徒然草の「丹波に出雲という所あり」の解説です。
今回は1回目。
【徒然草の基本】
中学校でも散々読む徒然草ですが、書いている兼好法師の性格をちょっと解っておくと、テストで出た時に超楽です。
人って不思議なもので、特に随筆系はその人の考えや思想がやはり文章に現れます。
ということで、兼好法師の性格まとめです。
-兼好法師の性格は前向き・ポジティブ・正直者-
兼好法師。もとい、吉田兼好さんは、もともとお坊さんになることが人生の目標じゃなかった人です。
いろいろ紆余曲折あって、法師に落ち着いちゃった人。
ちなみに、生きていたのは鎌倉時代の中期から後期の時代。
世は、貴族社会から武士社会に移動してきて、地頭やら守護やらが偉い顔してのさばっている時代なんですね。
その中でも、法師。お坊さんってどんな存在かって言うと、所属しているお寺によって上下はありますが、やっぱり庶民のイメージは超エリート、という感じです。今で言うのならば、大学教授とか、お医者様、って感じ。
職業聞いた瞬間に、「ああ、頭良いんですね」ってなりますよね。
で、実はそんなに頭良くなかったお坊さんもとっても多かったんですけど、(参照⇒古典解説~仁和寺にある法師~エリートが陥りやすい罠)兼好法師は正真正銘のエリートです。
貴族の堀川家で仕事をしたのをきっかけに、そこから宮中にまで働きに出るように取り立てられます。その仕事場で、有職故実の知識まで得ちゃっている。今の感覚で言うのならば、有名大学出た後に文科省に勤めて仕事している、って感じでしょうか。
で、その後出家してお坊さんになった後も、エリートコース。
比叡山とか修学院なんかで勉強しているんですね。特に和歌は物凄く上手くて、当時の四天王にも選ばれています。
で、この超頭の良い兼好さんなんですが、普通頭良かったら、何で最後はほったてごやで貧しい暮らしをしているのか、疑問ですよね。
この人、何を大事にしたかと言うと、自分の時間と自由。この二つを超大事にしていた。
あとは、自分の感覚と、好きに物を言える環境です。
だからこそ思うのは、宮中や比叡山なんかでは、好きにものを言えなかったのが相当嫌だったんだろうなぁ、ということ。
-嫌いなものはとことん嫌い、好きなものはとことん好き-
この、「自分の自由に言いたい」「人の顔色窺うのは、嫌だ」「嫌われても、まぁ、いいか」という考え方。
兼好さんが大事にしたのは、自分の感覚です。
権力の中枢。それこそ、人を権力で思い通りに操れる世界を垣間見てきたからこそ、「人に左右されたくない」「自分の意見はしっかり持ちたい」という考え方が、徒然草には溢れています。
たまにちょーっと辛口。好き勝手に書いているので、お坊さんが書いちゃ駄目なんじゃないの? と思わずこっちが思ってしまうような、恋愛話も書いちゃってます。
(参照⇒徒然草「花は盛りに」をわかりやすく解説その1~花見の仕方であなたの人格がばれる~ )
なので、批評家の側面が溢れているんですが、要するに兼好さんの好き嫌いって、「自分の好き嫌いの感覚で生きている人は、良いなぁ」ということ。
逆に、大っ嫌いなのは、「人からの評価を気にしたり、どう思われるかばかりを気にしている人の行動は、ほんとにあきれるよなぁ」というもの。
この法則を知っているだけで、徒然草の内容ってほぼ読み解けます。
-人に左右されない感覚の持ち主-
兼好さんが大事にしているのは、その人その人の感覚です。
要するに、「自分が好きだなと思うことを、体現している人」が大好き。
「それが出来なくて困ってるんだよ!!」って言う人は、多いから、そういう人に「もっと自由に生きても大丈夫だよ」というメッセージが強いものが殆どです。
なので、人に左右されない。自分の感覚を大事にする。
そして、世間の評価などくそくらえ。な、部分も持っています。
皆が良いと思っているから、良いのではなく、その人が行っている事の根幹を見て、「ああ良いなぁ」と自分が感じたものを評価していく。
