手の変幻 論理国語 解説その3

ミロのヴィーナス

手の変幻 解説 その3

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【個人個人が頭のなかに描く理想図】

第3段落のラストで、ミロのヴィーナスの両腕を復元しようとする案が出ていることに、筆者は難色を示しています。要するに、嫌だと、ドストレートに言っている訳ですが、その理由をちょっと説明補足しておきます。

-便利さがもたらす弊害-

 

現代社会は、本当に便利な社会です。

友達と連絡を取ろうと思ったら、すぐに直接本人と繋がることができる。更に、何時でもどこでも連絡ができるし、下手したら海外の人とも、一瞬でネットや電話を通して繋がることができます。

けれど、だからこそ、私たちは人と連絡が取れることの嬉しさや喜びを、どれほどの強さで感じているでしょうか?

漢文のなかに出てくる李白が読んだ、友人、孟浩然との別れの詩。

 

ただ観る長江の天際に流るるを、と詠んだ彼の惜別の寂しさ、悲しさ、わびしさは、今の私たちと同じ強さでしょうか。

別れても、またすぐに連絡を取ることが出来る。逢おうと思えば、新幹線や飛行機を使って、どんな長距離でも移動することができることは、とても素晴らしいことだし、便利なことです。

けれども便利であるからこそ、逆に私たちが失ったものも有ります。

それは、想像性の余地です。

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-欠けているからこそ、人間の想像性が高まる-

 

「無いなら作る」「不便は発明の母」という言葉が示す様に、人は、人間は、何かが足りない。こうあってくれればいいのに、という願いがあるからこそ、様々なものを作りだしてきました。

けれども、その前提にあるのは、「ない」という現実です。

電話やネットなんか無かった世界だからこそ、平安時代は和紙に手紙を書きました。

そして、紙が超高級品で、書く文章量が限られていたからこそ、(そんなに気軽に使える様なものじゃなかったんです)文字数を減らして、ギリギリ最小限の言葉で、多くの気持ちを語りたいと言う、和歌が生まれた。

これは全て、「欠損」や「不便さ」がもたらした発明です。

小説なども、確かに文章だらけのものを読むのは面倒で辛いことかもしれません。

けれど、

なぜ文章だらけのものが此処まで残ってきたかと言うと、具体的な絵がないからこそ、好き勝手に頭の中で想像することを許された部分が有ったからです。

小説原作のものが映画化されたり、アニメ化されたりすると、必ず

「こんなの、思い描いていたのと違う!!!」

って語る人が出てきますよね。

それって、自分の頭のなかで思い描いていた理想図が、現実にドラマ化やアニメ化になって、俳優やキャラクター像といった、誰の目にも明らかな具体像が目の前に提示されてしまうと、

「なんか違う!!」

ってどうしても思ってしまう。

 

-理想図が違うのは、私たち一人一人が独立した存在だから-

 

どうしてそんなことが起きてしまうのかというと、それは、

私たちが違う脳を持ち、違う考え方を持つ、一人の独立した存在だから

です。

私たちは全員、誰かと全く同じ感想を持つことや、同じ理想図を持つことは出来ません。

そう、全く同じ感情を持つことなんか不可能なんです。

だからこそ、その不可能な状態を無意識に分かっているからこそ、重なりあった時が何よりもかけがえのないものなのだし、逆に違う感覚、思考、想像図を持っているからこそ、他者が作りだした創作物を私たちは楽しめるのです。

 

-ヴィーナスの両腕は、それぞれの鑑賞者が頭のなかで描く理想図のなかに存在する-

 

なので、ミロのヴィーナスが、両腕という具体性を失うことによって、普遍的な美しさを手に入れた、というのは、両腕がない、という欠損したが、却って人の想像力(妄想力?)を刺激して、それぞれが、それぞれの理想図を頭の中の空想で思い描き、その姿を楽しむことが出来るのは、私たち一人一人が独立した存在だからです。

そして、人間が根本的に独立した存在だからこそ、

どの時代でも、文化が違っても、人々に愛され続ける作品となる=普遍性を手に入れた

と、筆者は言いたいわけです。

 

この、欠損。欠けたものがあるものほど、美しいという考え方は、像そのものが美しい、と言っているわけではありません。

本当に美しいのは、欠けた部分を補う人の想像力で有り、その想像力は、その人が持っている想像力で描ける、最高の好みの両腕を描き出す筈だから、綺麗で当たり前だと、語っているのです。

 

昔は、娯楽作品が極端に少ない世界でした。

文字しかない、小説しか無い世界で過ごしてきた子供たちが、想像力をフルに発揮して作りだした創作物が、現在の娯楽作品。漫画やアニメ・ゲームなどです。

それは、

「こんなのがあったらいいのに」

という、もともと欠けた状態があったからこそ、彼らは自分達の理想の楽しさを追求したものを作りだしたい、という欲求を感じたのです。

ないからこそ、人の想像力はフル稼働する。

 

だからこそ、その想像力を邪魔する、具体性の提示。つまり、ミロのヴィーナスの両腕の復元など、もってのほかだと、筆者は言いたいわけですね。

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【第4段落】

 

-興ざめの復元案-

 

したがって、ぼくにとっては、ミロのヴィーナスの失われた両腕の復元案というものが、すべて興ざめたもの、滑稽でグロテスクなものに思われてしかたがない。(本文より)

 

