今回から、鷲田清一さんの「身体、この遠きもの」の解説をします。
他の鷲田さんの評論解説は、こちらから。
⇒こころは見える? 解説その1
こころの次は、身体です。同じ評論家や哲学者の論調を比べて読んでみると、より理解が深まるので、読むと面白いですよね。
【哲学とは】
-知らない事を知る学問ではない-
ここで、鷲田さんの職業。哲学者について少し説明を。
哲学は、それこそ古代の時代から行われてきた、学問の基礎だと言われていますが、実は「学問」というと、「知らない事。解らなかったことを、学びとるもの」のイメージが強いですよね。
けど、哲学って、実は「新しいものを学びとる学問」ではありません。
新しい発見をするって、どちらかというと理系の学問ですよね。じゃあ、哲学って何なのか。
-既に知っているもので気付いていないものを気付かせる学問-
これは心理学にも共通している理念ですが、「もうすでに知っているもの」「見えているもの」「みえているはずのもの」「誰もが知っているもの」のはずなんだけど、「見えていないもの」があることに、気付かせてくれる学問が哲学です。
人の視界は、意外にも見えているようで見えていないことが本当に沢山有ります。(参照⇒ものとことば 解説その1)
見えている、見えていたはずなのに、気が付かない。気が付けないでいる。そんなことが、とっっても沢山有るんです。
それを哲学は見えるようにしてくれる。迷いや、悩みを抱えている私たちが、見えなくなっている。気が付けなくなっていることに、気が付かせてくれる。
そんなものであることを、まず認識してください。
「こころは見える?」では、当たり前のように毎日感じている、私たちの「こころ」がどういうものであるのかを説明し、鷲田さんは今度は「身体」がどういうものであるのか。それを気付かせてくれる文章を書いてくれています。
さて、私たちの身体で、私たちが気が付いていない部分って、何でしょうか。
本文を読んでみましょう。
【本文第1~3段落】
-身体はどういう存在なのか-
わたしたちにとって身体とはどういう存在なのか。この問題は長く哲学者を悩ませてきた問題でもある。(本文より)
この冒頭の文章を読むと、「はあっ???」と誰もが思うでしょう。
「身体って、この身体のこと? ここに有るじゃん」
と思っちゃう。実際、自分の身体のことについてじっくり考えるなんて、滅多にないです。けれどね、実は私たちの身体って、とても特殊な「物質」なんですよね。
大体身体って、対義語は「魂、精神」っていう見えないもの。
ちょっと難しい評論文の言葉で表すなら、形而上のものとの対比されることが多いものです。
形而上(魂・こころ・精神)⇔形而下(肉体・物理的な物質・手で触れられるもの、物体)
というふうに、対比されますが、ここで筆者は精神や魂との比較をやめます。
皆がやっている事は、やらない。違うことをやってみる。
意外に哲学者ってひねくれ者が多いのかなと、思っちゃう性質ですよね。敢えて、当然と思われている事を、無視して考えてみる。
つまり、身体を肉体。物質として、違う物質体の性質と比べてみるのです。
そうすると、身体の異質さが浮き彫りになってきます。
-他の物質と比べると、あまりにも異質な身体-
まず、身体の異質な点です。
たとえば、身体はそれが正常に機能しているばあいには、ほとんど現れない。(本文より)
はっ?? 現れないってどういうこと??
現れない=意識されない。気付かれない、ということです。
今、この文章をスマホやタブレット、パソコンで見ている人が多いと思いますが、正常に機能しているから、画面が見えますよね。そして、それを触っている。眺めている。
まさか、今見ている画面を全く意識しない、という人はいないと思います。
けれど、身体と比べてみてください。
今、あなたが身体の調子がとても良いとして。
手が動くことを意識しますか?
「あっ、手を動かそう」⇒「スマホを持とう」⇒「スクロールしたいから、親指を動かそう」
なんて、いちいち考えますか?
