小説読解 太宰治「走れメロス」その10~拍子抜けの結末の訳~


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こんにちは、文LABOの松村瞳です。

今回は、結末編。多くの生徒がこの結末を読んで、「お話って、どーせこうだよね」と言い放ちます。

いわゆる、興醒め。失望の瞬間です。

そんな都合よくいくはずないじゃない! そう思う時って、ありますよね。

文学作品。とくに、このメロスを教えていると、年代も中学2年生と言う反抗期真っ盛りであることも手伝って、みんな、この結末に「はぁっ……」とため息吐くんですよね。

【メロスとセリヌンティウスの殴り合い】

刑場にぎりぎり間に合ったメロスは、セリヌンティウスに言います。自分を殴れと。

道の途中で、悪い夢を見たと。つまり、諦めそうになってことを告白しているわけです。

これで、多くの人は思いますよね。いや、セリヌンティウスが殴りたいのは、今じゃなくて出発の時じゃないかと。

この状況で殴れと言われても、殴りづらい部分があると思います。

けれど、セリヌンティウスは音高く、渾身の力で殴った。感動的なシーンのはずなんですけど、どうしても「殴りたかったんだろうなぁ……」とか、考えてしまいます。メロスとの付き合いで、絶対に苦労したことは一度や二度ではないと思うので。いろいろな恨みがこもっていそうな一発です。

そして、セリヌンティウスも言います。「私を殴れ」と。

お互いがお互い共に弱い部分を持っていた。相手を疑ってはいけないと思いつつ、疑ってしまった。信じなければいけないはずなのに、弱い自分がどうしても消し去ることが出来なかった。

その7その9で解説したように、人間は誰もが心に猛獣を飼っています。疑いたい。裏切りたい。自分を守りたい、自分を優位にしておきたいと願う心が、どうしても潜んでいる。その声に耳を傾け、負けてしまう瞬間が誰にでもあると、このセリヌンティウスの言葉が表わしています。

この疑いの心の声に負け、人を疑い、疑心暗鬼になり、孤独の道を突っ走っていったディオニス王とは対照的に、この二人は人を信じようとする道を選び、それを証明しようとした。けれども、その過程で負けそうになった。疑った。来ないのではないかと。投げ出して、逃げるのではないか。間に合わないかも。来ないかもしれないと、その声を信じようとしてしまった。

信じあっていたとしても、どれだけ信頼関係が結ばれていたとしても、疑いの心は産まれてしまう物。あってしかるべきものだという真理を表しています。

だからこそ、その心が産まれたとしても打ち克つ心を持ち続け、コントロールしなければならないのだと。

そういったセリヌンティウスをメロスは殴り返し、そうしてお互いの心の中に芽生えた悪心を罰し、悪心を抱いた自分を許し、そして相手をも許します。

ここまでは、生徒たちも納得します。

【あっけなさすぎるディオニス王の改心】

その他の物語を読んでいてもそうなのですが、悪者が最後に善の心に目覚めて改心をする瞬間。どうにも興醒めしますよね。おいおいおいおいっ!! そんな簡単に心を入れ替えられるものなのか? それでいいのか? と、訴えたくなります。

ディオニス王もその一人。

このメロスとセリヌンティウスの殴り合いを見ていた王は、顔を赤らめて「信実とは決して空虚な妄想ではなかった」と言い、「わしも仲間に入れてくれまいか」と、告げます。

あまりにもあっさりとした、あっけないほどの幕切れ。文章にして、たった二、三行です。ゲームで言うのならば、あれほど苦労して辿り着いたラストダンジョンで、強そうなラスボスが一撃であっけなく散ってしまったにも等しい行為。

もう少し問答があっても良かったのではないかと、太宰に言いたいところですが、それは生徒も同じなのでしょう。

王様のあっけない改心。心を入れ替える。そんなことは、本当にあるのだろうか。実際は、現実は、そんなこと起こらないという事実を、もう彼らは知っています。だからこそ、目の前で感動的なことが起こっていたとしても、半分冷めた目線で見たい年頃です。

