死と向き合う 解説 5回目です。
【前回までのまとめ】
-希望のありかは、生そのもの自体-
重篤患者の望む、「希望のもてる説明を!」という要望に対する答は、「希望」というものの存在がどこにあるのかをはっきりしなければ、答が導き出せません。
その希望のありかは、私たちが今、生きている時間そのもの。
この一瞬を、たとえそれが限られた時間であったとしても、今のこの一瞬一瞬をどう生きるか。
そこに、希望は存在している、と筆者は言及しています。
-希望を持つための2つの条件-
「生」そのものに希望を見いだす為には、必要になる二つのステップがあります。
一つは、今までの生。これまで歩んできた人生そのものを、病気になってしまったことも含めて、全てを「ああ、これで良かったんだ」と肯定できるかどうか、ということ。
不幸は誰にでも訪れます。
苦難も、突発的な、避けようのない不幸というのも、確かに人生には存在しています。けれども、それも含めて、「ああ、あれがあったから、今の自分があるのかもしれない」「病気になったことは確かに不幸だけど、でも、病気にならなかったら、今でも何も気付かずに過ごしていたのかも」「いじめを受けたことは確かに不幸だけれども、そのおかげで解ったこともあるし、強くなれた部分もある」と、思えるかどうか。
不幸な出来事があったとしても、それを切っ掛けにして何かしらを得られたと思えるか。
なってしまったものはどうしようもない。けれども、「まだ、私は生きている」と、生を肯定できるかどうか。今までの生を、なってしまったことも含めて、病気になったことも、全てひっくるめて、「それが自分なんだ」と認め、受け入れる事が出来るか。
それが、一つ目のステップです。
それができて初めて、二つ目。
これからの「生」を前向きに、進みだす事ができ、その姿勢。行動、態度そのものが、希望そのものである、と筆者は呈示しています。
さて、では、最後まで読んでいきましょう。
【第9~10段落】
-死を肯定する前向きな一歩-
そうであれば、死を肯定するとしても、それが一歩踏み出した先が死であろうともよいのだという肯定的な前向きの姿勢におけるものか、あるいは一歩踏み出すことから退く方向、生を否定する方向におけるものか、が差異化する。(本文より)
死を肯定する、とは、すこしどきっ、とする文章ですが、それは「死んでもかまわない」とする態度のことではなく、「今の生活に、人生に、生き方に満足する」ということを指します。
「ああ、満足だ」「いつ死んでも、後悔はない」「ああ、自分はこれで良かったんだ」と思える瞬間を、「今」生きているかどうか。
そのような「生」を生きている時、人は「ああ、明日には死んでしまうのかもしれない。それはとても残念なことだけれど、死にたくないなと思ってしまうけれど、それでもやれるだけのことはやってきたのだから、満足だ。」と、満足感。幸福感に満たされます。
満たされた気持ちだからこそ、明日があるのならば、「どう生きよう」「どう過ごそう」と前向きに考える事ができる。
その時に、人は「死をも肯定し、受け止められる」し、「前向きに生きられる」というのです。
-死を否定する方向の一歩-
ならば、逆はどうか。
これは、医療現場に立ち会っている人々だからこそ、見える現実なのでしょう。
「今」この瞬間の「生」を否定する。
つまり、「病気になった自分は不幸だ。」「もうどうする事も出来ない。」「どうして自分ばかりがこんな目に。」「こんな辛い思いをするのだったら、生きるなんてもう無理だ。」と、今までの生。これまで生きて頑張ってきたてことすら、「無駄だ」と否定する。
するとどうなるか。
そう。
「この先、何をしたって無駄だ」
という心境になってしまう。
この状態のことを、人は絶望と呼びます。
つまり、それは希望ある死への傾斜と絶望からの死への傾斜との区別である。(本文より)
同じ出来事が起こっても、人によって受け取り方は全く違います。
そして、それは重篤な患者の場合もそうでしょう。
その病気になってしまったことも含めて、自分の人生を肯定できるか、否定するか。
それで、希望に満ちた生を過ごすか、絶望から一歩も抜け出せない日々を過ごす事になるのかの、分かれ道に立っているとも言えます。
-前向きになるには、生の肯定が不可欠-
前向きであり得るかどうかは、完了形の生(これまで歩んできた生)を肯定できるかどうかにかかる。絶望は、現状の否定の上での、一歩踏み出す事の拒否である。(本文より)
これまでの人生を、生きてきた道を、肯定できるかどうか。
「これで良い」「苦労してきたからこそ、解る事ってある」「病気にならなかったら、多分、家族のありがたみって解らなかったかも」「怪我をしたからこそ、理解出来た部分もある。」
自分の生を全肯定をするって、中々出来る事ではないです。どうしたって、「だって!!!」と否定したくなる自分が存在する。
けれど、不幸な出来事も含めて、自分を肯定し、それが起こったからこそ解ることや、気付けたこともある。
これを受験で喩えてみると、受験に失敗し、落ちてしまったことは、確かに不幸な出来事かもしれない。
けれど、それを否定し、「いいや、単に運が悪かっただけだ」としてしまうと、その後の成長は可能でしょうか。
辛いし、悲しいし、残念だけれども、失敗を受け止め、それも含めて、自分を丸ごと肯定する。失敗して、悔しい。腸煮えくりかえるぐらい、悔しい。その悔しさを丸ごと肯定するなら、もう一度挑戦するか、何かしらにぶつけなければと、前を向くことができる。
今、成績が悪くて苦しんでいる子も、その現実は貴方にとってちょうどいい現実なのか。それを肯定出来るかどうかに、今後の成績の伸びは関わってきます。
(参照その1⇒不合格は失敗か それとも成長か)
(参照その2⇒悪い合格の特徴)
悪い自分を肯定する。丸ごと、受け止めてみる。
