小説読解 夏目漱石「こころ」その4 ~先生がお嬢さんに告白しない理由~


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「こころ」解説、その4。

大修館書店発行の現代文B上巻では、181pの第二段落からの部分になります。

他の教科書では、これ以降のシーンから掲載されていることが多いのですが、その前のシーンはとても重要な部分があります。

何故なら、先生がどうして動かないのか。どうして、ここまで心がきまっているのに告白をしないのか。その理由が書かれているからです。

文学小説はとかく説明部分が多く、話の展開も静かな物が多いのでつまらない、という感想を抱きがちですが、静かに見えたとしても、人の感情というのは、揺れ動いているものです。

特に、自分にとっては大したことではないと思っている事でも、相手にしてみたらとても重い一言だったということや、認識の違いによるズレ。すれ違いなど、とても沢山日常的に起こっているものです。

些細な物事にどれだけ注意を払って読めるか。些細な表現に、どれだけ注目できるか。それが小説の読解に、必要な能力なのかもしれません。

【先生の告白の相手】

想いを寄せている下宿先のお嬢さん。そのお嬢さんが、自分の友達の段々仲が良くなっていくのに、やきもきしている。

実家とのトラブルでふさぎこんでいた友人が、人の優しい心に触れて回復していくのはとても嬉しいことなのに、それが自分の好きな相手と急接近をしているように見えると気が気でない。

これは、別段明治という時代を考えずとも、現代でも十分理解できる気持ちですよね。

好きな女性が、自分の友人と自分抜きで出掛けている。しかも、それをはっきりとは教えてくれない。もやっ、として当たり前です。それでもやっとしなかったら、お嬢さんの事をそれほど好きではないということです。どうでも良い人が誰と出掛けていたとしても、気にしません。気にする、ということは、それだけ相手の事が気にかかると言うこと。

前回のエビソードで、愛の半分は嫉妬である、という表現がありましたが、現代的な感覚で言うのならば、嫉妬が半分を占めるのは愛ではなく、相手を自分のものにしたいという願望・支配欲に近かったのではと思えます。

で、微妙な状況に我慢がならなくなった先生。

告白を決意します。

私はそれまで躊躇していた自分の心を、ひと思いに相手の胸へたたきつけようかと考えだしました。私の相手というのはお嬢さんではありません。奥さんの事です。奥さんにお嬢さんをくれろと明白な談判を開こうかと考えたのです。(本文より)

ここの部分を読むと、「えっっ?? お嬢さん本人に告白するんじゃないの??」と思う人がいそうですが、明治時代は結婚は親同士が決めるものであり、自由恋愛という感覚は少ない時代でした。

だから、この時の先生の告白相手が奥さんで、「お嬢さんをください」と願い出る事は、そう不思議なことでも何でもなかった。むしろ普通で当然の事でした。

けれど。

しかし、そう決心しながら、一日一日と私は断行の日を延ばしていったのです。(本文より)

あー、あるある。やろうやろうと思っても、中々それが出来ない日々。誰にでもあることですよね。しかもそれが一大決心に基づくもので結婚に関わることなら、一概に意気地なしとも言い難い気がします。漱石が描く主人公にしては、意外ですけれど。「坊ちゃん」の主人公なんて猪突猛進だから、思い立ったが吉日ですぐ告白してしまいそうなんですけどね。

【先生が告白しない理由】

そして、何故告白できないのか。結婚の申し出が出来ないのか、という理由が、その後続きます。

実際、私の進みかねたのは、意志の力に不足があったためではありません。Kの来ないうちは、他(ひと)の手に乗るのがいやだという我慢が私を抑えつけて、一歩も動けないようにしていました。(本文より)

-Kが来る前-

はい。まず、Kが来る前はどうだったかと言うと……

下宿している先は、日清戦争で軍人である夫を亡くしてしまった奥さんと、その娘さんです。

明治時代ですから、まだまだ女性が一人で生きていける時代ではなく、夫が戦死。だからこそ、素人ながらに下宿を始めたのでしょうが、そこにやってきたのが遺産を相続したばかりの帝国大学の学生です。

どう考えても、この男性に娘を貰っていただけたらと考えるのが、お母さんとしての心境なのではないでしょうか。

奥さんがどう思っていたかは解りませんが、少なくとも先生は、そういうように受け取っていた、ということが解ります。

ここで、自分がお嬢さんとの結婚を申し込むことは、まるで奥さんや周囲の期待に沿うような形になるから、面白くない。

他者に自分の行動をあらかじめ決められてしまい、その通りに進むのは我慢がならない。だから、告白しなかった。




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あくまでも、周囲の意見や期待に屈する形の行動をするのではなく、自分の意志による行動をしたかった、ということになるのですが………

頑固だなぁ。そして、プライドが高いなぁ……と、なんとなく思えてしまいます。そうして、こんなこといちいち考えてたら、相当生き辛いだろうなぁ、この人。

何せ、自分のやりたいことと、周囲の期待が合致していたら、「やらない」って不利な方向に動くということですからね。

それがやりたくない事であるのならば。望んでいない事ならば解りますが、周囲の人間の思い通りに動くのは、なんだか嫌だと。どんだけプライド高いんだよ!!