悪役は、最後まで悪役で居てほしい。その道を貫き通して、敵として倒されて欲しい。と願ってしまうのでしょう。読者というものは、登場人物に主旨一貫した行動を望みます。非道な人間は、非道なままで居てほしいし、ヒーローはヒーローであり続けてほしいと思ってしまうものなのです。

だからこそ、悪の権化であった人物が良い人になってしまうのは、どうにも納得がいかない。とくに思春期ならば、めでたしめでたしを頭から信じるような子供でも、それを良しとする、名よりも実の大人にも成りきれない年代です。

だからこそ、この「走れメロス」

多くの人に読まれながらも、あまり好きだという生徒に出会ったことがありません。

彼らから聞く感想は、「嘘くさい」「ただの都合のいい話」「現実には、あり得ない」というものばかりです。

【超現実的にディオニス王のことを判断してみよう】

ということで、ここでは超現実的にディオニス王のことを考えてみようと思います。




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現在の政治体制ならば、世論調査や内閣支持率、などという物があるので、自分が国民に支持されているのかどうかを権力者たちは数値として手に入れることが出来ますが、古代の王のディオニスには、無論そんなものはありません。

人と言うのは不思議なのですが、皆から嫌われている、とは通常考えません。とくに権力者は産まれた瞬間から国のリーダーですから、周囲には彼の意見を肯定する人間しか居ないはずです。

そうなると、民衆の意見は耳に届いていなかったと仮定して……

フィロストラトスの言葉を信じるなら、セリヌンティウスが刑場に引き出されて、磔にされている間中。王は、セリヌンティウスに酷い言葉をかけ続けていた。つまり、民衆の前に立っていた。その視線のただなかに居た、ということになります。

さて。冒頭のお爺さんの言葉を信じるならば、皆王を恐れています。刑場に引き出され、多分あいつも殺されるんだと同情の視線を送りながら、王に向ける視線は……侮蔑まではいかないと思いますが、到底友好な視線とは、ならないはずです。

そして、メロスの登場を喜び、セリヌンティウスとの抱擁を見てすすり泣いている民衆は、完全にメロス側についています。

それを肌で感じ、強烈な嫌悪の視線にさらされている状態。

その状態に立たされた場合。あなただったら、どういう命令を下しますか?

賭けを真っ当しろと、セリヌンティウスからメロスをひきはがして、メロスを処刑しますか?

もし、処刑を断行したならば、民衆はどうなるでしょうか。

時は古代です。民衆の暴動で八つ裂きにされる王も、少なくない時代です。そして、今ディオニス王は民衆の前にその身体を晒しています。

ここでメロスを処刑したら、非難は自分に集まるはず。その騒動が鎮圧できず、暴動にまで発展してしまったら。賢臣のアキレスはもう居ません。部下を沢山処刑してしまっている状態で、抑えきれるでしょうか?

逆にメロスを許したら、どのような利益が手に入るでしょうか?

話の解る王だと、民衆は讃えるでしょう。実際、そうなりました。あの若者の勇気ある行動が、王の冷たい心を溶かしたのだと。

 

さて。あなたが王様だったら、どっちを選びますか?

取るに足りない一人の若者を殺して、民衆の恨みを買うか。

それとも、どうせ何も力など無いに等しい若者に命を与えて、無罪放免で放すことによって、その後の統治をやりやすくするために、都の治安の保持と人心を掴む布石とするのか。

王様が心から改心したならば、もう少し描写を入れたと思うのです。けれど、あっさりすぎるほどの文章の量で改心させたと見せかけたのは……政治家としての一流の戦略だったのか。

 

どちらで受け取るかは、あなた次第です。けど、そうやって考えると、少なくとも「興醒め」とはならないですよね。

面白くないものをどうやったら面白く読み取れるのか。工夫をしてみてください。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

明日はまとめです。

続きはこちら

小説読解 太宰治「走れメロス」その11~まとめ 太宰治の人間性~


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