地図の想像力 論理国語 解説

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筑摩書房の論理国語から、若林幹夫さん著、「地図の想像力」の解説をします。

この、地図という存在。

現代はグーグル・マップなどに代表されるように、方向も距離も正確で緻密な地図が手軽にスマートフォンで手に入るような状態になってしまいましたが、それでも日ごろ私たちが目にしている地図はいい意味で「歪んでいる」ことがとても多い存在です。

生徒1
生徒1

「えっ? 地図が歪んでいる?」

生徒2
生徒2

「そんなことあるわけないじゃない!

歪んでいたら、ちゃんと目的地に着かないし!」

そうですよね。地図は「絶対に正確だ」と特に私たち自身が思い込んでいる部分もあるのですが、目にしているものが当たり前に溢れすぎていて、それを制作した人がどのような意図で創っているかということまでは、私たちは普段あまり考えません。

けれども、いざ自分が地図を描こうと思った時、あなたはどうやって描きますか?

学校から家までの道のりを描かなければいけないとき、分かりやすい部分(まっすぐ進むだけの道とか)を省略して、複雑な部分を拡大して丁寧に描こうとしませんか? それを読む人が混乱しないように、という善意で距離や方角の正確さを、捨てているときがありませんか?

そう。人間が創り出すものは、それが善意であれ悪意であれ、基本的に何かしらの目的を持っています。私たちが見るべきは、その製作者の意図なのです。

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本文

第1段落~第4段落

概念的な描像とは

地図が世界に対するイメージの表現であり、概念的な描像であるということは、近代的な地図の「リアリズム」になじんだ私たちには少し理解しにくい。(本文第1段落)

この最初の文章で、

生徒1
生徒1

「はっ??」

となる子は意外に多いです。というか、明確に

生徒1
生徒1

「分からん!!」

となる子の方が、実はよく考えているから最終的に理解できるという不思議な現象があります。
逆にダメな読み方は、

「なんとなーくは分かるんだけどなぁ……

というやつ(笑)

「わからない」は、必死に考えている・理解しようとしている人にしか訪れない感覚なので、「分からん!!」と思っている子ほど、理解できた時に伸びます。なのでそこで諦めない事。冷静に分割すれば、さほど難しい文章ではありません。

抽象的な表現が多い文章になった時、どう対処するか。その方法を知っておきましょう。実はとても簡単です。その方法は、思いっきり大胆に単純化すること。ここでいうのならば、主語と述語のチェックをし、イコール関係でつなげられるところを抜き出してつなげてみます。

具体的にこの文章で行うと、

地図=世界に対するイメージ=概念的な描像=私たちに理解しにくいもの
という形でつなげられます。
そしてもう1つ国語で大事な要素は、語彙力です。分からない言葉に対して、どうアプローチしていくか。
普段の勉強ならば、辞書でひとつひとつ丁寧に調べることを薦めます。それは国語の問題だけでなく、分からないことがあったらすぐさま調べるという習慣をつけることにもつながっていくからです。
ここでいう分からない言葉は、描像。(びょうぞう)
漢字は表意文字(文字自体が意味を持つ)なので、熟語は比較的意味がとりやすいです。更に漢文の知識があれば、熟語を読み下すことができます。それをすると……
描像=像を描(えが)く、と読み下せます。
辞書的な意味は、
描像=〘名〙 像をえがくこと。また、その像。特に物理学などで、ある複雑な現象や概念の本質的な仕組みをとらえ、多くの人がそれを既存の知識で容易に思い描けるようにしたもの。

となります。基礎的なことは当たっていますが、ならばなぜ筆者が「像を描く」と文章に書かずに描像という熟語にしたのかは、「本質的な仕組みを捉えて、簡単に描けるようにしたもの」という部分の意味を入れたかったからです。まさしく地図ってそうですものね。

けれど、過去の歴史ではそうした概念的なイメージである地図が量産されてきたのに、現代の私たちにはその意味合いがいまいち通じなくなっている、理解できなくなっている、ということを筆者は指摘しています。

それは、グーグルマップなどが急速に普及したからこそ、より正確な、リアリティがある地図が手元で簡単に今は見ることができます。その状況に慣れ過ぎてしまった現代人から見ると、その概念的なイメージで描かれた地図がどうしても理解し辛いものになっている、というのです。