でも、少し考えると先生の本当に望んでいた道というのも、うっすらとですが透けて見えます。

きっと、そんなことを気にしない、むしろ、周囲の期待を裏切るような形になっても、愛を貫き通したかった。簡単に自分の意志が通る状況ではなく、より困難な道を選びたかったのではないかなと。

だからこそ、自分が申し出れば、恐らく簡単に進むであろう状況で告白することが、なんとなく面白くなく、人の、奥さんの期待にこたえるのが嫌だと思うようにまでなっていた。

-Kが来た後-

では、Kが来た後はどうだったのか。

Kが来た後は、もしかするとお嬢さんがKの方に意があるのではなかろうかという疑念が絶えず私を制するようになったのです。果たしてお嬢さんが私よりもKに心を傾けているのならば、この恋は口へ言い出す価値のないものとして私は決心していたのです。(本文より)

はい。Kが来た後は、お嬢さんが先生よりもKの方が好きなんじゃないかと、疑惑を持つようになります。

そして、お嬢さんの心がKに向いているのならば、告白なんかする価値がない。この恋は、忘れるべきものだと、決めていた……と。

うっかり現代の常識で考えると、相手が違う人を好きならば、混乱させるだけだから告白したって意味ないよな。それに、ふられるのは確定なんだし……と、告白を諦める気持ちも理解できるものと思っちゃいますが、この小説のテーマが「エゴ=利己的」だと言うのが、続く記述で良く解ります。

そう、この先生。とことん、考え方が利己主義。現代風に言うのならば徹底して自分ファーストなんです……恋の相手のお嬢さんの気持ちなんか、欠片も慮っていません。

恥をかかせられるのがつらいなどというのとは少し訳が違います。こっちでいくら思っても、向こうが内心他の人に愛の眼を注いでいるならば、私はそんな女と一緒になるのはいやなのです。(本文より)

要するに……

自分は全力で彼女を愛しているのだから、向こうもこちらを100%疑いなく、好きでいなくてはいけない。

心の奥底で、誰か違う人を好きだという女性とは、結婚したくない。自分を絶対的に100%好きな相手てなくては告白する意味がないし、する気もない。結婚もしない、と言っているんです。

この先生……振り向かせる気、ゼロですよね。

たとえお嬢さんがKの事が好きであったとしても、こちらを振り向かせてみせる!!という気持ちは全くなく、絶対に自分の事を好きでなくては許せない。

それが確定していると保障されなければ、告白する意味はない、と。

ここに、失敗するのが嫌。挑戦して失敗するぐらいだったら、挑戦そのものをやめてしまう、成功体験しか積み上げてこなかった人の欠点が、とても色濃く出ています。

周りが応援して、障害が何もない状態の時には、誰かが引いたレールの上を走るみたいで自分の意志が感じられず、面白くないから行動せず、逆に障害の存在。Kが出てきたら、お嬢さんが自分を100%好きでいてくれるか疑わしいし、保証できないから、告白したくない……

書いてて頭痛くなってきた……(呆)

お前、挑戦しない理由を探し出して並べているだけじゃないか!!と、言いたくなります。

この先生という人物。色んな事を考えていそうで、非常に利己的な考え方をしていた。それを自分で自覚していなかった、ということも、ポイントです。

【高尚な理論家・迂遠な実際家】

つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。同時に最も迂遠な愛の実際家だったのです。(本文より)

はい、対比です。

どう考えても、ここの部分は記述の問題になりそうな部分。テスト的に要チェックな部分です。

-高尚な愛の理論家-

高尚な愛の理論家、とはどういうことか。

高尚な、とは、芸術・学術的に程度が高く、上品であることです。

つまり、立派である。立派なものだったと、自分で言っているわけです。

自分は立派な、愛に関する理論家だったと。

理論家、とはどういうことなのか。理論は、様々な事柄を筋道立てて統一し、系統立てて整理すること、です。

では、高尚な愛の理論家、とはどんな存在だったと言うのか。

愛情と言うものは、こうあるべきだ、という統一された理想図が頭の中にあり、それが驚くほど高度で、程度が高いものであったと言うこと、です。

言いかえれば、先生にとって愛や恋という物は、予測不可能なものではなく、きちんとした統一された理想図があり、そこから外れたものは愛に値するものではないと決めつけていた、ということです。

