100パーセントは正しくない科学 論理国語 解説

100パーセントは正しくない科学

筑摩書房の論理国語より、更科 功著の「100パーセントは正しくない科学」を解説します。

このタイトルは少し変なタイトルだと思いがちになりますが、その意味をきちんと考えれば、「ああ、そういうことなのね」となりますし、読み解くのに数Ⅰ・数a程度の知識が必要になります。

生徒1
生徒1

「げっ!! 数学!!」

生徒2
生徒2

「なんで国語で数学??」

まぁまぁ、そう言わないで。

科学的なことを理解しようと思うと、どうしても数学的知識が必要になりますし、文系でもそこまで難しい数学論理ではありません。むしろ評論文を理解するためには、どうしても必要な考え方にもなるので、1年生の時の「命題と証明」を理解できていれば大丈夫です。

それでも数学嫌っ!!って人は、こちらの記事をどうぞ。数学偏差値学年最下位だった私自身が、数学を勉強し直してセンター試験で満点を取った勉強方です。

何事も、苦手を克服するには戦略と時間が必要です。正しい努力をするために、数学に苦手意識がある子は是非一読してみてください。

では、本文を見ていきましょう。

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本文解説

第1~4段落

科学で重要なことは、推論を行うことだ。推論とは次の例のように、根拠と結論を含む主張がつながったものである。(本文第1段落)

科学で重要なこと=推論を行うこと、ときっぱり筆者は冒頭で語っています。

けれども、この「推論」というものの行い方が、一般人と科学者では全く違うものになります。

科学者はどうやって「推論」を行うのか。それは、私たち一般人が行う「予想」「推測」「予測」「因果」とは、違う手順を通るものであることを筆者は説明しています。もっと細かく、もっと確定を重要視したものになるのですが、その手順がとっっっっってもややこしい。そして、そのややこしさ故に、100パーセント確実なものを探し出そうとしているのに、100パーセントからは遠ざかる、という不思議な現象を説明しています。

私たち科学者でない一般人は、「科学は100パーセント確実なもの」と思い込みがちですが、実は100パーセントではないし、100パーセントだと言い切るものほど科学からは程遠い意見であると、筆者は言いたいわけです。

タイトルがネタバレですね。

「100パーセント、って言い切っているものは、科学ではなくて間違っている意見だから気を付けてね」

と言っています。

結論をタイトルで言い切り「どうしてそうなるのか」をその後の文章で説明する。この評論文の構造であり、評論文でよくある書き方の一つでもあります。

けれども、これがとても手間がかかる作業です。科学者がどう推論を行い、何が正しいものであるのかを積み上げるために、どんな思考方法をしているのか。それを筆者の文章を読みながら、学んでいきましょう。

さて、このような推論には、演繹と推測の二種類がある。演繹では100パーセント正しい結論が得られるが、推測では100パーセント正しい結論は得られない。(本文第2段落)

ここで、言葉の定義が出てきます。推論に至る2つの考え方には、演繹と推測がある、という似た言葉の違いです。

推論と推測。とても似ている言葉ですが、違いは明確でしょうか?冒頭の分で、推論は根拠と結論を含む主張が繋がったもの、と説明していますが、その結論に至るアプローチの前提がこの2つは違います。

それぞれの辞書的な意味はこうです。

推論……分かっていない事を推し量って論ずること。
推測……物事の状態・性質や将来を、部分的・間接的に知り得た事柄や数値から、おしはかること。

似たような言葉でも、漢字が違えば意味は明確に違います。この時に調べる手間を惜しまない事。ほんの少しの違いに必ず気付くことが点数を上げるためには必要になります。文章を書く人間は、明確な違いをもって単語を使い分けています。そうでなければ、わざわざ違う言葉を使う必要がないからです。わざわざ筆者が読者に伝わるように書いてくれているのだから、ちゃんとその配慮を受け取りましょう。これは読み手がしなければならない努力です。

ここでの違いは、推論は「知らないことを既にある根拠から推し量ること」、一方推測は「新しく知った情報から推し量ること」です。

ベクトルの矢印が違います。推論は全く未知なものに対するアプローチで、推測は根拠や証拠、知った物事を基準として、そこから繋がるものを探すことです。

分かりやすく例示を言うなら、推論は「全く行ったこともない場所」「外国」を訪れる場合、全て未知なものなので想像するしかありません。このとき、今まで持っている確実な根拠だけで訪れた自分の状態をイメージすることが推論です。

