死と向き合う 解説その4

死と向き合う
sasint / Pixabay

死と向き合う 解説、その4です。

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【前回までのまとめ】

-死に向き合う患者が望む希望-

医療従事者が直面する、助けられない患者が迎える死の瞬間まで、人間はどうやったら希望をもって生きる事ができるのか。

私たちは全て、生きているからには、必ず死を迎えます。その死は逃れられるものではないのだから、誰もが死に向かって前進している事になる。

そんな、避けられない「終わり」に対し、どのような希望を持ちうることができるのか。

そんな問いかけから始まり、一般的な「治癒」と「宗教的な死後の世界」の二種類の希望を、それぞれ筆者は否定します。

-希望のありかは、目下の生それ自体-

筆者が呈示する「希望」のありかは、目下の生それ自体。

つまり、「今」この瞬間も生きている、その時間そのものに存在しているのだと、提示します。

確かに、死への時間は切られているのかもしれない。けれども、広い目で見れば、重篤な患者であろうが、健康な一般人であろうが、今日この瞬間にこの世に生まれ出た赤ん坊でさえ、「死に向かって進んでいる」という点では、変わりがありません。皆、一緒です。

ならば、希望は、死を迎えるその瞬間まで、「何かができる」という、活動の可能性のなかに存在しているのではないか。

筆者の呈示は、そんな風に始まり、具体例をここから次々と挙げていきます。

では、続きを読んでいきましょう。

 

【第8段落】

「まだ、こんなに残っている」と考えるか、「もうこれだけしか残っていない」と考えるか……

 

-終わりに進んでいるという自覚が希望の根拠-

終わりのある道行きを歩むこと、今私は歩んでいるのだということ――そのことを積極的に引き受ける時に、終わりに向かって歩んでいるという自覚が希望の根拠となる。(本文より)

終わりに進んでいるという自覚が、希望の根拠、というのは、少し意味が理解し辛いように感じると思います。

はっきり言うと、「なんじゃこりゃ???」ですよね。

でも、その前にヒントがあります。

終わりに向かって歩いていることを、積極的に引き受ける。受け入れる。

つまり、此れの意味するところは、今現在の自分の、全肯定です。

全肯定とは、良いも悪いも関係ない。

全て、今ある現実を、そのままに受け入れる、という行為です。

-「希望を最後まで持つ」の本当の意味-

そうであれば「希望を最後まで持つ。」とは、実は「現実への肯定的な姿勢を最後まで保つ。」ということに他ならない。つまり、自己の生の肯定、「これでいいのだ。」という肯定である。(本文より)

はい。

この部分。さらっと読んでしまうと、そのままになってしまい、結局筆者が言いたいことが、良く解らないままに流れてしまうので、要注意。

全肯定。

つまり、「今の自分が、完璧なのだ。」と受け入れることを意味しています。

これって、出来るでしょうか?

ちょっと、考えてみてください。

自分の欠点や、嫌な部分。もっとこうだったら良いなぁ~、もっと頭良かったらなぁ。記憶力良かったらなぁ。もっとかっこいいor可愛いorスタイルが良い容姿だったらなぁ……etc……

ありますよね……うん、普通、人間だったら自分の嫌になる部分って、ひとつやふたつやみっつやよっつや……そりゃ山のようにありますよね!!!

けれど、それも含めて、不完全な、欠点だらけの自分でも、「これでいいや!!」「これが、ちょうどいいんだ」「違う誰かにならなくて良いんだ」「私は私だし」と、全部、肯定できるかどうか。

それを肯定し、受け入れた時に、希望を死の最後の瞬間まで、持てると言うのです。

ちょっと、冒頭に戻ってみましょう。

重篤患者が望むことは、やはり、病の治癒です。回復です。

人間の何よりも強い根源的欲求は、「生き続ける事」です。だから、その欲求に素直に従えば、私たちは「生きつづけたい」「今、ここで死にたくない」と願うはずです。

けれど、「治りたい」と思うことは、同時に、「病気になった自分を否定すること」になってしまいます。

例えば、あなたが決して治らない病気。不治の病にかかったとして……

あなたは、そのことも含めて、「まっ、仕方がない」「これが自分なんだ」と、病気になってしまった自分も含めて、これが自分なんだと肯定し受け止めることって、出来るでしょうか?

