死と向き合う 解説、三回目です。
【前回までのまとめ】
-患者が医療に望む希望-
命の危険にさらされるほどの重篤な病にかかった場合。
自分の「死」と、その命が尽きるまで向き合い続ける患者が望む希望とは、一体何なのか。
医療現場で働く、医療従事者の切実な問いかけに、筆者は思考を巡らします。
このような時に抱く、または人が抱き得る「希望」の正体はいったい何なのか。
-一般論の否定-
ここで、二つの答が一般論として浮かび上がってきます。
それは、「治癒の可能性」と「死後の世界への望み」です。
けれど、「治癒の可能性」は医療従事者だからこそ、可能性的に希望として与え続ける事は無理となります。
何故ならば、どんどん悪くなっていくことに対し、「進行は平均よりも遅いですよ」ということが、どれだけの希望を患者に与えるのか。
重篤であればあるほど、気休めにもならない事を彼らは現場で知っているのです。
更に、「死後の世界に望みを託す」というのも、学者として。現実的な治療を技術として提供している医師だからこそ、公共性のないもの。根拠の薄いものを、「医療」として使うことは出来ません。
公共性とは、誰が見ても明らかであり、根拠がはっきりとしていて、誰がやっても同じ結果が得られるものです。
だからこそ、個人的な思い込みの強いそれらに希望を託すことは、個人としてなら選択するのは勝手ですが、「医師」「看護師」としては、選択できないし、またしてはならないのです。
ならば、希望とは何なのか。
その答が、筆者の書きたかった、伝えたかった要旨となります。
それに対しては、先ず「死」というものが何なのか。それを考えなければなりません。
では、続きを読んでいきましょう。
【第6~7段落】
-私たちは死に向かい続ける存在-
ところで、死は私たち全ての生がそこに向かっているところである。遅かれ早かれ私の生もまた死によって終わりとなることは必至である。(本文より)
「ところで」という接続詞は、話題転換の接続詞です。
ここで、ちょっと違う話を入れてきた。
つまり、「希望」の正体を知るためには、少し違う分野から物事を見なければ、答にはたどり着けない。その為に必要なのは、「死」というものの認識です。
私たちは、というよりも、私たちの脳は、「生」が無限に続くという、甘い幻想の中で生きています。永遠に「次」がある世界で生きています。(参照⇒可能無限 解説 その9 まとめ)
だからこそ、重篤な病を背負ったり、命の危険にさらされるような強烈な体験をしない限り、「死」に対して真剣に考える事を無意識に避けています。
けれども、私たち生物は、この世に生まれおちた瞬間から、全ての存在が「死」を迎える事は決まっていて、「死に向かって」生き続けているのです。
つまり、「生」の生きつく先は、「死」。
そこに向かって、歩き続けている。
けれども、その目標地点を皆、見ないようにしている。考えないように、過ごしています。
-重篤患者と私たちの希望は繋がっている-
その私にとって希望とは何か――考えてみればこの問いは、重篤な疾患に懸った患者にとっての希望の可能性という問題と何らか連続的であろう。(本文より)
患者も、そして病にかかっていない私たちも、共通点は、「死に向かって生きている」ということです。
ということは、単に今私たちは「死」を身近に感じるような環境にいないだけで意識はしていないけれど、その患者たちが持ち得る「希望を持ちたい」という願いは、私たちにも通じるもの=連続性があるのではないか。
私たちが考える「希望」とは、そもそも一体何なのだろう、という問いかけに変わってきます。
患者だけの問題ではない。
これは、もしかしたら生きている全ての人間にとって、通じる疑問であり、問題なのではないか。
何故なら、私たちは「必ず死ぬ存在」であるからです。
唯単に重篤患者との違いは、重篤患者は「死」を強烈に意識する中で、その「希望」を早く掴んでおきたいと強く望み、私たちは「死」を遠い遥か彼方のものと意識するから、その希求が薄いだけの違いです。
ならば、重篤患者ではない筆者にでも、彼らが望む「希望」が理解できるのではないか。
そう考えが移っていきます。
-二律背反な宗教的希望-
ここで、宗教が示す、相反する「希望」が登場します。
世界にはさまざまな宗教が存在し、その教義によって「死」や「生」の捉え方も様々です。
真逆に位置する宗教の考えは、
・「死後の私の存在の持続。死んでも、その先の生(天国or極楽での生活)が待っている」
・「死後の生を望むのは、欲に塗れている」「自己の幸福を追求してはならない」
筆者は、前半を肯定。後半を否定しています。
人は、生来の価値感。生存欲求、というものがあります。本能とも直結しているこれは、単純です。
「生き続けたい」という願い。
「幸福になりたい」という願い。
これらは生まれた時から持っている欲求です。
これを肯定する宗教的な教えもあれば、反対する宗教的な教えもある。
人間の根源的な生存欲求に対してすら、一貫した主張がない。
公共性がないという実例を、端的に筆者は表しています。
だから、今自分が求めている希望は宗教性にはないことを、ここでしっかりと表しているんですね。
-希望は「生それ自体」の意味-
では、死が私の存在の終わりであることには何の不都合もないではないかとして、これを肯定した場合に、希望はどこにあるか――どのような仕方であれ、「死へと向かう目下の生それ自体に」と応えるしかないであろう。(本文より)
はっ??
