筑摩書房の論理国語から、河野哲也著「ファッションの現象学」を解説します。
私たちに身近なもののようで、遠い存在であるものはたくさんありますし、よく知っているようで、その実それが何なのかを上手く説明できないものは、この世に本当にたくさんあります。
ファッションもその1つ。
それを考え上で、もう1つ質問をします。
「また面倒なことを……」
本文
第1段落~第5段落
自己の境界の表現としてのファッション
人は着飾ることを楽しむために衣服を着る。とくに、ファッション(流行)は、自己の境界の表現としてきわめて豊かである。(本文第1段落より)
ファッションの定義
流行とは、スタイルの共時的模倣であると定義できよう。ファッションとは、衣服なり化粧なりの外見のスタイルを、同時期的に模倣することである。(本文第2段落)
ここで、評論文を読むときのポイントの文章が出てきます。
それは、
「ああ、この人はこういうふうに考えているんだな」
「私のイメージとは違うけど、筆者の考えはこれなのね」
というふうに、自分の考えやイメージと違っていたとしても、ひとまずその筆者の意見を受け入れて読み進めます。ここで下手に筆者の意見と喧嘩をしないこと(笑)
何故かいるんですよね。
「俺はそうは思わない!!」
と、自論を振りかざす人が……(笑)
自論を持つなと言っているわけではありません。けれど、課題として文章を読むときは、とにかく「この筆者の考えは、こうなんだな」ということを理解することがスタートラインです。あなたの意見と違うからと言っても、受け入れなかったら読解など出来るはずはありません。なので、自分の考えやイメージと違っても、一旦受け入れましょう。そして、「これは筆者の意見なんだ」と再度自分に言う。
別に筆者の意見に迎合する必要性はありません。(もちろん、同意するのもOK)
ただ、論理国語の目的が「評論文を読み込み、理解し、それを書き表すことができる」能力を身につけることなので、理解ができなければスタート地点にも立てません。要するに、筆者の意見と戦うと、点数が下がるだけです(笑)それは流石にみんな嫌ですよね。だから、個人的な好みは横に置いておいて、まず筆者の意見を確認しましょう。
筆者は、
流行=スタイルの共時的模倣
であり、
ファッション=外見のスタイルを同時的に模倣すること
となります。
「両方一緒じゃん!!」
いいえ、全く違います。
まず、流行の方から行きましょう。
流行はスタイルの共時的模倣。つまり、ある様式や形式を歴史や背景などを考慮することなく、真似ること。
例示を挙げるなら「インスタ映え」を考えてみましょう。
ある様式や形式=映える写真=画像的に素晴らしい写真。またはその風景をとり、SNSで投稿し、イイネ!をもらう、流行スタイルです。
「インスタ映え」を真似る人は、どんな写真が人気が高いかを考えて、ひたすらそれを真似します。そこにはネット社会の中でSNSが社会に対して強い影響力を持つようになった背景や、イイネの数が価値の可視化になってしまっている問題や、いい写真を撮りたいがために、写真を撮る人が様々な問題行動も引き起こしていることは、全く考えません。
今、自分が楽しいことを優先して、流行っている写真を撮れればそれでいいと、真似をします。写真だけを撮って、買った食品をゴミ箱に捨てている現象が問題になっていましたよね。
要するに、筆者は流行とは深く考えずに、時代の変容とか流れなどもなく、とりあえず皆に人気がある行動をただひたすらに真似ることと言いたいわけです。(身も蓋もないですが……)
そして、ファッションとは、外見のスタイルを同時的に真似ること。
流行の方は単純なスタイルですが、ファッションは「外見の」という限定が入っています。それが同時的。つまり、一緒な時代に。同じ時間帯で、という意味合い。ファッションは外見だけを同時に真似すること。それだけです。形だけの真似なので、深い思考はそこには存在しません。
流行は、皆に人気がある行動や様式、さまざまなことを真似すること。
ファッションは、その行動が「外見」のみに限定されている模倣行為。
そう言いたいわけです。
この模倣の伝搬の仕方は、「伝染する」と呼びたくなるような急激な速さで広まることもある。(本文第2段落)
そして、深く考えない、背景を考えないという定義が、この広がり方の描写で良く解ります。行動や外見だけなので真似しやすく、背景を考える必要もないので、一気に広まっていきます。
つまり、一気に広がるものというのは、真似しやすく、背景を考える必要が全くないものであることを逆に示唆しています。確かにファッションもそうですが、外見だけの真似はやりやすいものであり、「なぜこれが流行っているのか」ということもあまり深く考えることはありません。
ふと、考えてみてください。皆さんの周りで、「なんでこれ、人気なんだろう?」と思う謎の行動だったり、ファッションだったりがありませんか?
