評論文解説 「暴力の神話」山極寿一著 その2~常識を否定するパターンを読み取る~

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こんにちは、文LABOの松村瞳です。

評論文も小説も共通しているのですが、読み飛ばしてしまいそうな冒頭に殆どのヒントが隠れています。

評論のパターンを読みとるのも、その一つ。

当たり前だと思われていた考えに対し、違う。誤解であると書き、その証拠を明らかにする。新しく知り得た情報や研究で、それまでの常識をひっくり返す。

一つのパターンとして、頭の中に置いておいてください。

センター試験の論文にも、良く出される形のものです。

今まで信じていたものが覆る。それを書いている評論はとても多いです。

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【常識を書いてから否定のパターン】

常識⇒それが間違い⇒正しいのは、これ。

というパターンの評論文は非常に多いです。そして、何故そう言えるのかを、研究資料を元に解説していく。そして、まとめの流れに繋がっていきます。

現代文って何を勉強して良いのか解らない、という意見は良く聞きますが、教科書と言うのは非常に良くできています。そして、センター問題に選ばれる評論文は、高校時代に現代文で読んだ理屈や論旨、そして論の進め方などのパターンと同じものが出題されます。

この、「暴力の神話」もそのパターンの一つ。

研究分野では常識とされていたことが、間違いだった。そのパターンを頭に入れておくだけでも、解きやすくなります。

ひとつひとつ、納得して積み上げを行っていきましょう。

【60年代まで常識とされていた人間の攻撃性】

では、本文に戻ります。

段落番号3

1962年に出版されたロバート・アードレイの『アフリカ創世記』は、動物が本能として持っている攻撃性を人間が武器によって高め、殺戮者としての道を歩んできたという進化のシナリオが描かれている。(本文)

ここから描かれている内容は、60年代まで生物学者の中では定番となっていた考えです。

武器と戦争は、人間に自由と規律をもたらす手段としては、最良の手段。

戦争を肯定しているわけです。

自由と規律、つまりルールや法律を守る社会をつくり、その社会の中で自由に生きたいのならば、武器と戦争を手段として用いなければならない、というわけです。

狩猟時代に武器を改良し、競争力を高め、攻撃性を発達させてきた人間は、戦争は不可避な手段だと、言いたいわけです。

狩猟時代に、私たち人間は攻撃性を高めていったのだと。

そして、本能的に動物は攻撃性を持っている、という論理。

この二つを、筆者は真っ向から否定します。

【研究から解ったこと 狩猟時代はむしろ平和だった】

段落番号5

近年の狩猟採集民研究は、狩猟が人間の攻撃性を高めるものでも、人間どうしの戦いを助長するものでもないことを明らかにした。

集団間に起こる暴力的な争いの頻度は、農耕社会のほうが狩猟採集社会よりも明らかに高いのである。(本文)

衝撃の事実です。

狩猟時代に、動物を狩って生活をしていたのだから、攻撃性がとても高まったのはこの時代だろうと考えていたのに、発掘された化石を調べてみると、農耕民族の時代の方が人間同士の争いが多かった。

更に言うと、狩猟採集民族は、二足歩行になり、自由になった両手で作ったのは、あくまでも「道具」であって、「武器」とは程遠いものだったというのです。

これは歴史も証明しています。

もしよかったら、歴史の教科書の縄文時代と弥生時代の絵を、比べてみてください。

特徴的なのは、弥生時代の柵です。それから、見張りの為の物見櫓です。周りを動物に囲まれ、夜に襲われる可能性もありそうな縄文時代は、一切の柵を作っていません。

要するに、柵は動物を防ぐものではなく、人間相手の為に作ったものであるという事が、解るのです。

財=お米、食料であった弥生時代。貯蔵可能な穀物を手にしたことで、貧富の差や豊作・不作などの格差が産まれるようになり、その格差。本の少しの差が、暴力性や攻撃性を高めることになっていったのです。

筆者は続けて、狩猟時代が何故暴力を使う必要がなかったのか。そして、動物の本能と言われている暴力性、攻撃性は本当に存在するのかと、論旨を展開していきます。

【何故、狩猟採集時代は平和だったのか】

発掘された化石だけでなく、現代でも狩猟生活を営んでいるアフリカ部族の生態を筆者は取り上げます。

段落番号5

狩猟採集社会では、むしろ争いが起きないような規範が生活の隅々に行き渡っている。(本文)

争いが起きないように工夫されている規範。ルールは、獲物を取ってきた時のハンターの態度です。

手柄を絶対に自慢しない。むしろ、こんなつまらないものを獲ってきて、ごめんなさいと謙虚に頭までハンターは下げる。

これは個人の能力の間に差異を表面化させず、権威を作りださないようにしてトラブルを防ぐ規範である。(本文)

これを理解すると、何故争いが起きるのか。どうして、狩猟時代は平和であったのかが、理解できます。

徹底的に差異。格差や違いを生みださないように、徹底していたのです。獲った獲物は全員で分配し、誰が獲ったか解らないようにしたり、獲った人間をほめたたえることも無く、本人もまた自分の成果を誇らないようにしている。

特別な誰かを作らない、という事になります。

特別な人間を作ってしまうと、そこにはどうしても権力が集まってしまう。権威性が産まれてしまう。そうすると、必ず争いが起きる。だから、それを避けようとする。

狩猟採集民の平等社会は、個人を突出させず、ともに生きることへ向かう生活上の実践を徹底させることによって維持されている。(本文)

争いが起きる原因は、差異。他人と違う事が、争いを生み、それが拡大すると戦争となる。

違いが、戦争を生んでいる。

それを狩猟民は知っているからこそ、違いを生みだす原因を徹底的に排除しているのです。特別な誰かは産まれないし、社会の発展も訪れませんが、争いは産まれない。

その平和を享受するために、彼らは違いや格差、差異を徹底的に避けて暮らしているのです。

【狩猟=平和、農耕=争いの勃発】

一見平和そうに見える農耕民族の生活の方が、争いを生みやすい、というのは、本当に皮肉に思えるというか、怖い真実です。

富の偏在によって私たちの社会は発展を続けてきましたし、資本主義など格差を助長するシステムそのものです。偏りがある。差異があることが、争いを生む。狩猟は、争いの原因とはならない、という意外な事実。

筆者は人類学者です。学者は、自分の取った研究データからは、逃れられません。

人間が争いを生んでしまう原点が何なのか。暴力を生みだしてしまう理由を、狩猟時代や私たちの祖先である猿に押し付けるなと、言っているようにも感じます。

神話の崩壊は、まだ続きます。

続きはまた明日。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

 

 

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