と、ここまで読んできて、やっと希望の正体を書いてくれるのか!! と期待したら、「なんだよ、これ!!」と言いたくなるでしょう。(実際、生徒から聞いた言葉です(笑))
少し、前提を考えてみましょう。
死=私の存在の終わり。
筆者はこれを肯定したいのでしょうか。
本文には、「何の不都合もないではない」とあります。
はい。二重否定です。ということは、強い肯定に置き換える。
となると、「死=私の存在が終わるなんて、不都合である!!」と言っているわけです。納得できるか!! そんなの、嫌だと(笑)
で、それを思いっきり人間の生存本能として肯定するとして、希望のありかは、「生きること、それ自体」だと言い切っているのです。
それが仮に、「死に向かっている」状態であったとしても、まだ死んでいないなら「生きている」わけです。なら、「生きて」いるからこそ行動し、できることがあるはず。
その、生きてできる事。活動できること自体に、希望はひそんでいる、と筆者は呈示してくれました。
-生きた証を遺したくなるのは、「生」に意義を見出したいから-
「生きること自体が希望」
何故ならば、生きて行動し、動くことができ、何かしらを遺す事が出来るのだから。
この、「遺す」ということについても、筆者は見解を試みています。
人はこんどはここで何かを「遺す」ということにこだわることがある――「生きた証しを遺す。」とか「人は死んで名を遺す。」というように。(本文より)
死んだ後にも名を遺したいという願望は、小説の中でも時々見られる願望です。(参照⇒小説読解 中島敦「山月記」解説 その4~あなたの心の中にも棲んでいる猛獣~)
「ここ」とは、「希望」が存在する、「生それ自体」です。
つまり、生きて活動できる「生」の中で、名を遺そう。何かを遺して行こう。自分の生きた証しを何かしら、と願う。
そんな風に考えると、何か行動を起こさずにはいられなくなります。
これも、希望を目下の生自体に見出だす仕方の一つということになるのだろう。(本文より)
生きている間に、何かを遺す為に、動く。
この、活動、動く、ということに、希望があるのではないか。
確かに、止まっていても何にもなりません。何かをしたければ、人間は動くしかない。止まっていてできる事など、何一つありません。
物理的に動けなくとも、何かできる事を探る。
そんな風に、絶望的な状況でも沢山の作品を遺したり、実際回復をしたり、とんでもないことを可能にした人々の例は、数多くのこっています。
そのような人々と、絶望の淵に立ってしまう人々の差は、違いはどのようなところにあるのでしょうか。
【まとめ】
-希望は「目下の生それ自体」-
希望という救いは、治癒の可能性でも、宗教でもない。
ならば、どこにあるのかという筆者の問いかけに、答が呈示されました。
それは、「死」の瞬間まで生きる、「生」の時間。「生」そのもの。その「生」の中で、何をし、何を思い、何を遺すか。
そうやって「生きる」こと自体に、希望はある、と筆者は言います。
明日は、更にこれを深めていきます。
今日はここまで。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
続きはこちら⇒死と向き合う 解説その4
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