小説読解 芥川龍之介「羅生門」その5~自己正当化の罠~


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こんにちは、文LABOの松村瞳です。

羅生門5回目。今回は、一気にラストまで解説死体と思います。

この小説のテーマでもある、「自己正当化」

この正当化を、小説内では「仕方がない」という言葉で表現されています。

ムカついた! と思った瞬間。自分の表情を鏡で見れますか?

【「仕方がない」という言いわけの裏側】

状況や環境がどうしようもなく悪い状態で、誰しも色んな条件に触りまわされているのは解ります。自分がどんなに安定した状況で居ようと思っても、容赦なく外側から気分を害したりするものは襲ってくる。

けれど、どんな状況や環境が襲ってきたとしても、その「行動」を起こしてしまった。もしくは「何もしなかった」という選択は、あなたの物です。

この人間の闇の部分。どうしようもないずるい部分を、小説家芥川龍之介はこの下人と言う平均的な男の行動を通して、鋭く描き出しています。

状況や環境に振り回されてしまった。だから仕方がなかった。いろんな場所で聞く言葉です。けれど、この「仕方がなかった」という言葉の裏側に何が隠れているのか。

冷静に考えてみると、解ります。

「仕方がない」「どうしようもなかった」「それしか選べなかった」

この裏側に隠れているのは、「だから、俺は悪くない」という、究極の言い訳です。

いじめのエントリーでも書きましたが、いじめっ子がいじめられっ子に投げつける、定番の台詞があります。

「いじめられる方にも原因はある。そんな態度だから、いじめられるんだ」という、言葉。

良く討論番組などで見ていても、本当にこれを耳にすることが多いのですが、勘違いしてはいけません。

周囲はどうであれ。きっぱりというのならば、いじめられっ子がどういう子であったとしても、あなた以外の他のクラスメイトはいじめなかった。このいじめなかった子もいる、という事は、逆にいえばいじめという行動を起こした責任は、全ていじめっ子にある、という事になります。

同じ環境であっても、同じような過酷な状況に直面しても、やらない人はやらない。逆にいえば、やる人間はどんな環境でも行動を起こしてしまうのです。

そこに、「仕方がない」という言い訳と「相手が悪い」という自己弁護さえ付け加えられてしまえば、平気で酷いことをしてしまう。

それが私たち人間の姿なのだと、この羅生門は描いています。

【下人の性格を思いだそう】

全ての運命は、その人の性格に宿る、とは芥川龍之介の言葉ですが、それを彼は小説で見事に描き切っています。

天災や解雇など、同情できる部分はもちろんあります。平和な、安定した状況ならばどうとでも言えるという批判もあるでしょう。

けれど、この下人は盗人になるより仕方がないと言いながら、その勇気が持てないでいた、と書いてあります。

犯罪者にも、それぞれの言い分があるでしょう。そんなつもりはなかった。けれども止められなかったと、理解を訴えることが殆どです。

人は、悪行を覚悟の許で出来る人間はとても少ないと言います。非難されることを解っていて、何らかの目的の為に行動を起こす場合と比較して、人は「正義の名の許に」「正しいことをしているのだ」と思いこんで行動を起こす方が、とんでもない惨劇を起こしてしまう事は、歴史上数多く存在しています。

例えば、第二次世界大戦中のナチスドイツによる、ホロコースト。ユダヤ人に対する大量虐殺はアドルフ・ヒトラー1人の手で行われたわけではありません。それに荷担した人々が存在し、彼らにとってはその行動はドイツの未来の為に正当性があった、または、周りが皆正しいと言っているから、考えることを放棄した結果の、なれの果てです。

下人には、覚悟がなかった。勇気が持てなかった。

自分の状況を考え、それを改善するために行動を起こすよりも、流される方を選んだ。

「仕方がない」という狭まれた選択肢しかなかったのではありません。

自分で選択肢を狭め、1番楽な道を彼は選んだのです。

【老婆に対する豹変】

下人は太刀で老婆を脅します。「何をしていたのだ」と問い詰めながら、そのぶるぶる震える一人の人間の姿を見て、正義の心に突き動かされていたはずの下人の心に、看過できない気持ちの変化が見られます。