きっと今現代に生きていたのならば、凄く良いコメンテーターとかになっていたんじゃないかなと思ってしまいます。
当時、身分が下の下だとされていた、芸能の人たち。白拍子や猿楽などを生業としていた人たちにも、兼好さんは「彼らの言っている事は、とても心地いいものだ」と、書き表しています。
この、「自分が良いと思うもの」という感覚に、凄く正直だった人。
なので、感覚からずれた部分は、とっても否定します。ええ、そりゃもう容赦なく(笑)
今回のお話は、そんな容赦がない部分がちらっと見えるエピソード。
古典文法的には、動詞・形容詞の判別が終わり、助動詞の判別を段々覚えてくる時期です。
ポイントは、古典文法表をしっかり見ること。
覚えるのではなく、まず、見て慣らす。それを目標にしてください。
【本文】
-第一文目-
丹波に出雲といふ所あり。
〈訳〉
丹波の国に出雲という所がある。
〈文法〉
いふ/ ハ行四段動詞「いふ」の連体形
所/ 名詞 体言
あり/ ラ変動詞「あり」の終止形
四段動詞とラ変の組み合わせです。体言に続くので、連体形。ラ変の終止形は「あり」と、語尾が「り」で終わることがポイント。くれぐれも「る」にして、「ある」としない事。これは現代語で、古文ではありません。
〈解説〉
丹波とは、京都府と兵庫県の県境です。
ここにある出雲は、現在の京都府亀岡市出雲のこと。島根県の出雲のことではありません。
では、何故同じ出雲なのか。それは、次の文章で解ります。
-第二文目-
大社を移して、めでたく作れり。
〈訳〉
出雲の国の大社を勧請(かんじょう)して、立派な社殿を造営してある。
〈文法〉
めでたく/ 形容詞ク活用「めでたし」の連用形
作れ/ ラ行四段活用「作る」の已然形
り/ 存続の助動詞「り」の終止形
はい、いきなり来ました。重要助動詞。完了のさみしい「り」
この「り」はとても特殊で、上にある動詞の形を限定します。
サ変の未然形か、四段の已然形のみ。この、サ+未+四+已の合わせ技で、「さみしい」と特殊接続をまとめて読ませます。
これに付くのは、「完了・存続」の意味合いになります。
「完了」は動作がすでに終わってしまって、もうやらない事。「勉強終わった!」の「た」が完了です。もう勉強していませんよね。
「存続」はその行動をずっとしている事。「壁に掛けた絵」の「た」が存続。ずっと懸っています。
今回は、建物なので、そこにずっと存在し続けています。なので、存続。
〈解説〉
勧請(かんじょう)という、耳慣れない言葉が出てきました。
これは、神仏がきてくれることを願うことと、もう一つ。神仏の分霊を請(しょう)じ迎えることを意味します。
要するに、島根県の出雲大社に行くのは、とっても不便ですよね。鎌倉時代だと行ける人も限られてくる。なので、分霊(出雲大社から出張して)をして、神社を立てた。
この神社は、現在の出雲大神宮です。
要するに、京の都から考えれば、まだ近い場所に出雲大社の出張所が来てくれた。みたいな感じ。
-第三文目-
しだのなにがしとかやしる所なれば、秋のころ、聖海上人、そのほかも、人あまた誘ひて、「いざたまへ、出雲拝みに。かいもちひ召させん。」とて、具しもて行きたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信おこしたり。
〈訳〉
この地は、しだの何某(なにがし)というのだったか、その人が知行しているところなので、秋の頃、聖海上人や、その他にも、人々を大勢誘って、「さあ、いらっしゃってください。出雲神社を拝みに。ぼた餅をごちそうしましょう。」と言って、大勢をひきつれて神社に向かったが、それぞれ拝んで、神社の素晴らしい姿にそれぞれが神様を信じる心を感じていた。
〈文法〉
しる/ ラ行四段動詞「しる」の連体形
所/ 名詞・体言
なれ/ 断定の助動詞「なり」の已然形
ば/ 順接の確定条件・意味は原因・接続助詞「ば」(已然形接続)
