こんにちは、文LABOの松村瞳です。
性善説2回目。人に忍びざるの心。人の不幸を見過ごせない気持ち、とタイトルの付いた部分の後半です。咄嗟の時に、人は他者を助けようと思わず動いてしまう。そこには、私利私欲や名誉を得ようという心は一切ない。だからこそ、人の本質は善である、と孟子は説きました。
今日は、その続きの部分です。
【不忍人之心~人に忍びざるの心~】
~白文~その3
由是観之無惻隠之心、非人也。無羞悪之心、非人也。無辞譲之心、非人也。無是非之心、非人也。
惻隠之心、仁之端也。羞悪之心、義之端也。辞譲之心、礼之端也。是非之心、智之端也。人之有是四端也、猶其有四体也。
~書き下し文~その3
是に由(よ)りて之を観れば、惻隠の心無きは、人に非(あら)ざるなり。羞悪の心無きは、人に非ざるなり。辞譲の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。
惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は、義の端なり。辞譲の心は、礼の端なり。是非の心は、智の端なり。人の是の四端有るや、猶(な)ほ其の四体有るがごときなり。
~訳文~その3
以上のことから考えてみると、人の不幸をいたましく思う心のない者は、人間ではない。また、同じように悪を恥じ、不正を憎む心のない者は、人間ではない。へりくだり人に譲る心のない者は、人間ではない。正しいことを正しいとし、正しくないことを正しくないと判断する心のない者は、人間ではない。
人の不幸をいたましく思う心は、「仁」の糸口である。
悪を恥じ憎む心は、「義」の糸口である。
へりくだり人に譲る心は、「礼」の糸口である。
正しいか正しくないかを判断する心は「智」の糸口である。
人間の心にこの四つの糸口があるのは、ちょうど人間に両手両足が備わっているのと、全く同じなのである。
~解説~その3
咄嗟の場合、人間は子供を助けることを例示とし、それをまとめる部分となります。
人の不幸を可哀想だと思えないのならば、そんな存在は人間とは言えない、ときっぱり彼は言い切っています。どんな状態であろうとも、そういう気持ちがわき上がってこないものは、人間ではないと。
そして、そこから、悪行を恥じる気持ちが無い者。人に譲る気持ちが無い者、これが正しいのか、正しくないのかと常に問いかける気持ちが無い者は、全て人間ではない。
人間ならば、それは常に心の中にある筈なのだと。
そして、それらの気持ちが、儒教で最も大事な人間の心に繋がる糸口なのだと、孟子は続けます。
人の不幸を見過ごせない。助けたいと思う気持ちが、「仁」という思いやりの行動に繋がり、自分が悪行をしてしまう事を恥じて、更に他者が行った悪行を憎む気持ちが、「義」。利益に左右されず、為さなければならない事を行う行動に繋がり、人に譲る気持ちそのものが、「礼」。年長者や上下関係においての、礼儀。人間関係において、とても大事な行動だとされ、その物事が本当に正しいのか、正しくないのかを吟味する。見極めたいという気持ちが、「智」。道理をよく心得ている人に通じる糸口だとしています。
これら四つの糸口を持っていることは、ちょうど人間に手足が備わっていることと一緒で、持って生まれた物をどう使っていくかが問題なのである、と論じています。
~白文~その4
有是四端、而自謂不能者、自賊者也。謂其君不能者、賊其君者也。
凡有四端於我者、知皆拡而充之矣。若火之始然、泉之始達。
苟能充之足以保四海、苟不充之、不足以事父母。」
~書き下し文~その4
是の四端有りて、自ら能(あた)はずと謂う者は、自ら賊(そこな)ふ者なり。其の君能はずと謂ふ者は、其の君を賊ふ者なり。
凡(およ)そ我に四端有る者は、皆拡めて之を充たすを知る。火の始めて燃え、泉の始めて達するが若(ごと)し。
苟(いや)しくも能(よ)く之を充たさば、以て四海を保つに足り、苟しくも之を充たさずんば、以て父母に事(つか)ふるに足らず。」と
*「能」の字が、「あたふ」と、「よく」の二つの読みで出ていることを、見逃さない事。読みのテストでよく出題されます。
~訳文~その4
この「四端」(四つの始まり)があるのに、仁義礼智を実行できないと言っている者は、自分の価値を自分自身で貶める者だ。ひるがえって君主に対して仁義礼智を実行できないと言っている者は、君主の価値を貶める者だ。
大体、人間にもともと備わっているこの「四端」を育てていくことを知っている者は、誰であったとしても、仁義礼智の行動をひろめ、実行し続けていくことを既に知っているのだ。まるでそれは、小さな火が次第に燃え上がっていくように、また、新しく掘った井戸がやがてどんどん水を噴き出すように、自然なことなのである。
もし、之(四端)を大きく発展していくことが出来れば、やがて天下を平定し、治めることもできるだろう。逆に、もしこの四端を大きく発展させていくことが出来ないとするのならば、両親に仕えることすらできない人間になってしまうだろう」と、言った。
~解説~その4
孟子の考え方の特徴である、「四端の説」がここで説かれています。
「四端」つまり、「惻隠の心、羞悪の心、辞譲の心、是非の心」。それぞれを、「仁、義、礼、智」に繋がる糸口である、というリンクさせた考え方です。
仁の心とは、というのは、孔子の時代から良く弟子たちに質問されていたことなのですが、具体的に解りやすく説明されると、「ああ、そういうことか」と解る瞬間がありますよね。誤解のないように、解りやすい例示。子供が危険にさらされた時、私たちはどういう行動をとり、どんな気持ちになるのか。
誰でも想像しやすい、そして、体験するかもしれない状況を作り出して、その時の気持ちが同一であることを指し示し、だからこそ、人の本質は「善」で出来ている、と孟子は説きました。
そして、それを解っていながら行動に移せない人間は、自分で自分の品位を貶めているだけだし、自分だけでなく、周囲に居る人々をも貶める行為だと、厳しく指摘しています。
それが嫌であるのならば、四端を具体的な行動に移せるように、発展させていかなければいけない。それを充たす(充分に行動に移せるようにしていく)ことによって、天下を治めるべき、「君子」になることもできる。
人間の本質を伸ばしていくことに、可能性と期待を込めた言葉です。
孟子が生きたのは、春秋戦国時代です。
どちらかと言うならば、人を騙し、利を求め、少しでも自分が得をすること。如何に、他国に攻め込まれず、また、自分の国が相手に勝てるかどうかを考えていた、戦国の時代。
その戦いに明け暮れた時代に、人の本質は「善」と説いた孟子の考え方は、君主に受け入れられたとしても、実際の行動としては採用されませんでした。
理想は、確かにそうだ。けれども、現実は……と、誰もが思ったのかもしれません。
やらなければやられてしまう。そんな、荒みきった戦乱の世だからこそ、それを憎み、間違っていると思ったからこそ、孟子はこの考え方を広めようと必死だったのでしょう。
其の時代に、人を騙し、欺き、不幸に付け入り、悪行を為して成立した国は、もうどこにも残っていません。けれど、孟子の思想は残りました。
人々が本来、どちらを必要としていたのか。人間は、何を信じなければならないのか。
歴史の事実がそれを教えてくれているようです。
性善説の続きはまた明日。明日は、もうひとつよく読まれている孟子の言葉を取り上げます。
ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。
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