ここに、地図とは何なのか、という本質的な問いかけが含まれています。

ここで「T-O図」と呼ばれる中世ヨーロッパの地図が出てきます。

wikipediaより

物凄ーくざっくりとした中世の地図ですが、色々とおかしい(笑)中世の世界では、アメリカ大陸はありません。本当にこの時期、見つけられてなかったんだなぁということが分かります。アジアはどれだけ大きいのかと思ってしまいますよね。(比率的に考えると、ヨーロッパが大きすぎるのか??)オーストラリア大陸もないし、もちろん日本列島など影も形も存在していません。

ポイントは、この地図があくまでも「中世ヨーロッパ」(8世紀にスペインの修道士が作成したと言われています)で作成された地図であり、彼らの価値観(概念)が如実に表されていることです。

中世ヨーロッパの地図を見れば、それが世界に対するイメージの表現であり、概念的な描像であることも納得できるだろう。(本文第1段落)

世界の中心には聖地エルサレムがあり、世界は円形の平面であるのは、旧約聖書に記述された予言書である「イザヤ書」の中の描写を忠実に守っているだけです。

実際に目で見たことや、歩いて計った距離を基準にするのではなく、全て「聖書」に書いてあることが正しい、という強固な概念の上に組み立てられた地図なわけです。逆に言うのならば、「世界は円形でなければならない」し、「世界の中心はエルサレム」でなければならず、それ以外の現実などありえないわけです。なにせ中世のヨーロッパでは聖書に書かれていることは『絶対』で疑問を持つことすら許されないし、異議を唱えようものなら『異端」として「破門」されてしまうわけです。(それぐらい別にいいじゃないかと思える人は、世界史の先生に質問してください。中世では、キリスト教から破門されたら、少なくとも『死』以上の酷い扱いを受けることになります。具体的にはあまりに残酷過ぎるのでここでは書きませんが……)

近代的な思考からすれば、T-O図のような「地図」は、世界に対する科学的な知識の不足と測量術の未熟さからくる、いまだ未発達な地図の姿であるかのように思われるかもしれない。(本文第3段落)

この文章もヒントをくれています。

文末で、「思われるかもしれない」とすごく回りくどい書き方をしていますが、「そう思う可能性があるのだけれども」と前振りをしているので、その続きは「実は違うんだよね」と続くのが呼応というものです。

なので、少なくとも筆者はこのT-O図は科学的な未発達さが招いた非科学的な地図である、という意見には反対の立場を取っていることが、先を読まずとも推測出来てきます。(この先読みは評論を読むうえでとても大事)

確かに、科学的に未発達な部分も多分にあったかもしれません。何せ大航海時代は遥か先の15世紀~17世紀です。海の中に浮かぶ孤島の存在など、船で行ってみなければ認識できるはずがないのは、確かにその通りです。知らないものに関しては全く書けませんし、アメリカやオーストラリアが書けないのは、科学的な未発達さがもたらしている物だと評価されたとしても、仕方がないことです。

けれど、筆者は今回の問題はそこ(=科学的未発達さがもたらす未発達な地図の作成)ではないと言います。

未熟ではない過去の地図

だが、ここで問題にしたいのは、今回の地図における科学性とは、地図が世界を概念化しイメージ化する一つの方法にすぎないということ、そして地図の歴史の中には、そのような「科学」とは異なる多様な世界の概念化とイメージ化の方法が見いだされるということだ。(本文第4段落)

ここで科学とは異なる方法、と筆者は言及しています。

つまり、科学的な事実が解っていようがどうであろうが、「イメージ」が優先されて地図が描かれる場合がある、ということです。

これを具体的に説明すると、作成者にとって重要だと思っている場所は大きく、中心に据え、詳しく描き、価値が低い部分は小さく、端のほうで、おおざっぱな描き方をする地図の描き方がある、というわけです。

距離や方角の正確性ではなく、あくまで「作成者が何を重要視しているか」「地図を見る人に何を伝えたいと思っているか」によって、作成されている地図が数多あり、T-O図はその一つの形である、というのです。

異なる時代、異なる場所に住む人々がこれまで作りだしてきた、こうした世界の概念化とイメージ化の多様さを科学の名の下に「未熟なもの」として一括りにしてしまう時、人は、人間が世界と取り結ぶ関係の多様さと豊饒さを見失ってしまうだろう。(本文第4段落)

とても文学的な素敵な文章だなと思いつつ、こういう文章が入り込んでいると途端に

生徒1
生徒1

「これ、何?」

となってしまう生徒が多いのですが、これも主要な意味を見る時は主語と述語を抜き出せば簡単です。

人は、見失ってしまう。➡何を?

