こんにちは、文LABOの松村瞳です。
今回は、漢文で必ず誰もが読む、性善説と性悪説。孟子と荀子を取り上げます。
この性善説、性悪説。内容がとても解りやすいもので、双方の主張も読みやすいし、理解もしやすいものです。一時期、早稲田大学などの有名私立大学で、漢文の入試問題として、白文で出題されていたこともありました。教科書に載っている文が、そのまま、受験に出るのです。
受験、というと、どうしても新しい問題に手を付けがちになってしまいますが、高校時代に授業でやった内容や、教科書に載っていて、でも授業でしなかった部分を読み直してみる作業が、見落としがちですが一番の受験対策なのでしょう。漢文の弱い人は、ぜひ一年の教科書を引きずり出して、音読だけでもいいので毎日5分。とにかく読んでみてください。一週間続けるだけで、試験の点数が変わってくると思いますよ。本気で。
【人の本質は、善か悪か】
古代中国の思想家たちの中でも、ずば抜けて知名度が高いのは、孔子ですが、彼は生きていた時代だけではなく、その考えを継いだ儒家というグループの中から、優れた後継者を出現させました。
その二人が、孟子と荀子の二人です。
特に孟子は亜聖とも呼ばれ、(孔子に次ぐ聖人という意。「亜」という漢字は、続く、二番目の、という意味がある。例 亜熱帯など)、人の本質は善であり、仁義の気持ちに基づいた君主が行う、王道政治を説きました。
王道は、仁徳の道。人の道にのっとった、道徳的な政治の事。
対し、武力や策略、現代で言うのならば、戦争や圧政などの政治を行う事を、王道の対義語で覇道と言います。
人の本質は善なのか、悪なのか。
仁を説いた孔子の学説を継いだ人達は、それを色々なものに喩えて、説明しようとしました。
この、目に見えないもの。はっきりしない事を、色んな事柄から根拠を見つけてきて、自分の考えを確かなものにしようとする書き方は、現代の科学者の考え方と似ていて、漢文の論の進め方は小論文や、評論文の文章の進め方ととても似ています。
参考になる部分が沢山あると思うので、文章上手く書きたい! と思う人は、先人の書き方を先ず真似てみてください。
さて、貴方はどちらだと思いますか? 人は善でしょうか。悪でしょうか。
人間は、善で出来ている、と思う人も、悪の塊だと思う人も、この孟子と荀子の主張を両方読んで考えてみましょう。
自分の考えを確立させるためには、先ず先人達がどう考えているのかを知り、理解をすることが必要になります。人から学び、そして自力で考える。人の考えを知るために、読解力を身につけていきましょう。
【不忍人之心~人に忍びざるの心~】
~白文~その1
孟子曰「人皆不忍人之心。先王有不忍人之心、斯有不忍人之政矣。以不忍人之心行不忍人之政治天下、可運之掌上。
~書き下し文~その1
孟子曰はく、「人皆人に忍びざるの心有り。先王人に忍びざるの政(まつりごと)有り。斯(ここ)に(すなわち、と読ませる時も有り)人に忍びざるの政有り。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行はば、天下を治むること、之を掌上(しょうじょう)に運(めぐ)らすべし。
(試験で読み仮名が問われそうな部分を色変えてみました。参考にしてください。)
~訳文~その1
孟先生が言う事には、「人は皆、人の不幸を見過ごしに出来ない心がある。古代の優れた王達は、人の不幸を見過ごすことが出来ない気持ちを持っていて、その心を元に、人民に対して思いやりのある政治を行った。人の不幸を見過ごしに出来ない気持ちを根底に持ちながら、人民に対して思いやりの政治を行うならば、天下を治めることはまるで手の平の上で物を転がすかのように容易なことなのだ。
~解説~その1
長いので、少しずつ分けて訳と解説を行っていきます。
まず、白文に書いてあり、何度も出てくる「不忍人之心」。書き下しでは、人に忍びざるの心、と読みます。
忍、という漢字は、耐え忍ぶ、の忍ではなく、残忍な、の忍。分解して考えると、刃の心、とも読めます。「忍」=「他人に対して、残虐、残忍な仕打ちをする」というもの。