成績が悪くて苦しんで、折れそうになっているって事は、本音は成績が欲しい。出来ない自分を否定しかけている、って事です。
「ああ、自分は点数が欲しいんだ」「頭が良くなりたいんだ」って、当たり前のことかもしれませんけど、一度自分に呟いてみてください。自分の欲望を肯定してみると、意外に肩が軽くなるものです。良い子の部分だけでなく、駄目な部分や、どうしようもなく汚い部分も含めて、認めて受け入れてみる。
そうして初めて、前向きになれる。
肯定する、というのは、受け入れる、ということです。事実を事実として認めると、前向きに考えることができるようになる。
-肯定的な姿勢の源はその人の「生き方」に存在する-
では、どこにそうした肯定的な姿勢の源を求めることができるだろうか――人間の生のそもそものあり方に、だと思う。(本文より)
前向きになれる人って、自分の人生を丸ごと肯定できる人って、どんな人なんだろうか。という疑問です。
これ、知りたいですよね。
多分、自分を否定しまくって苦しい思いをしている人達は多いはず。と、いうよりも、誰もが自分を否定したくなる瞬間って、あるはずです。
でも、そんなことが起こっても、なお、肯定し、受け入れ、前を向ける人はどういう人なのか。
その答えは、生そもそものあり方。つまり、その人がどんな生き方をしているのか。それ自体に隠れている、と筆者は言っています。
生は独りで歩むものではない。共同で生きるように生まれついている人間は、皆と一緒に、あるいは、少なくとも誰かと一緒に、歩むのでなければ、肯定的姿勢を取れないようにできているらしい。(本文より)
私たちは、孤独ではいられない。
誰かと一緒に居て、はじめて、肯定的に自分の生を受け止められる。
不思議なんですけど、「それでも良いよ」「どうしようもない部分あるけど、まぁ、その部分も含めて君だよね」「本音を話してくれて、ありがとう」と言われると、「ああ、自分の傍には味方がいてくれる」って思えますよね。
ああ、本音で話しても、大丈夫なんだ。
自分のそばには誰かが居てくれるんだ。
そういうふうに、周りとコミュニケーションがとれ、素の自分を曝け出せる。醜い部分も含めて、いい子になれない駄目な自分も含めて、「それでいいよ」と言ってくれる人がいる。
認めてもらえると、「ああ、これでいいんだ」と思えます。
そうやって、人に自分の駄目な部分を認めてもらうと、人の駄目な部分も受け入れようと自然に思えてくる。
そんな風に生きている人は、自分の生を肯定できる。肯定的に受け止められる。と筆者は言っています。
私たち人間は、誰かと支え合って、認め合って、初めて自分の生を肯定できるのだと。
「一人じゃない」
そう思えることが、何よりも私たちの生を肯定し、前向きに生きる原動力を作ってくれる。希望を持たせてくれる。
-医療関係者たちの重篤患者に対する答-
「先行きはなかなか厳しいところがあります。でも、私たちはあなたと一緒に歩んで行きますから。」――私が敬愛する医療関係者たちが、「希望のもてる説明を!」というリクエストに対して見出した応答は、まさしくこのことに言及するものであった。(本文より)
一人ではない。
決して一人にさせない。
孤独ではなく、人とのかかわりや、認め合い、本音を肯定をすることで、患者を孤立させずに、肯定を感じるような関わり方、傍にいる事を徹底する。
それが、リクエストに対する医療従事者の答。
患者の家族、友人、そして、医者、看護師、周りにいる全ての人が、その人に「どこまで共にあるか」
鍵は全て、そこにかっています。
そして、患者が「ああ、これで良かったんだ」と思った瞬間に、希望が芽生え始める。医療従事者は、それを経験から知っているのです。
-悲しみは希望とともにある、の意味-
――もちろん、悲しみが解消されるわけではない。悲しみは希望と共にあり続ける。(本文より)
希望と悲しみが一緒に共存している。
これはどういうことなのか。言葉のイメージは、全く逆ですよね。
希望が「生」の中に存在している、ということは、何度も説明してきました。
ということは、その「生」が無くなってしまうことによって、悲しみは生まれるわけです。
つまり、希望を持てば持つほど。その「生」が輝いていれば輝いているほど、失った時の悲しみも大きくなる。
「生」を肯定する、とは周囲の人々と分かり合う、認め合いながら、支え合いながら生きる事と同義です。
そんな存在を失うことが、どれだけ悲しいのか。また、そんな悲しみを抱えるということは、それだけ「共に生きたい」と思っている事の証明のようなものです。
絶望のなかには、その悲しみはありません。
だからこそ、希望と悲しみは、同時に抱えるものなのです。
悲しみを抱く、ということは、それだけその人にとって亡くなる患者が愛し、愛された、大事な、掛け替えのない存在だったということの証明でもある。
【まとめ】
-死すべき者としての、希望のあり方-
自分の生を肯定する。
今までの生き方、病気になったことも含めて肯定し、受け止め、そして周囲の人々と関わり、孤独にならずに生きる。
そこに、希望は存在します。
一人にさせない。
しっかりと患者に寄り添う。
そのことが、生きる希望をもたらす、最も有効な方法であると、医療従事者は知っているのです。
生を肯定する。
そのことができるがどうかが、絶望のなかで過ごすか、希望にあふれた「生」を生きるかの、分かれ道であるという筆者の主張。
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明日は全体のまとめを行っていきます。
今日はここまで。
続きはまた明日。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
続きはこちら⇒死と向き合う 解説その6 まとめ
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