そこまで言うか!! という感じですが、これが筆者の偽らざる本音なのでしょうね。

各それぞれ個人が思い描く理想のヴィーナス像。その姿は、誰の影響も受けず、自分だけが楽しめる究極に自分好みの美しさの塊です。

だからこそ、自分ではない、どことも知れない「誰か」に、腕を再現されるのは、自分の理想図が具現化されているのならばいざ知らず、全然違うものだったら、一気にヴィーナスの美しさは消え去ってしまうものです。

「だったら、お前が自分で復元しろよ!!」

と言いたくなる人も居るでしょうが、そうすると、筆者ではない人が描いたヴィーナスの理想像を崩すことにも繋がります。

それ位、個人の頭のなかに描くヴィーナス像の美しさは、誰にも侵略されない、その人だけのものであり、独占できるそれがあるからこそ、この石像は時代を渡り、人々に愛される普遍性を身に付けたのです。

だから、復元しようとする動き自体が、筆者にとっては興ざめ=そんなことしても、全く意味がないし、むしろやらないでほしい、という強い意見になっています。

 

-ヴィーナスの完成像には感動しない心情とは-

 

しかし、失われていることにひとたび心から感動した場合、もはや、それ以前の失われていない昔に感動することはほとんどできないのである。(本文より)

 

何故、両腕が失われていない。つまり、元々のヴィーナスの姿に感動することができないのか。

それは、失われていることによって人間の興味・関心を惹き、その脳裏に理想の腕を思い描いたり、「どんな姿が本来の石像だったのだろう」と考えたりすること自体が既に人間にとって楽しく、また心がワクワクするものであり、その楽しさ。高揚感、興奮度を知ってしまっていると、「実はこうだったんですよー」と本来の姿を示されても、心はワクワクしない。

何故なら、人間はこの「想像する」「思い描く」というクリエイティブな作業に、とてつもない快楽を得るからです。

だからこそ、復元案を提示されてしまうと、その快楽性が無くなってしまう=その快楽の味を知った後だと、感動する事など出来なくなってしまう。何となく、味気なく感じてしまう、と言うわけです。

 

(変態だなぁ……)

-表現における質の変化-

 

なぜなら、ここで問題となっていることは、表現における量の変化ではなくて、質の変化であるからだ。(本文より)

言葉の違いは、具体例を考えて理解しましょう。

量の変化=愛情の強弱。つまり、愛が弱まったか、強まったかは分からないですが、その変化。
質の変化=恋人への愛情と、友人への愛情とは、質が違います。

質の変化って、例示を挙げるととても解りやすくなります。それは最早、強いとか弱いとかの問題ではありませんよね。

-対象への愛-

表現の次元そのものがすでに異なってしまっているとき、対象への愛と呼んでもいい感動が、どうして他の対象へさかのぼったりすることができるだろうか?(本文より)

これは、前の部分の、「質の変化」を理解していると、分かりやすいです。

恋人と友人への愛。家族への愛、など、同じ愛情でも全く違ったものです。それを比べることなど出来ないし、比べる様なものでもないし、今親友Aに感じている強い友情や愛情と同じものを、違う友人Bに注ぐことができるのか。

または、現在の彼女に対して感じている愛情を、元カノにさかのぼって注ぐことが出来るかどうか……と考えると、無理ですよね。

そう。最早、腕があるミロのヴィーナスは筆者にとって、違う存在。違う物体なのです。

だから、同じ様な愛情を、「腕のある石像」に覚えることは、もはや困難であるとギブアップしています。

一方、

腕の無いヴィーナス像」=おびただしい夢にあるのは、想像の無限性です。

理想像の、無限の可能性。それは、腕がないからこそ可能になる、夢=鑑賞者の理想的石像の姿、です。

もう一方にあるのは、

限定されてあるところのなんらかの有=「腕の再現されたミロのヴィーナス像」は、目の前に存在するものが、すべてです。

腕が既にあるのだから想像する必要性も無く、形あるものへの感動は、ある一定の美しさは有るだろうけれど、限定されたものです。無限性は、存在しない。

だから、筆者は腕の再現が興ざめなのです。

限定され、想像性が無くなってしまう。

人はそれぞれ描く、理想図が存在するから、ミロのヴィーナスは美しい。その美しさを奪わないでくれと。

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【第4段落まとめ】

-復元案がなぜ興ざめなのか-

ヴィーナス像の欠けた両腕の復元案は、何度も試みられてきました。けれど、そのどれもが「違う」という感覚を私たちに与えてしまうのは、ヴィーナス像を見た人々が頭の中で理想的な像を作ってしまっているからです。

私たちはそれぞれ独立した個人だからこそ、それぞれの美的感覚がある。

その感覚をフルに再現したのが、その人の頭の中に描かれる美しい、両腕となるのです。

だから、自分以外の誰かが作った両腕は、興ざめになるだけなのです。たとえ、それがどれだけ美しかろうとも。

-想像の無限性とは-

腕のないヴィーナス像は、鑑賞者の頭の中に、美しい腕を想像させます。

ということは、見た人の分だけ、理想の両腕像があるのです。

それは、時代を超え、文化を超え、無数の人々の脳裏に美しい姿を浮かび上がらせて、現代まで生き残りました。普遍性を獲得したヴィーナス像は、今後も鑑賞者に美しい姿を提供するでしょう。

その数は、限定できません。だからこそ、無限の可能性を秘めているのです。

しかし……

両腕の再現案が興ざめだという理屈は分かるのですが、相変わらず、書き方が粘着質っぽい。

変態チックだなぁ……と、今日もお決まりのセリフでしめたところで、続きはまた明日。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

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