ならば、不忍、は、その真逆です。
他人に対して残虐な仕打ち、非道な仕打ちをすることが耐えられない。訳では、不幸を見過ごせない、と書きました。これは、儒家の祖である孔子が説いた、人にとって最も大切な心。「仁」の気持ちに通じる、思いやりの心です。
人間にはもともと、人の不幸をどうしても見過ごせない気持ちがある。誰かが不幸に見舞われていたら、それを見過ごすことが出来ない気持ちが、誰にでもある、と説いているのです。
そして、例示として、孟子が一生をかけて説き続けた、王道政治を取り上げます。
古代の王朝で、聖人とまで讃えられた君主たちは、何も特別な才能を持っていたわけではなく、この人にもともと備わっている、人の不幸を見過ごすことなど出来ない気持ちを根幹として、他者。自分が治める土地の人民に対して「不忍人之政」=思いやりの政治を行った。
彼らは、人の根本に素直になり、思いやりの政治を行ったから人民に受け入れられた。だから、根本に立ち返り、思いやりの心で政治を行えば、天下を治めることはまるで手の平の上で物を転がすかのように、容易いことなのだ。簡単に出来ることなのだと、続きます。
そう。天下を治めたければ、思いやりのある政治・行動をしなさい、と説いているのです。
~白文~その2
所以謂人皆有不忍人之心者、今、人乍見孺子将入於井、皆有怵惕惻隠之心、非所以内交於孺子之父母也。非所以要誉於郷党朋友也。非悪其声而然也。
~書き下し文~その2
人皆人に忍びざるの心有りと謂ふ所以(ゆえん)の者は、今人乍(たちまち)孺子の将に井(せい)に入らんとするを見れば、皆怵惕惻隠の心有り。交わりを孺子の父母に内(い)るる所以に非(あら)ざるなり。誉れを郷党朋友に要(もと)むる所以に非ざるなり。其の声を悪(にく)みて然(しか)するに非ざるなり。
~訳文~その2
人に、人の心が見過ごせない気持ちが備わっているという理由は、今、仮に、目の前で幼児が井戸に落ちようとしている瞬間を、誰かが見たとすれば、その人は驚いてはっとし、可哀想だと思って助けようとするだろう。
これは幼児を助けることによって、その幼児の父や母と仲良く付き合おうとする計算づくの下心があるからではない。また、郷里の人々や友人から褒められたいと思う、虚栄心からでもない。また、逆に、幼児を助けなかったという悪評を怖がって、助けようとするのではない。
つまり、幼児を助けたいと思う、思いやりの心から、人間は助けるという行動を咄嗟にとってしまうのだ。
~解説~その2
性善説の有名な例示です。
人が善である、理由。
目の前で、孺子。これは、歩き始めて間もない赤ちゃんの事です。
そんな子供が、笑顔で井戸に落ちそうになっている光景を想像してみてください。井戸でなくとも、例えば道路で車に轢かれそうになっていたり、階段から落ちそうになっている姿でも、何でもいいです。
その瞬間。「危ないっ!!!」と思って、思わず助けようと動いてしまうのが、人間だと孟子は言っているのです。
その一瞬。極限状態とも言っていい瞬間に、人は自分に有利になるからするという、利害の気持ちや、名誉を気にしたり、誰かに褒められたいという気持ちだったり、そんなものは全て湧いてきません。
ただただ、純粋に、『危ない!』と思い、危険から子供を助けようとただ、必死になる。
それは、自然な心の動きであり、誰に強制されたわけでも、教えられたわけでもない。けれど、人間はそれをちゃんと知っている。だからこそ、人の本質は善なのだと、孟子は説明しようとしています。
人間、追い詰められ時に本質が出る、と言います。
だからこそ、孟子は追い詰められたその瞬間。人は、誰かを助けようとするものなのだと、幼児が井戸に落ちそうな時、という極限状態を例示にとって、説明しようとしたわけです。
続きは、また明日。
ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。
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