接続助詞の「ば」はとても重要な助詞です。2018年度のセンターにも出題されました。(参考⇒2018年度(平成30年度)センター本試験 国語 古文解説)
「ば」は未然形接続と、已然形接続のふたつの側面を持っていて、意味も変わります。
ざっくりと、
未然接続⇒仮定の意味。「もし~ならば」英語では、ifの意味。
已然接続⇒原因・偶然・恒時の意味。「~なので」「~すると」「~するといつも」英語で言うと、because,when,alwaysと意味が変化します。
仮定の意味と肯定の意味でざっくり分かれていて、その中でも肯定の意味合いで、三つわかれてる、みたいな助詞です。
超大事。
召さ/ サ行四段動詞「召す」の未然形
せ/ 使役の助動詞「す」の未然形(未然形接続)
ん/ 意志の助動詞「む(ん)」の終止形(未然形接続)
「せ」+「ん」のふたつの助動詞。これ、ひらがな一文字ずつなんですけど、良く問題に出されます。英語で言うと、I will make you eat many sweets.です。
ここでいう、willが、意志の助動詞の「ん」
makeが使役の役割で「せ」の意味。
召すは、食べるの尊敬語。
古文の文法って、これだけで理解しようとすると辛いんですが、英語を少しワンクッションとして絡ませると、凄く解りやすくなります。ひらがな一つでも、一単語と同じ意味を持っているんだと、理解してください。
あと、助動詞分析は、接続をしっかり見ること。それが基本です。
(参考⇒今からでも間に合うセンター対策 解る古典文法解説 基礎編 その1)
行き/ カ行四段動詞「行く」の連用形
たる/ 完了の助動詞「たり」の連体形(連用形接続)
に/ 接続助詞(連体形接続)
助動詞の「たり」は二種類あります。
連用形接続の、おもに完了の意味になる「たり」と体言接続の、断定の「たり」
なので、前後の文法もしっかりと見てください。一つずつ解きほぐせば、全て繋がっているのでとても楽です。文法は。
難しいのは最初だけなので、ゆっくりと分析してみてください。必ず、文法表を横において、一つずつ確認すること。無理矢理覚えようとしない方が、長期的に見て利益が高いです。
ゆゆしく/ 形容詞シク活用「ゆゆし」の連用形
信/ 名詞・体言※
おこし/ サ行四段動詞「おこす」の連用形
たり/ 完了の助動詞「たり」の終止形(連用形接続)
形容詞「ゆゆし」+「なる」をしてみると、「ゆゆしくなる」となるので、シク活用決定。
形容詞の活用判別は、+「なる」ということをチェック。地味ですが、役に立ちます。
で、ここで※印を付けましたが、なぜか文法的なミスを兼好さんがしています(笑)本来だと、体言に接続しているので、「ゆゆしき信」もしくは「ゆゆしかる信」となるはずなんですが、どうしてか「ゆゆしく」と連用形を使っている。
書き間違ったのかな? と思っちゃうと、兼好さんも人間なんだなとほっこりします(笑)
〈解説〉
「しださん」が、知行=支配する、治めていた場所だったので、という、当時の領土の支配者の名前を出しています。「しだ」という名字だけで、正確な名前は解っていないので、某なになにさん、と濁しています。
多分、その「しだ」さんと、聖海上人(これもあやふやではっきりしない人。当時の人気者? 一発芸人みたいな人?)が友達だったから、京都にいた聖海上人が色んな人を誘って、「丹波にできた出雲神社に行ってみよう!」と旅行を企画した。
で、その宣伝文句として、「ぼた餅付いてますよー」と付け加えた。
「えっ? ぼた餅? 別にそんなもの心惹かれないけど……」
と、現代だったら思うかもしれませんが、鎌倉時代、というか、平安から江戸時代まで、「ぼた餅」は「超高級スイーツ」で、中々食べられないものでした。
今だと、あれかな。
インスタ映えしそうな高級チョコレートとか、スイーツブッフェとか、かき氷とか、パンケーキとか、そんな感じ?