伝統の定義
この流行やファッションと真逆の存在として、筆者は「伝統」を挙げています。
これに対して伝統とは、スタイルを通時的に模倣することであり、過去の様式を受け入れることである。(本文第2段落)
このように対比で書かれていると、色々と比べることが容易くなります。
共時的⇔通時的
広がるのが早い⇔過去の様式を受け入れる(もともとあるものを認める)ため、広がるのが遅い。
というようになっています。通時的とは、同じく言語学者ソシュールの言葉ですが、共時的の反意語で、ある事象に対して歴史的な変化や背景を捉えることになります。
そして、伝統も模倣することには変わりないのですが、その模倣の仕方は過去の様式に対しての深い理解と知識、教養がどうしても必要になります。日本の伝統衣装と言えば着物ですが、着物は独特の着方があり、種類やどういう場所に着ていく服なのか、格式が明確に決まっています。
やってはならないタブーな着方も多く、さらに言うのならば着物を誰かに着せてもらって、外見だけを真似したとしても、着物に相応しい身体の動かし方をしなければすぐに着崩れてしまう、日本人であっても着方が難しいものです。(脅しているわけではないですが、本当に着物は知れば知るほど奥深い文化です。)
その受け継いできた先人達の知恵に敬意を払い、どうしてこのようなルールがあるのかを知り、それに意義を唱えるのではなく受け入れることが伝統であると、筆者は定義しています。
伝統は、服従や訓練や教育によって人工的に身につけるものである。(本文第2段落)
そして、ここでも流行との対比がとても興味深いです。
伝染するように広がっていく流行は、自然発生的であり、誰かが教えたり、広めたりする必要はなく、自然と人が集まり、皆がそれに注目し、勝手に伝搬していくコントロールの出来ないものです。
それに対し、伝統は人工的に身につけるものであり、自然発生的な広がりは一切しません。しかもその伝統を受け入れる過程は、まずその文化や様式に服従し(異議を唱えることを許さない・丸ごと受け入れる)、受け入れるための特殊な技能を訓練し(着物も着方を習わなければ現代人は着れません)、教育されることによって伝統を体に教え込んでいきます。
人工的で人為的、作為的なものが、伝統なのです。
流行はコントロール不能で自由である。伝統は厳密な管理下に置かれ、拘束される。
そんなイメージが浮かんできます。
流行はいつも着ている普段着。伝統は学校の制服。
そんな風に具体例を考えると、とらえやすいかもしれません。
両価的でもあるファッション
ジンメルによれば、ファッションは「両価的」である。ファッションは、帰属しているグループの仲間の模倣であるが、同時に、他のグループから自分たちを差異化する。(本文第3段落)
さて、分からない言葉が出てきました。
「両価的」??
分からなければ、調べましょう。こういうことが、現代文の勉強です。とっっっても地味ですが、逆に地味な行動を積み上げれば、必ず点数が上がるのも現代文の特徴です。
丁寧に行きましょう。
「両価的」とは、ひとつの物事に対して、逆の感情を同時にもつこと。
一つの行動、物事に対して、真逆の感情を同時に抱くことなのですけど、ものすごーくわかりやすく言うと、ダイエットの心境を例示として挙げておきます。
ケーキに対して抱く感情が、食べたい、でも、痩せたいから食べたくない。
全く真逆な感情を同時に抱く。
同じような例示を考えると、好きな人に対する態度でも同じような真逆の感情がありますね。
話しかけたい。でも、(恥ずかしいから)話しかけたくない。
仲良くなりたい。でも、(嫌われるかもしれないから)仲良くなりたくない。
同じように、学校に行きたい、けど、(色んな事情があって)行きたくない。など、真逆の感情を抱いたり、真逆の意味を持っている行動を両価的、両価性がある、と言います。
そして、ドイツの哲学者であるジンメルは、ファッションを両価的(真逆の意味を抱くもの)と語っています。
さて、それはどのような意味合いか。
筆者は、その前の部分でファッションはファッション=外見のスタイルを同時的に模倣すること、と定義されていますが、模倣=同一化すると同時にファッションは、差異化=グループ分けも可能なものだとジンメルは言うわけです。
ファッションは個性を強調するもの、自己表現の一種でありながらも、グループの中での同調も追求する真逆の意味合いを含むものになるわけです。
ファッションは、まず過去のスタイルから自らを差異化しようとする。それは、伝統的な服装のスタイルから差異化するだけではなく、つい最近のファッションからも自らを差異化する。(本文第4段落)