一方、推測は「新しく知った情報から推し量る」なので、実際に行った人から外国での過ごし方や、どうやって外国で電車や交通機関の使い方や、お金は何が使えるのか、換金はどこで行えるのか。などの新しく手に入れた情報から、どうやって自分が行動すればよいかを考えるのが推測です。

知らないものに対して、知ろうとする考えが推論。知っていることを確認して、そこから派生するのが推測です。

面倒でも、この部分は確実に押さえてください。その小さな努力が、実力を引き上げる一歩です。

余談ですが、現代文では何をしていいかわからない、という質問を良く受けます。けれどもちゃんと丁寧に文章を読もうとすれば、自然とやらなければいけないことは山のように出てくるのが現代文なので、まず、細かい言葉遣いや分からない言葉に気を配ってみてください。その意識の違いが、あなたの未来を変える一歩です。

さて、推論=分からないものに対するアプローチ、には、演繹と推測の2つのアプローチの仕方があると筆者は言います。

科学ではこの推測の方が重要なのですが、まず演繹の説明です。

前の三つの主張から成る推論は、実は演繹と呼ばれるものである。そして、この演繹は100パーセント正しい。なぜなら二つの根拠が成り立っていれば、必ず結論が導かれるからだ。(本文第3段落)

演繹法という考え方は、2つの情報を関連付けることで、そこから結論を必然的に導き出す思考法のことです。確実に根拠がある証拠を2つ用意し、そこから結論をつなげることで一つの主張が生まれる考え方です。

つまり、根拠と結論が必ず繋がっているのです。根拠を知ると、自然と結論も解ってしまう。それが演繹法です。だからある意味、考える必要性が無いのが演繹法とも言えます。もう既に分かり切っているものから導きだせる論なので、ある意味「見たそのまま」が演繹になります。

「根拠が成り立っていれば、必ず結論が導かれる。」ということは、「結論(の情報)は、根拠(の情報)の中に含まれている。」ということでもある。だからいくら演繹を繰り返しても、知識は広がっていかないのだ。(本文第4段落)

科学は「新しい情報(知識)」を手に入れようとする行為です。

とすると、新しい知識は既に知っている物からは手に入らないので、未知のものにアプローチしていく必要がどうしてもあります。

演繹はしっかりとした根拠に基づく考え方で、間違いはありません。けれども、演繹法ばかり繰り返すということは、知っている知識の中でぐるぐると回転するだけで、何一つ新しい情報は手に入らないのです。これは科学的行為とは言えなくなってしまいます。

間違いのない行動ばかりでは、既に知っている世界で行動することになるので、予想できるものばかりで新しいものは手に入らない。新しいものが欲しいなら、未知の世界に踏み出す必要があります。

もちろん、だからと言って演繹法が使えない考え方だと言っているわけではありません。演繹法は演繹法で、とても大事な考え方で使いこなす必要があります。

なので、科学的には重要なのは、推測だと筆者は主張します。

 

第5~9段落

さて、ここで数学的な考え方の説明が入ってきます。

文系にはとても頭の痛い部分ではありますが、数Ⅰでやった「集合と命題」をちょーっと思い出してください。科学的な論文は受験必須なので、数学的な考え方を入れておいても、無駄になることはありませんし、数Ⅱや数Bに比べればまだ手がとどく論理(だと私は思います(笑))なので、頑張りましょう。

ということで、本文にもある図です。

この、一つのAという定理に対して、「逆と裏と対偶」が存在し、逆と裏は正しいかどうかは分からないけれど、Aが正しければ対偶は常に正しい、という非常に大事な論理になります。

で、本文では生物学者らしく、コウイカの定理が使われているのですが、文系というか、生物に対してそこまで知識がないと、

生徒2
生徒2

「そもそもコウイカって何?」

って人には、とてもなく理解し辛い内容となっています。(多分、筆者にしてみたら分かりやすい例示なんだろうけど、コウイカって言われても分からないし、そもそもイカが足10本ってこの文章で初めて知ったし、イメージし辛いことこの上ないっ!!)

ということは、往々にして評論文で存在します。筆者は高校生に分かりやすいように書いているつもりなんですけど、結果的にすっごく分かりにくいものになるんですよね。これ(;´∀`)皮肉もいいとこだ。

なので、そういう時の対処法は一択です。自分に簡単に理解できるものに置き換えて考える!!

