めるのです。
挨拶の例示が、それを物語っています。
挨拶を送った側が返礼がないと傷つくこともそれで説明できます。挨拶を返さない人は「あなたが発した空気の振動には何の価値もない」という判定を下した。私たちはそのことに傷つくのです。(本文より)
価値がない。そう思われてしまうことに、私たちは傷付く。
あなたの挨拶なんて、意味がない=あなたの存在自体が、意味の無いものだ。価値の無いものだ、と言われているように、感じてしまう。
人は、価値があるものを贈られた、と思った瞬間に、返礼をしたい。つまり、お礼をしたい、と思います。
つまり、お礼がない=あなたの贈り物には、価値がない、という図式が出来上がってしまうのです。
-贈り物のルール-
贈り物は、受け取った側が自力で価値を補填した瞬間に、贈り物として価値を持つ。
「ああ、良い物を貰った!」と思わなければ、それは贈り物と成らない。
つまり、価値を判定するのは、贈り物の品質では無く、受け取った側の判定によるものである。
受け取った側が、「こんなものっ!」と思った瞬間に、どれだけ価値があるものだったとしても、それはただのゴミに成りますし、「わあっっ!!」と思った瞬間に、最高の贈り物となる。
受け取り側に、価値の判定は委ねられている。それが、贈り物のルールです。あくまでも、受け取った側が自力で。自分の力で価値を補填。つまり、補うことが必要になってくる。
このルールに基づいて、この評論文の全ての論理は成り立っています。
今日はここまで。続きはまた明日。
ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。
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コメント
ずいぶん前の記事からで申し訳無いのですが質問があります。この本の発行年を調べても調べても出てこないのですが、一体何年に発行されたものなのでしょうか🥲ご存知であれば教えて欲しいです
佐藤さん
ご質問、ありがとうございます。
この「『贈り物』としてのノブレス・オブリージュ」は、平成25年(2013年)発行 大修館書店 現代文Bの下巻に収録されている評論文を参考に書かせていただきました。
現在の教科書では、令和5年(2023年)発行 大修館書店 論理国語の第Ⅱ部に掲載されています。
出典は、2011年1月号の新潮45に発表された内田樹さん著「『これからの日本』を生き延びる智恵」をもとに、教科書用に筆者ご自身が書き改めたものとなります。
ご参考になりましたら、幸いです。
コメント、ありがとうございました。