ファッションは外見のスタイルを模倣することでありながら、差異化を促します。分断ですね。「あなたたちと、私は違うんだ!!」ということを、外見でやっているわけです。
その外見のスタイルで最も主張したいことは、ライフスタイルや価値観の違いを示すことです。自分が同化したいグルーブの表面的な服装を模倣することで、その他のグループから自分を切り離して、差異化を強調します。
ある一定の価値観やライフスタイルに「同化」したいという欲求と、一緒にされたくないグループからの「差異化」を際立たせるという、真逆の行為を同時に行っているのがファッションだというのですね。
たかが服装の事で、こんな細かいこと考えたくない……
まぁ、確かに……(笑)
そう言いたいのは分かりますが、見えていることからその裏側を考えるのが論理国語の勉強の根幹なので、ここでへこたれずに頑張りましょう。続けていくと、思考を深めるのに慣れていきますし、自分で考察することも出来るようになっていきます。
ちなみに、何気ない行動にこそ普段の思考や意識がただ漏れになっている、ということも同時に理解しておきましょう。誤魔化して隠しているつもりでも、バレバレなのが人間という存在です(笑)
新しいスタイルの創出
ほんの少し前のものでも、差異化が形成されれば、新しいスタイルとして定着していきます。では、その新しいスタイルはどこから生まれるのでしょうか。
似てはいるが微妙に違いのある服装をすることによって、グループの中での個性を示す。(中略)この差異が、他者から模倣された場合には、新しいスタイルを創出したと評価される。(本文第5段落)
差異化されている同化したいと思ったグループの中でも、ほんのちょっと。ほんの少し違うものを出したくなるのが人間です(笑)模倣ばかりでは飽きちゃうんですね。
なので、同じ系統でもほんの少しずつ人間は違いを出したくなる。
そのわずかな違いを誰かが真似を拗ると、新しいスタイルが構築され、それを模倣する人が増えてくると、流行となる。そんなことが繰り返されているわけです。
となると、流行ってものすごく変化が速いし、爆発的に広がるけれども、逆に言うと新しいものも日々生まれてきて、定着する前にまた新しく広がっていくものに塗り替えされ、ひたすらにそれを繰り返してしまう状況が続くわけです。
となると……
流行って常に生産と終焉を繰り返している、ということに繋がっていきます。
新しいコンテンツと、オワコンが常に存在して、そのサイクルが短く短くなってきている。この現象が、次の論点の「ファッション」=「死と虚無」という考え方に繋がっていくわけです。
そりゃそうですよね。常に生み出されたものが、ものすごく早く「それオワコンだよね」と切り捨てられていくのですから。生み出している方は、「新しいもの作ったって、すぐ終わっちゃうじゃん……」となりますよね。
さて、続きを読んでいきましょう。
第6段落~第8段落
パーソナリティ=皮膚の厚さもない軽薄なもの?
さて、ここからはファッションに対しての否定的な意見です。ここまでは、ファッションそのものがどのような存在として社会に受け止められているか、認識されているか、を中心に文章が進んでいました。
ここからは、ファッションを軽薄なもの、否定的な存在として扱っている意見を中心にさらに考察を深めていきます。
ところで、ファッションは表面的なものであり、軽佻浮薄なものだと捉える考えが存在する。(本文第6段落)
一気に難しい四文字熟語が出てきましたが、正確な意味が分からなかったとしても漢字の組み合わせからおおよその意味合いは理解できると思います。
ファッションは表面的で軽い。そういう考えの根拠を筆者は人格心理学者のゴードン・オールポートの著作「パーソナリティ」から引用します。
ゴードン・オールポートは『パーソナリティ』という著作の中で「ある化粧品の広告は、ある口紅が、使う人に『パーソナリティ』を与えると主張したりする。この例ではパーソナリティは、皮膚の厚さもないものである。」と述べている。(本文第6段落)
ここでの論理展開は、
と宣伝していたことに対して、パーソナリティをもっと大事な、人格の根幹をなしている重要なものだとしている心理学者からは、とても受け入れられないことだとして、
オールポートにとってはパーソナリティとは、「真にその人であるもの」であり、化粧のような表面的なものにそれが宿るという考え方は軽薄に見えるのであろう。(本文第6段落)
化粧? そんなものにパーソナリティが存在しているわけないだろうが!!