これが鉄板の考え方です。

この場合、

定理のAをとっっても分かりやすいものに置き換えます。

A=夏は暑い

とすると、逆(前後入れ替え)は

逆=暑い時は夏だ。

となります。前後を入れ替えるんですね。となると、春でも秋でも季節外れに暑い日はあります。なので、暑い時は夏だと言い切ってしまうと3月ぐらいに暑い日があったら、3月は夏? となってしまい、完全に正しいわけではありません。

では、裏(それぞれの否定)はどうかというと、

裏=夏でないときは暑くない。

裏はAの否定形を前後につける論です。これも、正しいとは言えなくなってくる。言いかえると、「春・秋・冬は暑くない」となります。これも断言することはできませんよね。だから、正しいとは言えない。

では、対偶(否定の入れ替え)はどうかというと、

対偶=暑くないときは夏でない。
これも置き換えます。「涼しい時は春・秋・冬だ。」と書き換えると、ちょっと納得しますよね。これは正しいとなります。
数学の場合、これを数式でやるので分かりやすいのですが、文章で「逆・裏・対偶」を考える時は、現実の現象で考えます。
言葉遊びのように感じるかもしれないのですが、この数学的考え方が科学的に推論を行う時にとても大事になってきます。
ポイントは、逆と裏が「必ずしも正しいとは限らない」という考え方です。
筆者が出してくる例示が分かりやすいものである保証はありません。ならば、自分の分かりやすいものに「置き換えて」考えるという要素はとても大事です。ぜひ、これを身につけてください。
思いつかないならば、考えるのを試すこと。筆者も言ってますよね。未知のものに挑戦しないと、新しいもの(能力)は手に入らない。新しい能力がほしいなら、今までやってこなかった考え方をしてください。
それが第一歩です。

 

第10~14段落

 正しい演繹なら結論は100パーセント正しい。しかし、結論は根拠の中に含まれているので、いくら演繹を繰り返しても知識は広がっていかない。
一方、推測の結論は100パーセント正しいとはいえない。しかし結論は根拠の中に含まれていないので、推測を行えば知識は広がっていく。(本文第10~11段落)

さて、ここで(逆・裏・対偶)の関係から、最初に語っていた演繹と推測の話に戻ります。

結論が根拠の中に含まれているのは、演繹。なので、見ればわかることだから知識は広がりません。むしろ、既に知っている中でぐるぐる論理は回ってしまいます。けれども、利点は100パーセント正しいということです。正しさだけを求めるのならば、演繹法はとても良い考え方になりますが、変化は訪れません。

推測は未知の部分に踏み込む考え方なので、間違う場合があります。けれども、間違ってしまうその経験も未知のものなので、それも含めて新しい情報(データ)が手に入ります。間違うことですら、科学にとっては貴重なデータなのですね。

これも面白いのですが、今まで暗記だけで乗り切ってきた子が「考える」新しい勉強に切り替えた時、未知のやり方なので頑張っているのに点数がただ下がりする傾向があります。これは高校生ならば一度は経験しているのではないでしょうか。もちろん、上手くいく場合もあります。けれども、自分が今までやっていなかった勉強法をしようと思えば、必ずどこかでやったことのないものに手を出さなければならなくなるので、一度必ず沈むんですね。

そこでやめてしまう子、諦めてしまう子が大半なのですが、この科学的な思考法をわかっていると、「新しいことをやっているんだから、間違って当たり前だし、上手くいかなくて当たり前。馴染むまでの我慢」と思えるかどうかです。

変化をしたい、ということは未知の領域に踏み込む行為なので、どうしても「100パーセント正しくない」ことを受け止める必要があるのです。

科学では、必ず何らかの形で、この推測を行う。そして、よくあるケースでは、推測によって仮設を立てる。そこから、この仮説を、観察や実験によって検証するのである。(本文第14段落)

ここで科学的な新しい知識を増やす方法を筆者は提示します。

科学的な知識は演繹よりも推測を優先的に行い、その推測から「仮説」を立てます。仮説=もしかしたら、~~~なのではないか。という推測を立て、それを実証するために様々な実験や観察によって検証を繰り返し、発表し、自分一人の検証ではなくて、様々な人々の目や実験、知識を使って検証をし続けるわけです。

