水の東西、解説第5回目。
今回は、ラストまでの解説です。
文章的にはとても短く、またさらっと読めてしまうので、殆どの生徒は油断してテストを受け、「書けた!!」とテストを振り返り、テスト用紙が返ってきたときに、その点数の低さに驚愕するという、この「水の東西」
現代文が決定的に苦手になってしまう切っ掛けになる文章課題としても、とても有名なものなのですが、観念というもの。概念というものを理解するのにとても適している題材であり、更に高校生の国語のレベルを問われる、課題でもあるので、ゆっくりとその背景にある理論を読んでいきましょう。
では、続きです。
【第10段落】
見えない水と、目に見える水。(本文より)
-見えない水-
これは、解説その4で説明した、形而上と形而下の言い換えです。
(参照⇒水の東西 解説 その4)
見えない水は、「鹿おどし」です。その流れを一旦せき止め、リズムをつけ、そしてその水の流れの音と、一定のリズムで刻まれる竹の音も、水が流れているからこそ、です。
形而上は、目に見えない、精神的なものを指します。その精神性。自然は自然のままの姿が良い。動き続け、流れ続けているその感覚が、日本人は理屈ではなく、好きだと感じてしまう。
日本人は、自然は人間の意志で好き勝手に造型するものではなく、そのままの姿であるものなのだという精神性を持っているということ。
それには、自然に対する畏怖、というものも存在します。自然は逆らってはいけない。そんな、恐れとも畏怖ともつかない感覚が、私達日本人の根底には備わっている。
自然に神が宿ると、何となく信じられてしまうのは、地震や台風。その他の自然災害に見舞われることが多い土地柄独特の感覚なのでしょう。
人間は、自分の理解の及ばないものを恐れます。けれども、豊かな自然の恩恵も同時に私たちは受けている。だからこそ、身近に感じはするし、傍になくてはならないものだけれども、敬い、頭を垂れる存在である。好きかってしては罰が当たる。そんな言葉が当たり前のように現代でもかわされているのが、私達。日本と言う国の特徴なのです。
-目に見える水-
そして、目に見える水とは、西洋の考え方です。
噴水で、噴き上げる水が形作るその様を楽しみ、絵画のように見て、楽しむ。それを美しいと思う。
西洋の基本的な思想は、キリスト教的な考え方が影響を及ぼしています。キリスト教の聖典である聖書。特に、旧約聖書の創世記では、全知全能の神は自分の姿に似せて人を造り、そして人の為に自然を造った、と書かれています。なので、西洋人にとって、自然は神が人間の為に造り上げたものであるという感覚が強い。
更に、これに自然災害に見舞われにくい土地柄が影響を及ぼします。地震も無く、台風も滅多にない。もちろん、冬は厳しいし、嵐はやってきますが、何もかもが瓦解してしまうような大きな災害は、滅多に西洋の大地を襲うことは有りません。
だからこそ、自然を造型の対象として形作ることを、西洋は好んだのでしょう。神が与えたもうものだからこそ、素材としてその存在を楽しむことが出来る。
-観念に上下は無い-
この二つの考え方は、どちらが正しい。どちらが間違っている、というようなことを語るものではありません。
どうしても「正しいのはどっち?」と考えてしまいがちなのですが、そうではなく、どちらも正しいのです。
分析は、ただの分析であり、良い、悪いを判定するものではない。ただ、そのような考え方をしている。という事実を明らかにするだけの作業です。
だからこそ、水をどのように庭で楽しんでいるか、という事象から、東と西。日本と西洋の、自然に対する考え方や、受け取り方を筆者は分析しているだけに過ぎない。
評論文は、この「違う」ということを認識することが、目的なのです。
裁判官にならない様にしてくださいね。
【第11段落】
-日本人の水の楽しみ方-
もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのに、もはや水を見る必要さえないと言える。(本文より)
私達日本人にとって、水とは流れるものであり、その姿を楽しむのではなく、流れている感覚そのものを好むのだとしたら、見る必要も無いと、断言しています。
確かに、川のせせらぎや、雨の音。そんな水の流れる音をきくだけで、夏は清涼感を覚えますし、癒される感覚は伝わってきます。