と、広告に文句を言っているわけです。
筆者はその意見を引用しながら、外見的にすぐ真似をすることのできるファッションの具体性。化粧や装飾品、衣服、髪型などのものは、自己の本質的なものからは最も遠いものであり、切り離して考えるべきものだと「認識」されているとします。
そして、そうなった経緯を「なぜか」と問いかける形でさらに評論を展開していきます。
押さえておくべきなのは、あくまでファッション=軽薄なもの、としているのはオールポートの考えであり、筆者の意見ではないことを確認しておきましょう。どこからどこまでが引用であるのか。筆者の意見は何なのか。その線引きを明確にしておくことは、非常に重要な作業です。(ちなみにここまではファッションの定義づけと歴史、そして否定的な考えしか語っていないので、筆者の意見は全く存在しておりません。その見極めをしっかりと確認しましょう)
ファッション=死と虚無を予感させるもの
さて、オールポートを代表とするファッションに否定的な考えを持っている人たちは、ファッションをどうとらえているのか。軽薄で軽く、自己の本質から遠いものとしているのは解っています。けれども、「なぜそんな認識になったのか」は言及されていません。
評論文の多くは「どうしてそう思うようになったのか」や「当たり前のものと思っていたことの背景には、どんな考えが潜んでいるのか」を思考し、明らかにしていくものが殆どです。なので、物事を見る時、その良し悪しや是非だけではなく、「どうしてそうなったのだろうか」という目線を常に持つようにしてください。
なので、現代文の勉強はどこに居たってできます。別に文章を読まなくても、「どうしてそうなっているのだろう」と日常の生活の中で疑問に思うことはいくらでもあるので、ぜひやってみてください。
さて、話を元に戻して。
ファッションが、軽薄であるどころか、死と虚無を予感させるからである。この死と虚無から目をそらせたいがために、人はファッションを軽薄なものとして遠ざけたいのである。(本文第7段落)
「はあっ?」
ファッションが死と虚無?? なんだ、それ?
華やかなファッションと、どうして死や虚無がつなげられてしまうのか、多くの人は此処で頭の中にはてなが飛んだと思います。けれども、こういう時は必ず続く文章に説明が書かれているので焦らない事。ゆっくりと続きを読み進めましょう。
ファッションにおいて特徴的なのは、差異のための差異を生み出すことである。(本文第8段落)
散々語ってきたように、ファッションは相手との分断を示し、自分が望むようなグループに同化するための模倣ですが、その分けられたグループの中でもほんの少しの差異を創り出していくものです。終わりがないんですね。
そして、その終わりがない差異を生み出すからこそ、そこには内容も意味合いも何もありません。
ファッションは純粋な遊戯である。(本文第8段落)
ファッションは遊戯。つまり、遊んで戯れること。遊戯に意味などありません。それそのものを「する」ことが目的であって、根拠や必然性などまっっったくありません。まぁ、だからこそ「楽しい」のですけど。
ファッションは変化であるが、それは進歩や発展のような目的や価値や意味のある方向性をもった変化ではない。それは変化のための変化であり、変化を楽しむための変化である。(本文第9段落)
この三つの引用部分は、全て主語が「ファッション」です。
なので、後半部分は「=」でつなげられます。
つなげてみると
差異を生み出すもの=遊戯=変化を楽しむもの
とすることができます。
生み出された差異によって変化が生まれその変わっていく様をただ楽しむもの。
そこに深い意味合いなどありません。軽く、軽薄で、すぐ無くなり、次々に新しいものが生み出される世界です。それが楽しいのだから、止まるはずもありません。そのファッションの特徴が、なぜ「死」と「虚無」とつながるのか。
そう。次々に「新しいもの」が生み出されるということは、生み出されたものが次々と「死んでいる」のです。いわゆる「オワコン」と呼ばれるもの(終わったコンテンツの略)も同じですね。流行ったものは、次々に死んでいく。なぜなら、そこに意味などないから。遊びだから、飽きたら捨てるだけ。だからこそ、大量に消費をしているとそれが楽しい時はまだいいのですが、ある時ふと、「こんなことして何になるんだろう……」と空しさに襲われる瞬間があるはずです。それを筆者は「虚無」と言っているわけです。
ふと自分がはまったことのあるものを振り返ってみてください。
別にファッションでなくともよいです。好きなアーティスト、流行った言葉、タピオカや高級食パンなどの食品。流行ったゲーム、漫画、アニメ、ドラマ。なんでもいいです。推し活も入りますね。