受け入れること。肯定することが希望ならば、「治りたい」と思った瞬間に、病気になってしまった自分を否定しているわけですから、そこに希望は存在しません。

病気になったことを恨むのではなく、呪うのでもなく、「ああ、病気になったって事は、やっぱり無理をしていたんだ……なら、遺された時間は、本当にやりたいことだけに時間を使おう」と、オーバーワークや、本当に大事なものに気付かせてくれるチャンスでもある。

病気になったことすらも受け入れる。

希望は、その瞬間に生まれるものだと、筆者は言いたいのです。

-真の生の肯定とは満足すること-

生には、二種類あります。

一つは、完了してしまっている、変えられない、今までの「生」
もう一つは、進行形で続いている、自分の意志で幾らでも変えられる、これからの「生」です。

完了したものという生のアスペクトにおける肯定は「これでよし。」との満足である。(本文より)

今までの「生」はどれだけ嘆こうとも、一ミリたりとも変えられません。

ならば、変えられないものを変えたいと歎くよりも、「うん。これで結局は良かったんだ。だって、色んなものに気付かせてくれたし、苦しかったけど、無駄なものは一つもなかったし、きっと自分には必要だったんだ。」と受け入れた時に、必死に足掻き、頑張ってきた自分を認め、その生に満足することができます。

失敗や、挫折も確かにあった。

けど、そんなに悪いことばかりでもなかった。良いこともちゃんとあったと、認める。

そうすると、自然と満足が心の中に湧いてくる。

病気になったことも含めて、「今の自分」を否定してしまっては、満足など生まれるはずもありません。

アスペクトとは、様相や外観のこと。

自分という存在の、これまで歩んできた様相や外観が、「これでいい」と思えるかどうか。

そこに、希望が持てるかどうかが、関わってきます。

-希望は自ら踏み出す姿勢そのもの-

他方、生きつつある生、つまり、一瞬先へと一歩踏み出す活動のアスペクトにおける、前方に向かっての肯定、前方に向かって自ら踏み出す姿勢が、希望に他ならない。(本文より)

重篤患者を含む、私たち人間すべてが希望を抱けるかどうかは、二段階のステップに分かれています。

それは、

・ステップ1 今までの生を「これでいい」と肯定し、受け入れ、満足すること。
・ステップ2 これからの生を、「何を選んでもいい、何でもやれる」と肯定し、何かしらの行動に繋げていく、行動力、意欲、活力。

この2段階を経て、私たちは「生」に希望を見いだすことができます。

「やれるだけはやってきた。うん、出来なかった自分も含めて、それでも必死にやってきた。だから、『次』も、満足できる、何かをしよう」と思い、行動に移す姿勢。その生きる姿そのものが、「希望」だと。

これは、単なる評論文の課題、というだけでなく、私たちに多くのことを伝えようとしている文章になります。

 

【まとめ】

希望は、生それ自体である、という筆者の呈示は、今までの生の肯定から生まれてくる満足に満たされた人間が、じゃあ、「次」は何をしようかと考え、やりたいことを精一杯やっていく姿勢。その姿そのもの、動くことそのもの、を指し示していました。

これを読むと、少し考えてしまいます。

「今」の私は、私自身の姿を肯定し、満足できているだろうか。

満足しちゃったら、もう何にもやらなくなるのでは? と思うかもしれませんが、筆者の見解はむしろ逆です。

満足するから、「次」をしようと思える。

これ、受験生なら、問題に置き換えると簡単かもしれません。

「ああ、この問題は解ける!! 解る!!」という状態は、ある意味、解けた自分に満足している状態です。「あー、解けて良かった。解いてるの、ちょっと楽しかった」と思うと、「次!!」って思いませんか?

それと同じ様に、楽しいことや遊びでも構いません。私の場合は読書と音楽なのですが、どれだけ読んでも、どれだけ聴いても、「もういいや」と読まなくなったり、聴かなくなったりすることはないです。

面白ければ面白いほど、好きになれば好きになるほど、「次!!」と思ってしまうのが、私たち人間の姿のようです。

貴方は、何をしている時に満足し、「あー、もっとやりたいな」と思いますか?

そして、「今」の自分に、満足していますか?

続きはまた明日。

ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。

 

続きはこちら⇒死と向き合う 解説その5

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