主語述語を抜き出せば、どうしても目的語の存在を考えられるはずです。そうすると、何を人は失ってしまうのかと思いながら読み直せば、「人間が世界と取り結ぶ関係の多様さと豊饒さ」が見えてきます。

そして、それには条件が付いています。

異なる時代、異なる場所となっていますが、異なる時代は過去。異なる場所は、自分が住んでいる場所以外の、と置き換えられます。

どうしても人間は、「今いる自分たちの場所」を基準にしてしか物を考えることができません。そして、自分たちの考え方が素晴らしい、優れていると思いたいものです。

なので、過去の世界よりも圧倒的に進歩していると間違いなく思える「科学」というものを使って、「過去の作品は全て科学的に『未熟な』存在なのだ」と思い込んでしまうと、それだけ視野が狭くなります。

むしろ、科学で判明されていないからこそ、そこには人々の自由な発想や想像力が生まれていました。知らないからこそ「こうだったのではないか」という概念が綺麗に形として残り、その豊かさは同じ時代、同じ場所に住んでいては見えないし、作れなかったものです。

それらを知り、どんな思いでこれを創ったのかを想像する余地が私たちには残されているはずなのに、それを「未熟だ!!」と一言で一括りにしてしまうのは、とても残念なことだと、筆者は語っているわけです。

これは個人的な感想になりますが、心から筆者の意見に私は賛同します。

私は古典を読むのが好きな人間なのですが、千年前の文章が現代よりも「未熟だ」などと思ったことは一度としてありません。思うのはいつも逆の感情です。確かに科学的知識に基づいた記述は少ないです。けれど、限られた伝達手段だからこそ(何せ記録する紙が超高級品だったから)考えに考えられた洗練された文章がそこにあり、無駄がなく、けれども無機質というわけでもありません。音律が整えられ、読んでいてリズム感すら感じるほどに言葉が整えられている。それを「未熟だ」「昔の未開の存在で価値がない」「科学的知識のある現代の方が素晴らしい」と一刀両断してしまうのは、寂しいなぁといつも感じてしまうのです。

こんなにも綺麗で面白くて、魅力的なのに。

人間が世界と取り結ぶ関係の多様さと豊饒さを見失ってしまうだろう。

何かを「未熟だ」と思った瞬間、視野は極端に狭くなっているのかもしれません。その多様性、豊饒さに気が付けていないから「未熟だ」と一括りにしてしまう。そうはならないでほしい。地図を読み解くのも、その一つだよと、筆者は言いたいわけですね。

第5段落~第9段落

地図が表現する世界とは

右に述べたことから言えるのは、概念やイメージとしての地図が表現する世界とは、「世界そのもの」などではなく「人間にとっての世界」、人間によって見られ、読み取られ、解釈された「意味としての世界」であるということだ。それは、ある社会で人々が世界や社会を見る見方を表現した集合的な表象なのだ。(本文第5段落)