それらのものにどっぷりはまっているときは、とてつもなく「楽しい」はずです。なぜなら、それは娯楽で遊戯です。「する」こと自体がとてつもなく「楽しく」て、けれども意味は何一つありません。「楽しい」以外の価値が無いのです。(だってそれが至上の価値だから)
遊戯を否定しているわけではありませんよ。遊ぶことは大事で、一瞬でも嫌なことを忘れることができるのは、本当に貴重な時間だと思います。けれども、何かに強烈にハマったことがある人は分かると思うのですが、ある時、急激に「覚める」瞬間というのが必ず一度は訪れているはずです。
その感情を、「虚無」というわけです。
「あー……何やってんだろう、自分……」
と落ちる瞬間ですね。
筆者は、ファッションが変化が次々と訪れるがゆえに、多くの「死」んだファッションが生み出されていて、熱狂し、爆発的に広がり、変化を楽しんでいるからこそ、そこから「覚めた」瞬間に、唐突な「虚無」感に襲われるものであると説明しています。
第9段落~第11段落
深みの不在
ファッションとは徹底した深みの不在である。というよりも、深みの拒否としての表面である。(本文第9段落)
ファッションは軽さが命。深みを拒否して、徹底的に軽さを心情としているのは、ここまで何度も説明してきたので疑問の余地はないと思います。
けれども、その軽さがある一定の熱量をもって何かしらをしている人からすると、癇に障るのです。本文には最も忌み嫌うと書かれていますが、少し例示を書いておきましょう。
別段、人格心理学のオールポートや哲学者の鷲田清一さんのような確固とした考えを持たずとも、これは理解できます。
まず、自分の中で「これ、大好き!!」と思うものを一つ、心の中に思い浮かべてください。ずっと大事にしてきたものや、推しのアイドルや作品、スポーツ、ゲーム、クイズ、なんでもかまいません。電車だったり、戦隊ものだったり、ポケモンだったり、子どもの頃に夢中になったものでもOK。
自分を幸せにしてくれた、大切なものを思い浮かべてください。
そして、唐突にこう質問されたと思ってください。
「えー、それってつまんなくない? もう昔のやつだし、古いし。今さらそんなもの大事にしてるなんて、ばっかじゃないの?」
と、聞かれたとしたら、あなたはどう思うでしょうか?
ちょっとイラっとしませんか? 自分が大事に思っているものを、
「それ、古くない?」
と聞かれた時の、不快感。(笑)
鷲田が言うように、国家や学校といった権威はファッションを最も忌み嫌う。というのは、ファッションはあらゆる根拠付けを暗に揶揄するからである。(本文第9段落)
です。ファッションはありとあらゆるものを「馬鹿にする」傾向があると言います。
何故かというと、常に新しいものに価値があり、表面だけの存在なので真似しやすく、爆発的に広がりもするけれど、変化も激しく、定着といったものはありません。
だから、何時までも変わらない物を簡単に、
「それ、何? つまんなさそー」
と言えてしまうわけです。
生と死の素早い交代
ファッションは、現在のものを過去のものたらしめる。ファッションは、新しさを生み出すことで、何かに終焉をもたらす。流行は過去からきっぱりと区別される分水嶺に立ち、生き生きとした強烈な現在性への感覚を与える。(本文第10段落)
この部分は、これまで語ってきたことのまとめのような部分です。
重厚な生の事実とは
ファッションとは死と終末を予感させる。ファッションはあまりに軽薄なやり方で重厚な生の事実を示す。(本文第10段落)
「死ぬために生きる? 私たち、死に向かっているの?」
そう思ったら、今自分がしている努力や生きがい、目標、達成感など、すべてのものが空しくなってしまうかもしれません。けれども、生物として「生きて」いる限り、「死」はどうしても避けられないものです。
「生み出されたもの」はそれがどんなに流行し、多数の人に認められ人気になり持て囃されたとしても、一旦「古い」とされてしまったら、それは「死」ぬことになってしまいます。その変化が目まぐるしく、更には遊戯的な意味合いが強い感覚で何度も繰り返されます。
ある意味、この「死」や「虚無」の空しさを気付きたくないから、意識的にファッションを軽薄なものとして扱いたい、重厚な意味合いのあるものなどとして扱いたくない、という心理が見え隠れします。
変化は無変化を疑う存在
ファッションは、変化のための変化を志向することによって、不変不朽の価値や目的に疑いをかける。ファッションは進歩せず、ただ変化する。(本文第11段落)
さて、ここから畳み掛けるように今までの論理を繰り返していきます。
これまでと同じように、ファッションを違う言葉で言い表しているところを抜き出していきます。
となります。次は、
となります。この2つを繋げると、
という図式が出てきます。