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これを見ると、下人は初めて明白に、この老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されているという事を意識した。そうして、この意識は、今まで険しく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。あとに残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就したときの、安らかな得意と満足があるばかりである。そこで、下人は、老婆を、見下ろしながら、少し声を和らげてこう言った。(本文)

人の命を握っているという、優越感。老婆一人に対してのみですが、生殺与奪権を握っているという、絶対権力に酔う様が、克明に描かれています。

恐怖に慄いていた姿も、門の下で盗人になる勇気が持てずに堂々巡りをしていた下人の姿も、ここにはありません。

暴力で相手の全てを支配し、悦に入る。

同じ人間でもここまで変わるかというほどの、豹変です。

悪を憎む心から動いたとしても、この瞬間。下人の顔は醜く歪んでいたでしょう。悪を正すことが目的なのではなく、自分の好奇心を満足させ、相手よりも自分が上であるという優越感の心地よさに酔っている姿は醜悪、そのものです。

この相手を意のままに操れるという感覚。自分が上だと意識した瞬間、人間は全てを自分の思い通りに動かそうとします。

歴史上、権力を握った後の実力者が暴君になってしまうのも、原因はこれです。

自分が行う事は全てが正しいと思ってしまった瞬間。相手のことを思いやる気持ちが薄れ、そして強烈な自己正当化が始まるのです。

そう。自分の行う事は、全て「仕方がない」から、自分は悪くない、という究極の理由づけです。

【そして、盗人に】

老婆は、死骸から髪の毛を抜いて、鬘にして売ろうとしていました。その理由が「詰まらない」と失望し、言い訳を聞くことも下人は飽きています。

下人は、老婆の答えが存外、平凡なのに失望した。(本文)

何かしらで生計を立てなければ飢え死にするのは目に見えています。だから、自分が盗人になるしかないと思ったように、この老婆も生き残るためには手段を選んでいられなかった。

つまり、下人と同じ理由です。それを平凡だと言い切る。では、どんな解答だったら、下人は満足したのかと少し、問いかけたくなります。

自分が成敗するのに相応しい悪行であるのならば、悪を切り捨てた自分の価値も上がるだろうに、こんな平凡な理由でこの老婆を切って捨てても、意味など何一つない。

そんな虚栄心にも近い下人の本音が、この言葉の裏に隠れています。

そして、老婆への侮蔑がわき上がってくる。

自分勝手にもほどがある考えですが、下人は気付きません。気付けません。

老婆は続けます。

皆が皆、生き延びるために仕方なく罪を犯している。だから、わしのしていたことも、悪いこととは思わぬ。飢え死にしない為には、仕方がないのだと。

老婆も、下人と同じ論理で動いている。仕方がない。どうしようもない。だからやっているだけで、悪いことをしているわけではないと。

その言い訳を聞きながら、下人はむしろ冷めていきます。冷静になっていき、けれどその冷静さが、下人にある「勇気」を与えてしまう。

「きっと、そうか。」(本文)

下人は一言、こうつぶやきます。そして、老婆から引剥ぎをする。盗みを働くのです。

そう。「仕方がないから」俺が罪を犯しても、許されるだろうという、責任転嫁と自己弁護が一瞬でなされてしまったのです。

 

人は、こんなにもあっさりと豹変してしまう。

ほんの数時間前には、「盗人になるのは嫌だ」と思っていた人間が、切っ掛け一つで「盗人」になってしまう。

これは、下人だからしてしまったのではありません。

作者、芥川龍之介は下人を平均的な人物として描いた。つまり、下人は私たちでもあるわけです。

人は、誰でも簡単に犯罪者になってしまう。その可能性を常に含んでいる。

その不都合な真実を、まとめていきます。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

明日はまとめです。

 


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