ここで、「AとはB」という典型的な形が出てきます。これを=でつなげると、

地図が表現する世界=人間によって見られ、読み取られ、解釈された「意味としての世界」=世界や社会を見る見方を表現した集合的な表象
となります。
すごーくわかりづらくなっていますが、ひとつひとつ見ていきましょう。
まず、「地図が表現する世界」という言葉の意味ですが、地図をただの記号や現実を写し取った写真のようなものだと認識してしまうと、理解できません。ある意味、グーグルマップなどの正確な地図に慣れてしまっているからこそ、地図が描き手による創作物であることに現代の私たちは気が付きにくくなっています。
手描きであろうがパソコンで作成していようが関係ありません。AIが作成しているわけでもない限り、何かしらの地図には製作者が存在します。そして、その人の意図する世界がそこには何らかの意図をもって描かれているわけです。
ここをわかっていると、人間によって見られ、読み取られ、解釈された「意味としての世界」という部分の理解が進みます。
地図は現実をそのまま映し出しているわけではありません。同じものを見ても、人によって好き嫌いは様々ですし、好みも文化的背景もそこには存在します。その「現実」を何かに写し取ろうとした瞬間、創作者の頭の中で整理され、「どう表現し、どう見せるか」という観点が必ず入ります。これが「意味としての世界」です。地図の作成者によって現実はまず「見られ」ます。
そして、その現実を「読み取り」、製作者の「解釈」を加えて、描き出される。
たとえばT-O図ですが、中世ヨーロッパのキリスト教社会では、まず世界の中心は聖地エルサレムでなければいけません。それは彼らの世界では聖地が世界の中心であるという「意味づけ」が成されているからです。
これは現代でも同じで、私たち日本人は自然と日本が中心に据えられた地図を日常的に目にしていますし、
それで世界を理解していますが、これは日本でしか使われていない地図です。
世界で主に使用されているのは、ヨーロッパを中心に据えた↑此方だったりするんです。
日本の存在がかなり隅っこです(笑)でも、欧米人からしてみたらやはり世界の価値観や意味づけはこの地図の上に載っていますし、東の果ての国、と日本が言われているのはこのヨーロッパ中心の地図で確認すればまさにその通りなんですよね。
物の見方というのは「何を中心に据えるか」というたった一つの基準で、同じものでも全く違う意味合いを持って見れるものが殆どです。これが製作者の「意図」であり、「意味づけされた世界」の見方になります。

「いや、地図は正確な情報であるにすぎないよ」

 

という意見もあるでしょう。確かにその通り。一理あります。科学技術が未熟な時期ならばそれも解るけれども、今はかなり正確な情報としての地図が簡単に手に入るようになりましたし、製作者の意図など入る隙間もない。「意味づけ」などありえない、という意見も確かにあります。

けれど、筆者が言いたいことはそこではないし、現代にいたっても、正確さよりも「意味づけ」を重視した地図はそこら中に存在しています。

ここでの意味とは、世界を記号によって記述し、理解する人間の営みにおいて記述され、表現されるものすべてを指す。(本文第7段落)

私たちの認知能力というのは、様々な記号。いわゆる基準を使って保たれています。数字が良い例なんですが、一概に「遠い」「近い」という感覚も、人それぞれによって感覚の違いがあるから、日常的に運動部で体を動かしている人だったら、徒歩15分は「近い」と思うかもしれませんが、歩くのが嫌な人にとっては徒歩5分も「遠い」と感じることはよくあります。

これは同じ日本人であると比較もそこまでずれはありませんが、これが国が違うとアメリカでは(特に田舎)、車で3時間移動が「近い」と言ったり、さらには中国の土地感覚だと、車で3日移動が「近い」というのも当たり前なんだとか……(近いって何だったっけ? と思いたくなりますよね(笑))

けれど、それに「数字」という明確な規準を付けると、とたんに感覚に頼っていた言葉がすっきりと理解できるようになります。そしてお互いの距離の感覚のずれも理解できるようになるのですが、この「数」という概念。人間が人間の為に作り出したもので、動物にはそんなもの必要ありません。(もしかしたら動物には動物なりの理解する記号があるのかもしれませんが……)

標高も距離も「人間にとって」の高さや隔たりであって、自然界には「客観的な距離」など存在しない。(本文第8段落)

「数」で表される世界は、あくまでも「人間にとって意味のある数」であり、自然界にはそんなものは存在しませんし、そんなものが無くとも動物や植物たちは生きています。

そう考えると、私たち人間は自分たちの都合の良いものを次々に創り出して、それで世界を尺度にはめ、理解したいように理解している、ということになります。

また、地図に標高や距離が正確な縮尺によって表現されているのは、それが地図の製作者や利用者によって「有意味」な情報であると認められているからである。逆に言えば、そのようなものが「無意味」であれば、地図はそうした数量的な情報を無視して描かれることも可能である。(本文第8段落)

ここで先ほど話した「数」の概念を地図上に描き出すのか、その基準が示されます。

標高の高さや距離の正確さを描くことに何らかの「意味」があれば、描く。「意味」がなければ、もしくはそれよりも大事で優先しなければいけないことがあれば、描かないor無視するのが当たり前であるのが、地図の世界になるわけです。

たとえば、東京タワーとスカイツリーの高さを数字で示されるより、絵で示された方がよりリアルですよね。高さの比較だと、高さは約2倍もの高さがスカイツリーにはあるわけですが、縮尺図で見た方がより明確に違いが判るわけです。