ある人たちが信じたいと思っている不変の目的、さらには世界の意味を、純粋な変化という概念によって台無しにする。(本文第11段落)
ある人たち、という指示語が使われていますが、このある人たちは具代的に言うと、世界には意味があり、不変の目的、いわゆる真理とか変わらない究極の価値観みたいなものを信じる人々です。
ちなみに、そういうものに価値を置く人々は、秩序が大好きで、だいたい権威側にいることが殆どです。
ある人たち=学校の先生、と考えるとイメージしやすいでしょうか。それこそ筆者はそういう人々を揶揄している訳でも、煽っているわけでもなく、ファッションを嫌う人々を考えて行くとどうしてもそうなってしまうし、どうして彼らがファッションを毛嫌いするかというと、それこそ彼らが大事にしている価値観を、
「それって古いよね?」
の一言で粉砕してくるからです。
世界は無根拠であり、無価値である
筆者の言葉を借りれば、ファッションがもたらす変化は意味のある進歩などではなく、方向性もなく意味合いも価値もない、ただの変化によって権威の無価値を突きつけてきます。
面白いですよね。重たいもの。重量感のあるものを粉砕するのが、同じ重さを持ったものではなく、考えられないほど軽く、軽薄な存在がそれをいとも容易くおこなってしまうのです。
その否定の仕方が、「新しいもの」に価値をおき、「古いもの」をただ「古い」というだけで軽々と否定する。
価値観も目的も何も、あったものではありません。権威も秩序も存在しません。あるのはただ「新しい」ものに価値があり、「変化を促すもの」であるということ。
けれども、その「新しいもの」「変化」に置かれる価値は、命の重みに対する事実を突きつけます。
私たち人間は生まれ落ちた瞬間から常に変化し続ける存在です。赤ん坊から始まり、幼児期、少年期、青年期を経て、成人期、壮年期、老年期とゆっくりと、しかし確実に変化し続け、以前に巻き戻ることはありません。そして、最後に待っているのは「死」「停止」という変化のみです。
あれ? これって、何かに似てないか?
そう。この人生の「変化」とファッションの「変化」は同じものです。生はただ変化の連続です。その変化の連続が停止するのが「死」となれば、私たちの「生」に意味があるのでしょうか?
人生に意味と価値をおきたい人々からしてみれば、この一見軽薄で遊戯的で重さや価値など何一つなさそうなファッションという存在が、自分たちが何よりも尊いものと考えている秩序や権威、「生」の意味を、
「それって単なる変化の連続なんでしょ?」
だと言われてしまったら………それを受け止めることなどできるでしょうか?
受け止められないからファッションを否定し、毛嫌いする哲学者や心理学者達を、筆者はゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」の絵を出して、例えています。
教科書の欄外に説明が書いてあるように、自分の愛すべき子供が、将来自分を食い殺すのではないかという予言の恐怖に見舞われたサトゥルヌスが、実際に子供を食い殺す光景が描かれた絵画です。
(我が子を食らうサトゥルヌス wikiより)
ローマ神話に登場するサトゥルヌスの伝承をモチーフとしていますが、サトゥルヌス本人=大人、権威、権力、秩序、価値。とするのならば、食われる我が子=子供、自由、自主性、混乱、無用のもの、ということになります。
自分が積み上げたものを否定されることが怖くてたまらないので、新しく自由な存在を食い殺す。ファッションを軽薄なものとして毛嫌いし、価値のないものだと一刀両断する権威側の人々の縮図がピッタリと当てはまります。
ファッションは、「我が子を食らうサトゥルヌス」のように、時間そのものである。ファッションは、時間そのものであるかのように既存のものを乗り越え、外部に出ようとする。(中略)ファッションは、じつに無邪気に世界全体を否定する。(本文第11段落)
同じように、「ファッションは〜」の後半部分をイコールで繋げます。
となります。時間は常に前に動く変化するものであり、今あるものを乗り越えて進みます。どんなものも時間の中に存在している以上、その時の流れの影響を受けずには存在できません。どれほど「新しい」とされていたものでも、「既存」になってしまい、「古くなる」という変化を受け止めなくてはいけません。とすれば、今存在する「世界」はすでに「既存」のものです。ならば、「古くなる」という時間の流れを受けます。「古くなる」=否定、です。
「いや、世界は変わらない!! 否定されるべきではない!!!」
と主張する人がいるかもしれません。けれど、本当に変わらないと言えますか? たかだか10年でも世界は様変わりしますし、ここ数年はパンデミックで大混乱状態でしたが、それによって様々なものが変わりました。
「変わらない!!」
と、なぜあなたは言えるのですか?
