今回から、数件出版、国語総合現代文編に掲載されている、鈴木孝夫さんの「ものとことば」の解説をします。
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【日常的に使っている「もの」と「ことば」に対する考察】
-当たり前に存在することに対する考察-
評論家が書く内容というのは、新しいことや新しい発見に対して書くものだけではなく、普通に私たちの生活がどのような状態なのか、ということを指摘する内容のものも多くあります。
なので、今回は一般論に対する否定と新しい見解というパターンではなく、ひたすら分析と説明、という評論文のパターンとなります。
そんなこと解っているよ!!
と言われそうな内容であることも多いのですが、当たり前にあることほど、私たちは考えようなどとは思いません。
-当たり前のことに対して私たちは全く意識をしない-
何故、評論家がそれを分析し、説明しようとするか。
それは、私たちは当たり前のあることほど、それを意識しようとはしません。
無くなったら困るものなのに、無くなることなど意識できないほど、そこに存在することが当たり前になってしまっているから、見ることができなかったりする。
当たり前にあることほど、それの価値や大切さ。どんな性質を持っているか、ということに気を配ることができなくなる。
空気の大切さなど、知識としては知っていますが、けれども空気のことを真剣に考える、なんて公害によって大気汚染が問題になってからのことです。
問題無く、そこに存在している当たり前のものは、全く意識に引っかかりません。
だからこそ、評論家はそれは書こうと思うわけです。
意識できないものを、意識してほしい。気付いてほしいと評論家は文章を書く。
-見方の違いに気付かせてくれる評論文-
当たり前に存在している。だから、別に深く考えなくとも良い、とする人もいるかもしれません。
けれど、物の見方というのはどうしても偏りができます。
一人の視野というのは、どうしても狭くなってしまう。けれど、他者の意見や考え方を取りこむことも、私たちは可能です。
その為に、表現方法として文章がある。人の考えを、理解する能力も備わっている。
だからこそ、当たり前の物事を深く考察し、説明する文章というのは、「違う意見が書いてあるんだ」「自分の考えと違うものが書いてあるものだ」「知らない捉え方を、教えてくれるものだ」と思って読んでみることをお勧めします。
簡単に理解できることだからこそ、自分の生活の中での具体例を探し、それと評論文で語られている内容を繋げてみる。
それをやってみましょう。
【第1~11段落】
-「もの」とそれに対応する「ことば」にあふれている生活-
考えてみると、私たちはなんとまあ数えきれないほどたくさんのものに囲まれて生活していることか。(本文より)
今、自分の身の周りにあるものは、どれだけあるのか。目に移るものをひとつひとつ確かめていくと、とてつもなく多くの「もの」が周りに溢れていることに気がつきます。
制服であったとしても、ボタンやそれを付けている糸、裏地やベルト、それら全てを考えれば、本当に多岐にわたっています。
自然界には、動物の種類、昆虫の種類、植物の種目……
考えるだけで、めまいがしてきそうな数の多さです。この種類の多さなんか、実感なんて出来ないぐらいに多いですよね。
けど、この多くのものには、それだけ名前が一つずつ付いているわけなんですが、この名前という、ことば。ものの数だけ存在しているわけではないんです。
そう。もの以外にも、ことばは沢山ある。
-ものだけに付いているわけではない名前-
名前がついているのは、ものだけではない。(本文より)
さて、何に付いているのか。
ものは目に見えるものです。
ということは、目に見えないものに名前は付いているでしょうか。
そう。感情、という目に見えないものにも、名前は付いていますよね。それに思考、更には、具体的な手で持てるものではありませんが、物体の状態にも名前は付いています。
電車の停止、発車、加速、減速、急停車、到着etc….. これらは全て電車の状態に対しての言葉ですが、全て目に見えるけれど、手で持てるという物理的な「もの」ではありません。
その状態や、全く形すらないもの。目に見えないけれど、確かに存在しているものにも、名前は付いています。
その総数、どれだけあるんでしょうね。気が遠くなりそうです。
-部品にもある名称-
しかもものやことの数、そしてそれに対応することばの数は、今述べたような事物や性質の数の、単なる総和にとどまらない。(本文より)
例えば、パソコンやスマホ。
皆が持っているそれは、一つの製品として名称が付いていますが、分解すれば部品だらけです。その部品一つ一つに、部品の名前がちゃんとある。
これ、全ての物体に言えますよね。
家という言葉で表わされるものの、具体的な構成部品って、どれぐらいあるのでしょうか。自動車も、電車も、それぞれに全て部品で構成されている。
ものには全て名前が付いていて、その構成品にもひとつひとつ部品名が付いている。更には、手で触れない、状態や抽象的な思想、感情、想像したものですら、名前が付いている。
私たちは、ものとことばに、本当に囲まれているのです。
-名前のないものはない世界-
こんなふうに、ものとことばは、互いに対応しながら人間を、その細かい網目の中に押し込んでいる。(本文より)
新しいものが出来れば、それに対応することばが名付けられます。例えば、SNSとかインスタなんて、20年前には存在しなかったことばです。
そうやって、ものが増えればことばも増える。誰が名付けるのかというと、それは人間です。
私たち人間が、様々なものに名前をつけ、新しいものを生みだし、それにまた新しい名前を付ける。
名のないものはない。(本文より)
私たちの生活が、ものとことばに溢れていて当たり前です。
人間がものに名前を付けることによって、認識し、その存在を確認する。
その確認をするために、名付けをしなければならなくなる。
つまり、私たちが認識している世界は、全て言葉で説明できるものであり、名前がない=存在していない、ということにも繋がってくる。
それほど細かい分類された世界に私たちは生活しているので、名前がある=存在している状態であることが、実感なのです。
【今日のまとめ】
-私たちの生活はものとことばで溢れている-
ものがあれば、必ずそれには呼び名がある。
呼び名があることが、存在することに繋がっている、ということをまず知識として持ちます。
けれど、本当にそうなのでしょうか。
ものがあるから、それに相応しい呼び名がつけられる。ぴったりな名前が名付けられるのでしょうか。
それとも、名付けられたことばによって、ものは変容していくのでしょうか。
その疑問はまた明日。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
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