なので、それは正確な尺度で描き出すことの「意味」はありますし、よりスカイツリーの高さを強調する意図からしてみたら、正確性はとても大事な「意味づけ」になります。描き出す価値があるんですね。

けれども、これが例えば地下鉄の路線図や、東京や大阪の鉄道路線図になると、距離の正確性や方向は、まっっったく意味を成しません。

あくまでここで「有意味」なのは、接続関係と順番、行先や特急や急行、快速が停車する駅の情報であって、「A駅とB駅が25キロ離れているのか」なんて情報は全くいらないわけです。

土地の距離感でいうのならば、山手線は綺麗な円になっているわけではなく、結構がたがただし、広さもその周辺の液の距離感と比べてこんなに大きいわけはないのに、とても大きく書かれています。(そうじゃないと駅名が書けない事情なのですが)。

ここでは方向や距離の正確な縮尺ではなく、駅名の正確さと読みやすさ。どの線がどの駅で接続していて乗り換えが可能なのか、という情報の方が距離と方向の正確さよりも重視される情報なので、そちらを優先して書いているだけなのです。

神話で主観な地図

「科学的」で「客観的」な地図の存在を支えている「科学」や「客観」も、それが世界を記述し理解するための記号による意味の体系であるという点では「神話」や「主観」と変わりがないのだ。(本文第9段落)

これも構造的に難しい文章なので、主語と述語のみを抜き出してみます。

「科学」や「客観」も、「神話」や「主観」と変わりがない。

変わりがない=同じである、と置き換えると

「科学」=「神話」「客観」=「主観」という、とんでもない=関係が成り立ってしまいます(笑)

けれど、ちゃんと条件が書いてあります。

世界を記述し理解するための記号による意味の体系であるという点では

という条件です。地図が世界を記述し理解する為に数字や縮尺や方向などを使って描かれたもので、世界地図が日本中心か世界中心かで全く見え方や印象が変わってくるように、意味づけが変わってくるものなんだよ、という点で考えれば、地図を描くための必要な科学技術も、客観性も、製作者の意図によっていくらでも作為的に使えるわけです。

だとしたら、科学的な真実も製作者の都合の良い部分だけを使い(都合の悪い部分は全く使わず)、見せたいようにしか見せない(見せたくないものはそもそも描かない)、歪んだ地図でも作れてしまいます。

そういう意味で、客観性など存在せず、主観的な世界の見方になってしまいますし、科学的な事実や現実ではなく、「こうあってほしい」という願望が入り込んだ「全知全能の神の物語」になってしまうわけです。

そう、歪んだ地図の誕生です。

第10段落~第12段落

地図は世界という目に見えない姿に対する「認知」を表したもの

ある社会に属する人々にとっての「世界」の姿は、その社会の言語が世界をどのように分節化しているかということに強く規定されている。(本文第10段落)

さて、まとめの部分に突入です。

ある社会に属する人々を2種類規定してみましょう。

欧米人と、日本人です。

欧米人にとっての「世界」は上に載せたように、ヨーロッパが中心に据えられた世界地図で、アメリカとヨーロッパの距離が近く、太平洋の存在感があまり大きくありません。けれど、日本人にとっての「世界」は、日本が中心で太平洋がどんっと真ん中に広がり、ヨーロッパが左端、アメリカが右側で、ヨーロッパとアメリカがとても遠く感じてしまいます。

同じ「現実」を映し出している「現代」の地図であるはずなのに、どこを中心として見るかだけで、ここまで見方が変わってきてしまいます。

そして、ある社会、ある文化圏で使われている言語を通して、人々は世界を認識します。自分たちが日常的に使っている道具である「言語」は、世界を認知するために必要な記号であり、媒体であるわけです。日本は四季が存在する、季節感がとても多い島国ですが、季節を表すものや表現方法が本当に豊かです。もちろん単純な言い方もありますし、それで意味合いは十分に通じますが、和歌・俳句などに取り入れられている季語や歳時記などを調べてみると、それこそ膨大な言葉があります。更には1日の時間を表す言葉も、多種多様。