ファッションは、その軽薄とも見える遊戯性によって、私たちが大事だと思っている価値や目的、秩序、権威などをあっさり否定します。「古いよね」の一言で、全て粉砕していくわけです。
そして、さまざまなものが「変化」していくものなのだと理解した瞬間、たどり着く先は「無根拠」です。
ファッションが無価値で無根拠であるというのならば、私たちが後生大事にしている権威や価値観も変化しながら作り上げられたものなので、無根拠であることになります。
変化をしないものなど何一つないのですから。
その残酷とも言える真理を、ファッションはその軽薄すぎる変化の速さで突きつけてくるわけです。
「えー、それって古いよね?」
の一言で。
あなたたちの大事にしているものって、無根拠で、無意味ですよね? と。
(個人的にこの評論文、エグいなぁ……と感じています。これを、権威の象徴とも言える学校で読むとは……笑 高校の先生たち、Mなのかな? 笑 ごほごほん)
第12段落〜第14段落
自己の変形 変身としてのファッション
それでは、ファッションは身体とどう関係するのだろうか。(本文第12段落)
さて、ここで哲学や心理学でよくある、外部の変化が身体にどう関わってくるか、それが表面上だけでなく、心理的にもどう影響してくるかの話に移行していきます。
この評論文。筆者の意見はなく、徹底的にファッションの分析・考察のみで進行していきます。
要するに、服装、化粧、髪型など、外見に影響を与えるものを変える、目まぐるしく変化させることによって、身体や精神にはどんな影響が出るのだろうかという、個人の話になってくるわけです。
社会や世界の中でのファッションの意味や価値を説いたあと、個人的な影響というマクロからミクロの話題に変化していきます。
そして、ファッションが身体に及ぼす影響は「変身」であると筆者は言います。
変身とは、現在の自分からの逸脱である。ちょうど仮面を被ることが別の人格に変身することであるように、ファッションとは絶えざる自己の変形であり、リメイクである。(本文第12段落)
この、変身が自己からの逸脱、という表現は、第11段落で書かれたファッションは逸脱であるという論理と全く同じです。鷲田清一さんの引用部分でも書かれているように、ファッションは常に自分を新しく創出する行動で、自分で新しい設定をして、今の自分をほんの少し超えた良いものにしようとする行動であるけれど、創れば創るほど、今までの自分を裏切ることにもつながるし、今までの自分を壊さなきゃいけないし、今のままじゃダメなんだと、自己を逸脱させる行為なのです。
これは、読んでいて思い当たる人もいるのではないでしょうか。
何かしら新しいスタイルを取り入れようとする時は、それまで着たことのない服や、したことのない髪型をしてみたくなるものです。そしてそれは、今までの自分にはないものを取り入れる行為でもあり、今までの自分では満足できないと、自分を裏切る行為であり、自分を壊す行為であり、だからこそ逸脱=やったことがないものに挑戦する気持ちになるわけです。
変身とは新しい形態の身体を獲得することであり、それによって生物は新しい環境で生きることが可能になる。(本文第13段落)
生物学的な変身は、環境への適応の意味合いが強く、その変身をすることによって生息する場所に最も適した身体能力を手に入れることができます。もちろん、人間の生息する環境は、水中から陸上のように極端で劇的な変化はありませんが、人間は人間特有の環境に適応する必要があるのです。
そう。人間関係、という環境適応です。
人間関係の変化に適応するために利用されるファッション=変身
ここでファッションが表現する変身とは、自分を取り巻く人間関係に変化をもたらすような身体性を獲得することである。(本文第14段落)
ファッションは差異を表すものです。自分とそのほかを区別する記号であり、同時に、自分を望む団体やグループに同化させるための記号でもあります。
自分が混ざりたいグループがあったとして、その中に入りたければ彼ら、彼女らの服装を真似すれば同化できますし、同化が成功すればそれまで自分が属していたグループから逸脱も可能となります。
