小説読解 芥川龍之介「羅生門」その6 まとめ~人は善悪・表裏一体の存在であるという事~


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こんにちは、文LABOの松村瞳です。

小説「羅生門」のまとめと同時に、芥川龍之介という小説家が描きたかった人間の姿という物に焦点を合わせて解説いたします。

人の心には善と悪が同等にある、不安定な存在である。

【下人の心の移り変わり】

思考は現実化する、という有名な言葉がありますが、下人はそれを体現しているような男です。

盗人になるより仕方がないと考えていたことが、紆余曲折を経て現実になってしまう。その現実化してしまった時間は、たった数時間です。

けれど、その前の時間。つまり、羅生門に辿り着く前に、下人はずっとこの考えを頭の中で繰り返していました。

ですが、

羅生門の下⇒盗人にはなりたくない。けれど、生き延びるためには仕方がないのか。

とあいまいに思っていた心が、

羅生門の上で老婆の悪行を見た瞬間⇒悪は絶対に許せない、正義の心。盗人になるなどと、もう絶対に思わない。飢え死にしても構わないとまで、思う。

と、正義に強くふれます。けれど、その極端な気持ちが、相手を支配しているという優越感を抱いた瞬間に、また逆の方向に極端に動きます。

老婆の言い訳を聞いた瞬間⇒自己正当化。生き延びるためには、何をしても仕方がないこと。何をしても、許されるという考えに至る。

この、とんでもない考え方は、時間にして数時間。いいえ、一瞬で起こっているといっても過言ではありません。

【善が出てくる場合と悪が出てくる場合】

この心の移り変わり。真逆とも言える考え方に下人が到達してしまったのは、下人が極悪人だからでしょうか?

小説家・芥川龍之介の答えは、明確に違います。

下人をとても普通の人として彼は描いています。

天災が重なり、タイミングの不幸で職すら見放され、無職の宿なしとなってしまった。そして、どうすればいいのか分からずに、途方に暮れている。

最初から人を踏みつけにして生きていこうとしているわけではありません。あまつさえ、盗人にはなりたくないとまで語っている。けれども結果的に盗人になってしまった。

これは、普通の人間が起こしてしまったものだと、強烈に印象付けるために、下人をまともな人間として描いているのです。

老婆の悪行を見て、義憤に駆られ、絶対に悪は許してはならないと思いながらも、極端に振れてしまった心は、極端に変わりやすくなってしまう。そう、行動を起こしやすくなってしまうのです。

悪と善の境目は、くっきりとした三途の川のように区切られているものではありません。曖昧な、混ざり合っている状態の上に、私たちは立っている。そして、その時々で、悪の面が出てきたり、善の面が出てきたりする。

人間とは、そういうものなのだと、芥川龍之介は言いたいのです。

【普通の人が犯罪をする】

昨今、大きな犯罪を行った人物が捕まると、大抵、こんな声がその人を知る人物から聞こえてきます。

「そんなことをしそうな人には、見えなかった」
「あの人がそんなことするなんて、絶対にないと思っていた」
「凄く、良い人だったのに……」

良く、耳にする言葉だと思います。

けれど、犯罪のデータなどを正確な数字で見てみると、驚愕の事実が転がっています。

質問します。

あなたは、痴漢をする人って、どんな人となりを想像しますか?

どんな仕事をしていて、どんな学校を卒業していて、周りの人に対してどんな振舞いをしている人が、痴漢をしている人達だと思いますか? 常習犯は、どんな身なりをしていますか?

痴漢をする人は、独身で、一人暮らし。仕事はアルバイトのフリーターで、責任のある立場のある人ではなく、経済状態も悪く、学業成績も悪い人……という予想に、一つでもあなたの引っかかるものがあるのならば、それは現実と大きくかけ離れています。




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痴漢常習者の多くは、四年制大学、しかもかなり名の通った有名な大学を卒業していて、既婚、子持ち、エリートと評して構わないほどの有名企業に勤め、出世をしている、とても人当たりのいい人が、常習犯であることが多いそうです。

とても、そんなことをしなさそうにない人が、してしまう。

彼らの多くは、自分の中で自己正当化を行うそうです。

曰く、「今日は仕事を頑張ったから、ご褒美としてやっていい」とか、その他にも目を覆いたくなるような言い訳が続いています。

人は、本当に状況や環境によって、どうなってしまうか解らない存在なのです。

【君子危うきに近寄らず、の本当の意味】

孔子の言葉で、「君子、危うきに近寄らず」という言葉があります。

君子、徳の高い人は、危ない場所に自分を置いておくようなことはせず、常に危険な場所とは距離をとっているものだ、という言葉です。

この言葉を最初に知った時、私は「それって事無かれ主義なんじゃ……単に、危険なことから逃げているだけなんじゃないのかな?」と、少し君子のずるさを感じて、この言葉を好きにはなれませんでした。

けれど、「羅生門」を読み解くと、少しこの言葉の意味合いが違って受け取れるようになります。

人間とは、常に不安定な場所に立っているもの。

状況や環境の変化。感情の高ぶりや、義憤、憤り等の強い感情で、どんな間違いを犯してしまうか、解らない、とても危い存在であるという事を理解すると、孔子の言いたいことが解ってきます。

人間は、恐ろしいもの。どんなにやらないと思っていても、ころっと一瞬で考えを変えてしまう事もある。だからこそ、そんな不安定な状況に自分を置かず、常に冷静な状況で間違いを起こすような環境に自分を置かない、努力をする。

良い意味で、自分という存在を信じない。何をしでかしてしまうか、解らないと強く自分を戒め、危い環境に近寄らないようにする。間違いを犯して、自分も含め、周りも不幸にしないように努める、という意味であることが、解ります。

【危い場所から離れるには?】

人は、危険を冒す時には必ず、過信があります。

大丈夫、これぐらいは平気。

そう思っているから、危険を冒してしまう。不安定な状態に、自分を置いてしまう。

だからこそ、まず自分の中に獣が棲んでいることを自覚すること。そして、いつ何時、自分が間違いを犯してしまう可能性があると、常に意識をすることでしか、危い場所から距離を取る方法はありません。

自分は絶対に大丈夫。

その言葉の裏に、過信が潜んでいることを自覚しなさい。人は、誰でも悪の方向に簡単に転がってしまうのだ。普通の人ほど、転がりやすい。絶対に大丈夫。絶対にやらない!といっている人間の方が、あっさりと悪をなす可能性がある。

人は変わってしまうのだという事を、肝に銘じなさいと、龍之介はこの小説を通して言っているように思うのです。

気をつけなさい。悪は、すぐあなたの後ろに。いいえ、あなたの中に、潜んでいる。そして、あなたの隣にいる人も、いつ何時豹変するか、解らない。

私たちは、善と悪の境界線があいまいな世界に、棲んでいるのですから。

自分の隣で笑っている人間が、もしかしたら悪魔になり替わる可能性がある。

ちょっとした、ホラーです。けれど、それが現実。だからこそ、下人が陥った闇にとりこまれないよう、「君子危うきに近寄らず」「李下に冠を正さず」が必要になってくるのでしょう。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

 

 


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