まあ、そんなこんなで、大勢ひきつれて出雲神社に行ったわけです。もちろん、徒歩で。
-第四文目(前半)-
お前なる獅子・狛犬、背きて、後ろさまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやう、いとめづらし。深きゆゑあらん。」と涙ぐみて、
〈訳〉
神社の正面には獅子と狛犬が背を向けあっていて、後ろ向きに立っていたので、上人はいたく感動して、「ああ、ありがたいことだ。この獅子の立ち方は、たいへん珍しい。深い理由がきっとあるのだろう。」と涙ぐんで、
〈文法〉
立ち/ タ行四段動詞「立つ」の連用形
たり/ 存続の助動詞「たり」の連用形(連用接続)
けれ/ 過去の助動詞「けり」の已然形
ば/ 接続助詞・順接の確定条件・理由(已然形接続)
ここでも同じく、接続助詞の「ば」が出てきています。
「たり」と「けれ」は、助動詞の連続のセット。大抵、「動詞」+「助動詞」+「助動詞」というセットになります。
深き/ 形容詞ク活用「深し」の連体形
ゆゑ/ 名詞・体言
あら/ ラ変動詞「あり」の未然形
ん/ 推量の助動詞「む(ん)」の終止形
「深き」を、動詞と間違わない事。「深く」でも大丈夫そうな気になってしまうのですが、これは形容詞。動詞だと思った人は、ちゃんと変形させてみれば、違和感に気付けます。丁寧を心がけると、ミスもへってきます。
「む」は推量・意志・適当・仮定のざっくりと四つの意味を持っています。その中で、判別に使うものが多いのは、推量と意志の二つです。
主語が「~~だろうなぁ」と勝手に思っている事なのか、それとも、主語が「~~したい!」と思っている事なのか。その二つを判別に文脈からも利用してください。
〈解説〉
本来、神社の正面に立っている獅子と狛犬の意味は、その足元を見れば解ります。
大抵、その下には悪鬼が踏みつぶされていたりする像が多いし、今にも飛びかからんと険しい表情であるものがほとんど。
つまり、神社を守るための、空想上の守護獣です。
だから、神社に参る人々の中に、悪鬼が化けてひそんでいないか。悪い心を持った人がいないか、見張っているんですね。
けれど、出雲神社で見たのは、背中あわせの姿。
内側ではなく、外側に視線を向けるような配置になっています。
さて、これはどうしたことかと普通ならば思うのですが、聖海上人は、「ああ、なんとありがたいことだ。きっと、深い理由。出雲ならではの理由があってこうなっているのだろう。それを見れるなんて、わざわざ来たかいがあるものだ」と凄く喜んだ。
感動で、涙ぐみまでした、というのです。
感激屋さんだったのか、それとも、扇動者(アジテーター)だったのか・・・まぁ、きっと後者でしょうね。
こんな良いところに連れて来てあげたよ!! 僕が連れてきたんだよ!!超貴重だよ!!って感じでしょうか。
【今日のまとめ】
-観光地での振舞い-
兼好さんは、「仁和寺にある法師」でも書いているように、観光地ではその人の本性が出やすいし、本音が透けて見える、ということを知っていたように思われます。
誰も自分を知らない場所に行く。如何に自分が凄い人間なのか、教えなくちゃ!!知らせなくちゃ!! となってしまう傾向があるよね、と言いたい兼好さん。結構えぐいです(笑)
続きはまた明日。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
続きはこちら⇒「丹波に出雲といふ所あり」古典解説2
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