ファッションは、人間関係に変化をもたらす力があります。そして、その力を私たちは十分知っているので、小さなコミュニティの中で絶えずそれを繰り返しているのです。
アパレルブランドの企業が有名な俳優さんや女優さんを宣伝に使うのは、それらのスターが持っているイメージと同化したい人に服を買って欲しいからです。「ああなりたい」と思うことは、今の自己の否定が根幹に隠れているのですね。だから、今の自分を否定し、裏切って、逸脱をするために変身するわけです。
ファッションの根底にある変身の願望とは、新しい人間関係のなかに生きる新しい自分を創出しようとする願望である。(本文第14段落)
ファッションは制服を軽蔑します。なぜならば、制服は社会的に固定された価値観や役割を象徴するものだからです。新しいものに価値を置くのだから、固定的なものを評価するはずがありません。
その固定的な役割から自己を解放する力を、ファッションは持っています。人間はその力を本能的に分かっているし、広告業界は肉体に変身をもたらす口紅のような化粧用品が「『パーソナリティ』を与える」のようなキャッチフレーズを使うわけです。この場合、「パーソナリティ」は、「今の自分から逸脱して同化したいパーソナリティ」です。外見を変身させることで、新しい自分を手に入れたい。それが手軽に出来るのならば、こんなにありがたいことはない。だから、ファッションは爆発的に「伝染」するし、この恐ろしいまでの広がりと定着の仕方は、本能的に人間は「変身」したい存在であることを証明しているのかもしれません。
まとめ
1.ファッションはスタイルの共時的模倣であり、自分が所属している集団の外見の模倣をすることで、他の集団や過去のスタイルから自分達を差異化します。
2.ファッションの価値は差異化であり、過去との差異を作り、新しいものに価値を置きます。その変化には内容も意味もありません。繰り返す変化は結局のところ死と虚無にたどり着くのですが、その部分を徹底的に避けたくなるので、どうしても軽薄なものとして社会の中では扱われてしまいます。
3.けれど、その軽薄なはずのファッションは、現在のものを問答無用で過去にしてしまう力があるので、その変化は生と死の交代を暗示しますが、遊戯性が強く軽薄な軽さが命のファッションの変化は、変わらないものは何もないことを指し示し、この世界の意味も根拠も無価値であることを突き付けます。
4.また、ファッションは身体の変身を可能にし、自分を取り巻く人間関係に変化をもたらします。1つの固定的な役割から人間を解放させることができるので、常に新しい人間関係の中で新しい自分になりたい。変化したいと思う人間の願望を、ファッションは叶えてくれるのです。
軽い、軽薄だ、意味などない、とされているファッションは、それを軽蔑する人々が重きを置いている真理や世界の価値を無根拠なものであると叩きつけます。深みなどない、とされているのに、人間のもっている変身願望や新しい自分になりたいといった欲求を叶える力があるからこそ、これだけ爆発的に広がり、持て囃され続けるのでしょう。
筆者はファッションに対して、否定も肯定もせず、「軽薄だって馬鹿にしているけれど、その軽さ命のファッションって、実は結構巨大な力を持ってんだよ」と事実を羅列しているだけです。
でも、その事実の羅列だけでも、「軽い」「軽薄」と扱うにはとてつもない力を持っていることを、知った方が良いのでしょう。
「その程度のもの」と相手を侮ることが、一番振り回されて、ヤッツケラレテしまうのが、フィクションでもテンプレの展開ですものね。(フラグともいう)
外見を変えることがいかに人間に自信を与えるのか。昨今のSNSやルッキズム全盛の文化を見ていても、軽視できないし、多様性を認めようとすればするほど、その反面、暴力的なまでに外見の重要性が増しているのが、とても不気味です。
その力の巨大さを、私たちは知っておくことがとても重要なのでしょう。
まとめはここまで。
次は、テスト対策問題で読解を深めていきましょう。
ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。
コメント