考えませんよね。
正常に動いている時は、現れない。つまり、正常で、健康の時。問題が無ければないほど、その存在は「いない」んです。
つまり、わたしたちにとって身体は、ふつうは素通りされる透明なものであって、その存在はいわば消えている。(本文より)
調子がいい時ほど、身体は居なくなる。つまり、違和感が無くなっていく。
体育の授業や運動部の子は特に解りやすいと思いますが、身体って調子良く動く時って、なんの抵抗もなく気持ちよくスパーンっていく時、ありますよね。
勉強も同じで、調子良く解けている時って、違和感が全くない。
不思議と解る時って、するする解けて行く。その自然な、どこにも力が懸っていない感じが、透明だということです。
なら、それが存在を出してくるのは、どんな時でしょうか。
-不調の時に存在感が増す身体という物質-
普段、調子のいい時には表に出てこない。意識に上がらない。それが意識する瞬間って、そう。不調の時です。
が、その同じ身体が、たとえばわたしが疲れきっているとき、あるいは病の床にふしているときには、にわかに、不透明なものとして、あるいははれぼったい厚みをもったものとして、わたしたちの日々の経験のなかに浮上してくる。(本文より)
にわか、とは急激に、ということ。
今まで透明で見えなくて、違和感がなくて自然だったものが、急激に違和感が増してくる。
その条件は、私たちが不調の時、だと言うのです。
これはとても面白い。
問題があったり、不調の時、違和感が増す、というのは人間関係や友達との付き合いなどでも言えますよね。調子がいい時って、違和感がない。
私たちは、違和感が増した時は、不調だ。問題がある時だと、教えてくれるサインなのかもしれない。ケアをしなきゃ、やばいよって教えてくれている。
けど、これってとても不思議です。
普通、物体って問題があった時に、動かなくなる。で、動かなくなるから、それを使わなくなる。意識の外に外れていく。故障したスマホなんて、何にも使わなくなるから、意識から外れて行きますよね。
なので、普通の物体は、
調子良く動く時⇒意識の中にある。存在感がある。
不調の時⇒意識の外に追いやられる。忘れられてしまう。
なのに、わたしたちの身体は
調子良く動く時⇒意識の外にある。存在感が全くない。透明。
不調の時⇒意識の中にある。存在感が増す。不透明。
という、全く真逆の性質をもつものになります。
物凄く、不思議。とっても近くにあるものなのに、全く持って異質のものなんです。私たちの身体って。
-経験に一定のバイアスをかける身体-
そしてわたしの経験に一定のバイアスをかけてくる。あるいは、わたしの経験をこれまでとは別の色で染め上げる。ときには、わたしと世界とのあいだにまるで壁のように立ちはだかる。わたしがなじんでいたこの身体は、よそよそしい異物として迫ってきさえするのである。(本文より)
バイアスについては、こちら(参照⇒思考バイアス 解説その1)
(参照その2⇒認知バイアスの怖さ 8月12日の全日空機トラブルと日航機墜落事故)
こんなこと、感じたことありませんか?
調子良く問題解いていた時には、不安なんか何一つ感じていなかったのに、超絶疲れていて、それでも明日試験だからと頑張って内容を覚えようとしたら、いつもは覚えられる内容が全然頭の中に入ってこない。
もしかして……私、(俺)、頭が悪くなったのか……
なーんて、感じちゃったこと。
誰もがありますよね。
これが、「バイアス」=偏向、偏りです。
身体の疲れが不調を感じさせているだけなのに、自分の能力そのものに疑問を抱いてしまったり、今までちゃんと動いていたものが動かなくなると、「自分ってここまでだったのか……」と疑問を抱いてしまったり。
スポーツの世界だと、良く聞きますよね。イップスだとか、何かがブレーキになって出来なくなってしまうこと。
そうすると、身体がまるで自分ものなのに、自分ではない気がしてきてしまう。違う存在だと思ってしまう。そんな、壁や、よそよそしい異物に感じてしまい、それが更に異物感を増してくる。
他の物質だったら、「ああ、壊れたんだ。なら、直そう」と普通に思えるのに、それが思えない。
ああ。駄目なのは自分なんだ……って、自己否定が入ってしまう。よそよそしい、馴染みのない、異物。ようするに、自分で自分の身体のことが上手く動かせなくなってしまう。
そんな不思議な物体なんです。私たちの身体って。
【今日のまとめ】
-不思議な物体の身体-
私たちの肉体である身体は、物質として捉え、その他の物質と比べた時。とてつもなく、異質な存在となってしまいます。
調子が良い時は透明。不調で不透明になる。
これは、その他の物体と真逆であり、私たちの精神にまで影響を与える力。バイアスをかかける能力を持っている。
その身体の不思議な部分を、明日、もうちょっと読み進めていきましょう。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
つづきはこちら⇒身体、この遠きもの 解説その2
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