黎明、払暁(ふつぎょう)、彼者誰(かわたれ)、明け、夜明け、暁、東雲(しののめ)、曙、などなど。

日の出前を指す言葉が、これだけ種類があるのが私たちが扱っている日本語です。

それほどに、1日の時間の変化や季節の変化をいとおしみ、それを何とかして言葉で表そうとした人々の気持ちがそこにはこめられています。

けれど、英語で同じ日の出前の時間帯を表す言葉は、dawn、before sunrise。圧倒的に日本語の方が表現する言葉が多いです。英語は合理性を根幹に発達した言語なので、一つの現象に複数の言葉を当てることはめったにありません。

個人的に「春爛漫」を英訳すると「spring in full bloom」になるのは、どうしても納得がいかなかったりします……じゃあ何が良いんだよと言われると思いつかないのですが、何かが違うのですよ。英語は花の事しか表していない。爛漫って、光り輝いている光の意味があります。長い冬を超え、植物が一斉に芽吹く命の輝きを喜ぶ表現ですが、それはどこに行ったんだろうとどうしても思ってしまうのです……細かいと言われてしまえばそれまでなのですが。

なので、日本語の多種多様な言葉を英語に翻訳するときは、どうしても対応する言葉が少なくて出来ないことが多いのです。

それほど、私たち日本人は時間の経過や太陽に関わる言葉。季節や朝日を表す言葉を大事に過ごしてきたことの証拠のようなものです。

言語が違うと見えてくる世界が違うのは、「アイオワの玉葱」の中にも出てきた論理ですね。

書記記号によって描かれた地図もまた、人間が世界と出会う際に用いる一つのメディアである。(本文第10段落)

生まれ育った土地の環境や文化が多大な影響を人間に与えることは、多くの評論文で解説されていることですが、科学的な根拠に基づいた正確な「地図」であったとしても、毎日見ていると日本人はナチュラルに「ああ、世界は日本が中心なんだ」と自然と思ってしまうし、欧米人は「ああ、世界の中心はヨーロッパとアメリカなんだ」と思ってしまいます。

同じものを見ているはずなのに、どこが中心に描かれているだけで受け取り方が全く違ってしまいます。

これが例えば南半球に住んでいる人の地図であれば、世界は全く違うように見えるでしょう。言語と同じように、地図もまた世界を認知するうえで、その入り口になる存在です。筆者は世界と出会う最初のメディアだと言いますが、確かに世界の姿を認識するのは、全世界を旅して実感することなど不可能です。地図を見てなんとなく頭の中で世界の姿を認知するので、実際に見たことが無いものを私たちは当たり前の存在として受け入れていますよね。考えてみれば、不思議なものです。地図が与える影響はとても大きいことが分かります。

T-O図と「科学的」な地図の違いを、「遅れた地図」と「進んだ地図」の違いと理解してはならない。それは異なる世界像をもつ人々の、世界に対する異なる理解、世界との異なる出会いの形を表現しているのである。(本文第11段落)

地図は何を表しているか、ということも大事なのですが、誰(製作者)がどのように世界を切り取り、どのように受け取っていて、それを誰(地図を見る人々)にどう見せたいのか。その意図が色濃く表現されたものでもあります。

T-O図を作成した人にとって、世界の中心はエルサレムでなければならないのです。アメリカ大陸など存在もしていなかった、まだコロンブスが生れ落ちていない、ヨーロッパの人々が思い描く大航海時代前の世界の姿は、T-O図でなければならなかった。世界の中心がエルサレムって、オスマン・トルコやロシアの広大さが解っていれば、おかしいと当時の人々は気が付いていたはずです。けれども、科学的な事実を知っていたとしてもそれは全て「無視」されていたわけです。

なぜならば、彼らにとって世界の中心はエルサレムで、それ以外の事実は「間違い」なのです。なので、T-O図は「遅れている地図」などではなく、その時代の人々の「世界はこうでなければならない」という認識と価値観が如実に色濃く出ているだけなのです。

そういう思想や思考が見て取れるのはどうしても「文学」「日記文化」などの文字の方に色濃く出るものなのですが、図面であるはずの「地図」にも色濃く出ています。世界をどのようにその当時の人々が認識していたかを理解することができますし、その地図を生まれてから大人になるまで見続けて、それしか世界を認識するツールがなかったとしたら、その地図を信じた人々にとって世界は「T-O図」の姿になってしまうのです。