-最も迂遠な愛の実際家-

では、最も迂遠な愛の実際家とは、どういうことなのか。

迂遠とは、回りくどく、のろまで、実用に適さないもの、という意味です。

実際家とは、言いかえれば実務家。物事を現実的に処理することを好む人。臨機応変に、その場その場で処理する、実践の人、という意味。

要するに、迂遠な愛の実際家、とは、とてものろまな、愛の行動者であったということです。

愛に適する行為を、その場その場で臨機応変に取ることのできない、のろまな実践者であったと言うこと。

-記述まとめ-

まとめると、先生は、愛情を予測可能なものだとし、決められた理想図通りに進められなければならないものと決めつけていたが、逆に、周囲に求められていたとしても実際に愛情を行動にうつす場面では、何一つ動けなくなってしまう人間でもあった、と言うことです。

 

【お嬢さんを避けた先生】

さて、では恋の相手。お嬢さんの態度はどうだったかと言うと、その続きに凄いものがさらっと書いてあります。

きっちり解説すると、大抵女子が怒りだす部分でもありますが……まぁ、明治の女性観なので許してあげてください(笑)

肝心のお嬢さんに、直接この私というものを打ち明ける機会も、長く一緒にいるうちには時々出てきたのですが、私はわざとそれを避けました。日本の習慣として、そういうことは許されていないのだという自覚が、その頃の私には強くありました。(本文より)

自分を分かってもらえる機会。理解しあうために、話しあうことだと思うのですが、先生はそれを避けていた。

自分を理解してもらおうとは思わなかった、というのです。

日本の習慣として許されていない、というのは、お互いが解り合ったり、己を本音を曝け出す事が駄目なことだとされていた。

要するに、人間的に弱い部分や、安らぎを求めてはいけないとされる風潮があった、と言うことです。富国強兵真っ只中。しかも、時は日清戦争や日露戦争の時代です。そんな中、社会が男性に求める姿は、とても厳格な、軍隊然とした、武士のような態度を求めたのでしょう。

弱音を吐けず、自分をさらけ出す事も、女性と分かり合うことも、会話を楽しむことも許されない。

明治時代、女性との自由恋愛は、キリスト教的な清純な物を指しました。だからこそ、高尚さを求め、醜い自分の本音など、打ち明けることなど許されない事だと、非常に強く自分を戒めていたのです。

しかし決してそればかりが、私を束縛したとは言えません。日本人、ことに若い女は、そんな場合に、相手に気兼ねなく自分の思ったとおりを遠慮せずに口にするだけの勇気に乏しいものと私は見込んでいたのです。(本文より)

はい……女子が怒る場面がやってきました。

男性と話しあいの時、若い女性が思ったことを素直に口にする勇気なんかないだろう、と。

つまり、先生の事を想っているか、Kの事を好きなのか。確かめるために話しあったとしても、きっと自分の本音を素直に話す勇気なんか、きっと持ってない。こちらに合わせた、嘘を話すか、黙り込むだろうと、見なしているのです。

明治時代の男性の平均的な考え方、と見なす事も出来ますが、人は他者の評価を口にする時、自然と自分の本音を口に出すものだと言われています。

つまり、相手に直接確かめたりもせずにきっとこう思っているのだろうと思い込む、ということは、自分が考えている思考が、そのまま反映されているということ。

お嬢さんには、本音を言う勇気など無いだろう、と思い込んでいるということは、先生自身、人前で本音を言える人間ではなかった。そんな勇気を持ち合わせていなかった。

誰に対しても、本音を言うことなど無かった、ということです。

誰に対しても。そう、友人である、Kに対しても、です。

ここで、先生の過去を振り返りましょう。遺産の件で叔父に裏切られ、強烈な人間不信になっています。

お嬢さんに100%自分を好きでいてほしいと望むのも、人を信じられなくなったからこそ、反動で絶対的に信じきれる存在が欲しかった心の現れではないでしょうか。

相手に本音を語れないのも、その勇気が持てないのも、人に自分をさらけ出せないのも、「それでまた裏切られてしまったら……」という考えが頭をよぎるからでしないでしょうか。

だから、自分の本音が色濃く出てしまう相手。お嬢さんの存在を避けてしまう。

無意識に、本音が出てしまうのを本能的に避けようとしたのではないでしょうか。

そして、人間不信だからこそ、相手に気兼ねし、自分の思った通りの事など口にできなくなっていた己の姿を無意識に解っていたからこそ、きっとお嬢さんも自分と話す時、自分に気を使って、こちらが好きな態度を演じるのではないか、と思うと、先生は話せなくなってしまうのです。

潔癖症であり、完璧主義でもあるからこそ、人の偽りが許せず、さりとて本音を曝け出す事も出来ない。

色んなものでがらんじがらめになったキャラクターだとつくづく思います。この先生という、人物。

さて、今日はここまで。

明日は、Kの恋の告白場面の解説です。

 

ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。

 

続きはこちら⇒小説読解 夏目漱石「こころ」その5~Kの告白の不自然さ~


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