だからこそ、科学者は論文を書き、公表し、色んな人からの意見をもらって、また検証に戻る、という行為をひたすらに繰り返すわけです。なので、否定されることが嫌ならやっていけない職業です。自分の意見を事細かく検証され、穴を探され、欠点を指摘されて、ボロボロになるけれども、その過程で仮説がどんどんブラッシュアップされていくわけです。

1人の人間が思い描いた「仮説」を、色んな人々の目に晒すことによって、確証がある仮説にどんどん変化していきます。科学の過去を振り返れば、「これが正しかった!」と思い込んでいた考えが、実は間違いだった、なんてことは山のようにありますし、もしかしたら私たちが今、現在「正しい」と思い込んでいることが、実はとてつもなく間違っていた考えである可能性も常にはらんでいるのが、科学というものだったりするわけです。

その中で「おそらくこれは正確性が高い仮説じゃないか」というものが生まれたりすると、「理論」とか「法則」と呼ばれるものになっていくのですが、それすらも「100パーセント正しい!!」なんて言いきれないわけなんですね。

どうしてそうなってしまうのか。なぜ、多数の人々の検証や支持を受けても、「100パーセント正しい」が有り得ない考えと言い切れるのか。それを学びます。

 

第15~28段落

 科学の手順にはいろいろあるけれど、今まで述べてきたように、次の二つの段階を踏むものが多い。
(一) 仮説の形成
(二) 仮説の検証
(本文第15段落)

言葉にすると簡単ですが、自分で考えるとなると話はまた別です。

ここで筆者はやはり「コウイカ」を例に説明しているのですが、これも自分に分かりやすいものに落とし込みます。この、筆者の例示を理解する行為もとても大事なものですが、可能ならば「自分なりの例示」を考えることはとても大事です。一歩先に進んだ勉強の仕方なのですが「思い浮かばない」で諦めるのではなく、色々試行錯誤して「これはどうかな」と仮説を立てて、友達などに話して確認をしてみてください。(筆者が提示する科学的手法と全く同じ手順です)この自分なりの新しい分かりやすい例示を考える行為が、「抽象➡具体」に落とし込む高校国語の課題です。

まず、証拠からの仮説形成を考えます。

証拠:カカオは苦い

というものから、

仮説:チョコは苦みのあるものだ

という仮説を作るとします。

カカオそのものを食べたことがある人は少ないと思いますが、チョコを食べた人はたくさん存在します。仮説は証拠を上手く説明できるものでなければいけません。チョコは甘いと感じる人もいるでしょうが、ビターチョコという分類があるように、カカオに砂糖や牛乳などを足してチョコが出来るので、元になるカカオは苦みがあるものだと説明できます。

この過程は、推測か演繹かと考えると、チョコがカカオで出来ていることは分かっていることなので説明=演繹法を利用していることが解ります。

仮説は未知のものに一歩踏み込む考えですが、それを正しいと説明するのは演繹を使っています。なぜかというと、説明は「100パーセント正しい」ことを使わなければなりません。となると、推測ではなく演繹法を使用することになります。推測だけでも演繹だけでもダメで、両方を駆使して新しい考えに踏み出していきます。行ったり来たりなんですね。

つまり、「証拠➡(仮設形成=推測)➡仮説」だけれど、「仮説➡(説明=演繹)➡証拠」という反対の向きの➡を常に必要とするわけです。

さて、その次。

仮説の検証を行います。この仮説の検証は新しい事がらの設定が必要となりますが、これを演繹で導き出します。検証なので、100パーセント正しいものを設定するわけですね。