それぐらい、私たちは見るもの、聞くもの、周囲の環境、状況に多大な影響を受けているのです。

地図=世界の再現ではない

地図製作者は、世界という多様性に満ちた存在の中から、自らが制作する地図に記載されるべき現象を選び取り、選び取られた現象に関する情報を、記号という形で地図の上に描き込んでゆく。こうして描かれた地図=世界像が人に読み取られる時、そこに立ち上がるのは地図が描き取った対象としての世界の文字通りの「再現」ではない。(本文第11段落)

さて、「地図」は「世界」の再現ではない、ときっぱりと筆者は書いています。

つまり、地図は「世界」をそのままに描き表したものではなく、何かしらの製作者の意図で、描き表したい部分だけが選び取られ、都合が悪い部分は切り落とされた、何かしらの「作為的な創作物」であることを、私たちは理解しなければなりません。

制作者が「意図的」に世界をどのような形で読み取り、どのような形で人に伝えたいと思ったのか。それを具体的に表したものが「地図」なのです。

そして、その「作為的」に作られた地図は、数多の人々に読み取られ、使われることによって、使用者の思考に影響を与えていきます。

たとえば、山手線は綺麗な楕円形か円と思い込んでしまうのですが、実際は全く違う形をしています。

楕円形どころか、そもそも円とは言い難いし、線もがたがたです。敢えて近いかたちを言うのならば、縦に歪んだハート形でしょうか。けれど、円型の路線図を見続けてしまうと、どうしても山手線は円形に敷かれている路線だと勘違いしてしまいます。

ならば、山手線の路線図は「科学的」に遅れた日本人が描いた、「間違った」「未熟な地図なのでしょうか。違いますよね。必要なのは、山手線は内回りと外回りが常にぐるぐると運行されている路線だということが一番伝えなければならないことです。

なので、現実の多少の歪さは無視して、円型であることを強調した図が優先して描かれます。必要なのは、それぞれの駅を移動する時間の分数と他の路線との連結です。けれど、その図ばかりを見ている使用者はどうしても「山手線は円型」と思い込んでしまう。「地図は正しいものだ」と思い込んでしまうと、大きな間違いを起こしてしまい、現実の認識をゆがめてしまうことも現実にあるのです。

そして、読み手も自分の願望に従って地図を読んだり、大事なところを見てなかったりすることもあるので、そこでも認知が歪む可能性が出てきます。

このことを言い表す、より適切な表現としては、「地図とは世界に関するテクストである。」というべきであろう。(本文第12段落)

テクスト=記号で表現されるもの、ということです。

なので、記号は作成者の「描く」行為と閲覧者の「読み取る」行為が必ず起こります。

描き手には描き手の、読み手には読み手の世界像や規範、価値意識や欲望があり、それらが描かれ、読まれる世界に固有の構造や表情を与え、そこから様々な意味=「世界」が生産される。地図とはそのような世界像の生産の場である。(本文第12段落)

同じような地図を見ていたも、何が中心として描かれているのか。どこかが強調されていたり、もしかしたら意図的に小さく描かれている場合だってありえます。

それらは「正確さ」が分からないとか、科学的に遅れているわけでもありません。何らかの「意図」がそこに働き、「こうであってほしい」という願望や製作者がどのような環境で育っているのか、またどんな「意図」が働いているのか。それらが作用して創られた「地図」であり、読み手もまたその地図を読み手の願望や価値観に従って読み取ります。

そこから、様々な「世界」の姿を認知している人が「生産」されるわけです。

同じものを見て、同じものを認識しているはずなのに、言い分が食い違い、認識がずれる場合がある。

それは相手が間違っているわけでも、自分が間違っているわけでもありません。そもそもの「世界」の認識や認知が違うから、ズレて当たり前なのです。むしろ、ズレていることの方が普通であり、同じものが同じように見えることの方が、ある意味奇跡なのかもしれません。

それらを「想像」することが出来る知識と教養が、これからは必要になってくるのでしょう。

AIは必要な情報を瞬時に映し出してくれますが、それらは世界のどこかで誰かが創っている情報の集約でしかありません。そこを理解して、作成者の意図を読み取り、現実はどうなのかをきちんと調べて確認する必要があり、また自分の認知も歪んでズレている可能性もあることを、私たち自身が理解していることがとても大事になってくるのでしょう。

ここまで読んでいただいてありがとうございました。

次は問題で読解能力を培っていきましょう。

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