可能無限、解説その3
今日は、前半のまとめまで解説します。
数学的に世界を捉えると、日常生活は無限に溢れている。
たかが、毎朝の挨拶やコーヒーにミルクが混ざり合う模様を見て、「無限の可能性があるなぁ」なんて、誰も考えません。けれど、言われてみれば、確かに無限の組み合わせや、二度とない組み合わせのように見える部分がある。
つまり、日々の様々なことを、受け取り方。捉え方を変えることで、無限に可能性がこの世の中には溢れていることに気付く。気付ける。そして、気付くことによって、私たちの生活はどう変わっていくのか。続きを読んで行きましょう。
【第8段落】
私たちの身一つには、四季さまざまや一日のうちの全ての時間を同時に引き受ける地球ほどの容量はない。それでも、一人ひとりの取るに足らない人生の中に、無限と多様性は確かにある。(本文より)
この文章は、評論文における論の展開の、とても基本的な書き方が出ています。どの評論文でも同じ様な文の展開をしている、とても特徴的なものなので、しっかりと押さえましょう。
このパターンを覚えておくと、模試でも迷うことなく論理に辿りつけます。
自分で、違う文章の中で見つけられるかどうか、ゲームのように挑戦してみると、面白いかもしれません。
ポイントは、逆接の接続詞を挟む、前後の文章。
肯定文。しかし(それでも、けれども)否定文。
もしくは、
否定文。しかし(それでも、けれども)肯定文。
のワンセット。
この文章の特徴は、逆接の接続詞の後半が、筆者の主張だと言うこと。これは、どの評論文にも当てはまる部分です。
此処で言う、筆者の言いたい主張は、一人の人生の中に、無限と多様性があるということ。
わざわざ「取るに取らない」と形容が付いています。
取るに足らない、とは、取り上げる価値も無い。つまらない。と言う意味。
そう。地球の規模に比べれば、確かに一人の人間の人生など、取り上げる価値も無いものになるかもしれない。けれど、それでも、無限と多様性は人間の中に存在している。
一見、矛盾しているように思います。
つまらない存在のなかに、無限が存在している。この、逆説的な論理を、筆者はこの続きで具体例を上げながら、説明しようとしているのです。
-評論文につきものの逆説-
多くの評論文を読んでいると、この「逆説」という言葉を多く見かけるようになります。
そして、この逆説、という言葉に振り回される人がいます。一瞬、「んっ??」って成りますよね。けれど、この逆説。パラドックスの内容を良く解っていると、とても評論文の読み方が安定します。
逆説、とは、一見矛盾している様な論理。と言う意味。
けれど、その矛盾している論理が、真理をあらわしている場合もある、ということです。
簡単に例示を挙げると、
「安全な道は危険である」という逆説的な文が有ったとします。
矛盾がありますよね。安全なのに危険って、どっちなの?? と思いますが、良く良く考えてみると、安全だからと思ってしまうと、人間は油断してしまう。大丈夫だと、平気で危ないことをしてしまう。だからこそ、その油断が積もり積もると、危険な状態に繋がってしまう、ということです。
ここでのポイントは、正説。「安全な道は安全である」という、誰もが当たり前のように思うことが、根底に存在しているということ。
その逆、を行くから逆説であり、そこに繋げるための、論理が必要だと言うことです。
多くの評論家は、それを文章化していません。というより、その逆説の意味を説明していない文章。部分が、問題として採用される場合がとても多いのです。(中略で消されている場合も多数)
なので、逆説的な表現。矛盾を含む表現が出てきたら、その二つを繋げる論理を考えなければならないということです。
そこが、テストのポイントであり、記述で問われるポイントでもある。慣れれば、簡単です。
是非、逆説を見つけ出し、何故逆説が真理に繋がっているのか。それを常に考えられるようになってくると、評論文を読むのが面白くなってきます。
この文章に置いての逆説の矛盾点は、「取るに足りない、矮小な人間の中に、無限がある」という部分。
取るに足りない、小さな人間の一生には、取るに足りない可能性しか存在しない、というのが、正説です。
けれどそこに、無限の可能性が秘められている。この二つの論の矛盾を繋げるのが、数学的な見方を身につけ、その思考法を身に付けることで、それが可能になる、と言っているのです。
【第9段落】
問題は、日常の中に潜んでいる数学的な無限を、いかに私たちの生にとって意味のある無限に結びつけるかということである。(本文より)
数学的な無限。つまり、日常生活の中に溢れている様々な無限の法則。コーヒーとミルクの交わりだったり、朝、誰に最初に挨拶を言うかの可能性だったり、捉え方しだいで常に無限は存在していますが、けれど、それがあなたの人生にとって意味がありますか? と問われたら、まぁ、意味はないですよね。
コーヒーとミルクが混ざり合うのなんか、「早く混ざれ―」とか、「いや、俺ブラック派だし」「そもそもコーヒー、苦くて飲まない」という人達には、意味なんかないわけです。いや、そもそもコーヒー好きだったとしても、どんな意味があるか、と言ったら、中々人生の意味に結びつけられる人は、難しいでしょう。
その難しさを、筆者は述べています。
数学的な考え方で生活や自然を見れば、無限の可能性はそこかしこに存在しているけれど、それを人間にとって意味のある無限には、中々結びつかない。その殆どが意味を見いだせないままで、放っておかれる、と言うのです。
事実として偏在している無限を、いかに生の充実に結びつけるか。そのためには、私たちは無限というものの正体をよく見きわめなければならない。(本文より)
偏在とは、目に見えた存在だと言うこと。対義語は、潜在です。目に見えない。まだ形になっていないもの。これは、とても多く出てくる言葉なので、頭のなかに入れておいてください。
つまり、無限の現象と言うのは、目の前に見える形で転がっている。その転がっている無限を、どう人間の生活。人生の充実に結びつければ良いのか。
人生の充実とは、人間のいきがいや、達成感、満足感をもたらしてくれるものです。
例えば、ゲームが大好きな子供や、漫画やアニメが大好きな子供にとって、無限に遊べるよー。何度も出来るよー、と言うと、まぁ、大概目をきらきら輝かせますよね。
「これが終わっても、次がまだある!」って思うと、自然とわくわくするものです。
個人的に、私は本屋や図書館がとっっっっても大好きなのですが、多分、自分の大好きな「本」という存在が、読み切れないぐらいに大量にある、ということに自然と心がうきうきするんでしょう。
「ああ、まだ次がある!!」って思えることって、本当に楽しいし、人間がわくわくするもの。ワクワクする時って、「次がある」ということに繋がっているのではないか。
それが、無限なのではないか。そして、その無限性が、人間の人生に充実を齎すのではないかと、論理は続いていきます。
今日はここまで。
続きはまた明日。
ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。
続きはこちら⇒可能無限 解説 その4
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