仮説:チョコは苦みのあるものだ
仮説から導き出せる新しい事柄は、暗黙の了解としてチョコは美味しい、人気のある味(チョコが苦手、嫌いという人にはあまり私は会ったことがないのですが、居たらすみません(;´・ω・))を基として、こうしてみます。
新しい事柄:苦みのあるものは美味しい
味を感じる舌に存在する、味細胞からなる味蕾(みらい)が、食べ物や飲み物に含まれる化学物質を感知することで脳に信号が伝わり、人は味を認識することができます。
舌には味蕾がなんと数千個あると言われています。
その味蕾を通じて感じることができる味には、「甘味・酸味・塩味・苦味・うま味」の5種類。もともと苦みを人間が感じるのは、毒を察知して食べないようにするための防衛本能が発達した故でした。なので、子どもが野菜や特定の食べものの苦みを嫌うのは本能的に「これは毒だ」と思ってしまうから。
けれども、経験を積むにしたがってその苦みが身体にとって有効だと知識を得て、楽しめるようになると苦みを美味しく感じ始めます。つまり、経験を脳が蓄積することで美味しいと感じられる味覚なんですね。経験の有無が美味しいと認識できるかどうかのカギになります。
さて、ここまでは追いかけて行けば何とかなります。問題は此処からです。
 科学の正しさというのは、要するに仮説の正しさのことである。右の図を見ると、仮説に向かう矢印は、仮説形成と検証だ。仮説を支えているのは、つまり仮説の正しさを保証するのは、仮説形成と検証なのだ。
 ところが、仮説形成も検証も、論理の向きが演繹とは反対になっている。つまり、演繹の「逆」になっている。(本文第27~28段落)

演繹は100パーセント正しいものです。けれども、その正しい➡の逆向きに、仮設形成と検証が構成されている。そう。数学の命題の「逆」です。

ある主張に対して、対偶は正しくなりますが、逆と裏は正しくなるとは限りません。

第29~30段落

科学では、仮説による説明や予測を演繹にしなければならないので、仮説の正しさを保証する仮説形成や検証がどうしても演繹の逆になってしまう。だからどうしても、仮説に対して100パーセントの正しさを保証できないのである。(本文第29段落)

科学はより確実に、「正しい」ことを立証しなければならない責務を負っています。

だから、確実性の高い演繹の考え方を踏まえたうえで仮説を立てなければなりません。けれども、そうすると仮設形成や検証は正しいとされる演繹の考えの逆にどうしてもなってしまう。

そして、数学の命題の考え方を採用すると、逆は「正しいとは限らない」ということが数々の証明で明らかになっているので、結果的にあちらを立てればこちらが立たず……という堂々巡りになります(笑)

生徒1
生徒1

じゃあ、100パーセント正しくないなら、やっても無駄じゃない?

にならないのが、人間のしぶといところ。

新しいことを知りたい。分かりたいという欲求が、ここまで文明を発達させてきました。ある意味、無駄なことを積み重ねていったら、役立つようになってきた。それが役立つかどうかなんて、やり続けなきゃ分からないわけだし、分からないから知りたいと思うのです。

新しい事柄を知るためには、100パーセントの正しさは諦めなくてはならない。これは仕方のないことなのだ。それでも私たちは知識を広げてきた。真理には到達できなくても、少しでも、そこに迫ろうとして。(本文第30段落)

真理には到達できないともうわかっているはずなのに、それでも不可能なそれに挑戦し続けている。ある意味、科学者は本当にタフで、粘り強く、諦めの悪い人たちなんだと思います。

常に不可能に挑戦し続けているし、時には大きな間違いを犯す危険性も多分に含んでいるけれど、それでも研究が楽しくて仕方がない。新しいことを知りたくてたまらない、純粋な人たちの塊なのかなとこの評論文を読んで思います。

論理的思考。科学的思考法と聞くと、「難しそう……」と倦厭する人は実際多いです。けれど、真理に到達することなど出来ないし、信じていたことも覆るかもしれないという恐怖が常に隣り合わせの世界で常に研究し続ける科学者たちは、とても勇気がある、そしてとても純粋な気持ちを持ち続けている人たちなのかなと、筆者のこの言葉を読むと感じてしまいます。

正しさの中で安心することなく、間違いを恐れずに未知の分野に一歩進み出ようとする行動が、論理的思考というのかもしれません。

まとめ

科学は100パーセント正しい。

そんな風に思いがちです。論理的思考は間違いがない。そういう意見もたまに聞きます。

けれども、科学者たちは実は正しさなど何一つ存在しない場所で、常に思考を繰り返し、観察と実験を繰り返して、新しい知識をどん欲に取り込もうとしています。

未知なものを手に入れようとするのならば、正しくないことも大量に手に入れることになります。時に間違ってしまうこともある中で、それを恐れずに、けれどもその中で一歩でも真理に近づこうとする行為が、「科学的」というのかもしれません。

科学から最も離れた位置にいる考え方が、「100パーセント正しい」と言い切ることなのかもしれません。

 

では、次はこの評論文の記述問題でさらに読解を深めていきましょう。

 

ここまで読んでいただいてありがとうございました。

 

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