流れの音をきくだけで、頭の中で水が流れている姿を思い描き、そして精神的に癒される。見えないことが、より、その流れを強く感じさせ、楽しませる。
そんな精神的な、感覚的な楽しみ方を、私たちは持っているというのです。確かに、造型をした水も美しいですが、絶対に必要かと言われれば、「まぁ、あればいいよね」ぐらいの感覚ですよね。「絶対に必要!!」とは、思わない。(個人差はあるとおもいますが……)けれど、日本庭園には、必ず鹿おどしってあります。
囁かな音。注意して聴かないと、気付けないぐらい、囁かな音の筈なのに、日本人は反応してしまう。それは、もうそれこそ遺伝子レベルでそれが好きだとインプットされているのでしょう。それが私達の伝統であり、風習であり、好む姿なのだと。
-心で味わう、とは-
ただ断続する音の響きを聞いて、その間隙に流れるものを間接に心で味わえばよい。そう考えればあの「鹿おどし」は、日本人が水を鑑賞する行為の極致を表す仕掛けだと言えるかもしれない。(本文より)
間接的に味わう。直接目で見るのではなく、見えないからこそ、それを想像し、それを埋めることでより深くその存在を味わうことが出来る。
これを読むたびに、日本人って変態だなぁ……と思うのです。自分も含めて(笑)
つまり、どう言う事かと言うと、想像力を湧き上がらせるものに私たちは惹かれ、謎があるからこそ惹かれ、その見えない部分を各個人の脳内で補完する、というこの行為。
別段、現代に始まったことじゃなく、昔から日本人ってそうなんですよね。
兼好法師が書いている「徒然草」の「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」という段でも、同じことを述べています。
「桜の花は、満開だけを見るものなのだろうか。曇りも欠けも全く無い、満月だけが、鑑賞の対象なのだろうか。いや、そうではない。まだ咲いていない桜を待ち遠しいと思ったり、雲に隠れている月の姿を請い願い、想像する所に美というものは存在する」と、鎌倉時代から言っているんですよね。想像で補うところに、優美な心が存在するって。
自然は人間の思い通りにならない。ならないものだからこそ、「こうあってほしい」と願い、叶わないことに、必死に人は想像して、心で楽しむ。
そんな、見えないもどかしさや、目を封じられたからこそ、その他の五感をフル活用して、その存在を味わおうとする。その姿や態度が、優美なるものなのだと。
見れないから、見たいんだったら想像力をフル活用してね!ってこと。
いやぁ、変態だなぁ……
だってそうですよね。見えるものよりも、見えないもののほうが、私たちは好むように出来ているんですもの。逆に言うのならば、全部見えるものには、そんなに惹かれない。
桜も、早く散っちゃうし、一年に数日間しか見られないから、あれだけ日本人の気持ちを惹きつける。年中咲いている花だったら、こんなに花見は賑わっていません。
散る姿を見て、とどまってほしいと願う。時よ、止まってくれと願うけど、そう願えば願う程、花は風に散って流れていき、時間が止まらないものだと言う事を、強く実感する。
つまり、固定された、変わらないものには私たちは強烈には惹かれないわけです。
そうやって考えると、「鹿おどし」って見た目はほんとに地味です。けれど、あれの見た目が地味なのは、目で楽しむものではないからです。音で感じ、水の流れの気配を、感覚で楽しむもの。
理屈では無いんですね。特に自然物に対しては、この感覚がとても強い。それが日本人の感性で有り、感覚である。
西洋とは全く違う感覚を、私たちは持っているのだと。
筆者が述べたい事実は、この違いを知ってほしいということ。私達日本人がそういう性質。感覚を持っていることを、文章に書き表したのです。
見えないものに惹かれてしまう、この性質。
何か、自分でひとつ具体例を見つけてみてください。
見えないけど、その気配を感じて、満足するもの。良いなぁ、と思うものです。
今日はここまで。
明日はまとめです。
ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。
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