「ファンタジー・ワールドの誕生」解説その7。
段々と筆者の言いたいことが解ってきたと思います。
【第8段落まとめ】
評論家の凄いところは、何気ない行動の裏にある人間の意識や、何が原因でこの行動を行っているのかを、的確に示してくれることです。
普段の生活なら見過ごしてしまうような小さなことでも、評論家にとっては気になることなんです。
それを私たちに伝えくれている。未開文化という、もはや存在しないものを延命させ続けているのは、自分達の優位性を存分に味わいたい西欧人の願望が原因であり、もはや幻想でしかないけれども、恐らくこれは消える事がない、と言うことも合わせて語っています。
それはそうですよね。
だって、気分が良いものは人が群がるし、この市場社会で、良く売れるもの。稼げるものは、皆が群がります。だからこそ、この世のどこにも存在しないはずの「ファンタジー・ワールド」は誕生し続け、発見され続け、「未開文化」は創られ続ける。
彼らの、「自分達は優れているんだ!」という優位性を確保するために。それだけの為に、生産され続けるのです。
さて、残り少なくなってきましたが、続きを見ていきましょう。
【第9段落】
植民地主義を起点に、人類学、観光というかたちで受け継がれてきた西欧世界のプリミティヴなものへの認識の変遷を透視することで、帝国主義的な想像力が現代まで引きずっている一つの大きなディスクールの流れが見えてくる。(本文より)
ここまでくると、この文章もそこまで難しい言い回しには感じくなってきます。
-植民地主義とは-
植民地主義。つまり、他者を虐げ、自由意志を奪い、権力で従わせようとする。自分の力をどこまでも拡大していこうとする考え方が起点となり、自分達はあくまで支配者であり、未開人たちは支配されて然るべきなんだという考え方が、人類学⇒観光という形で受け継がれてきた。
己は優れている。優越感を覚えたい。ただ、それだけの考えが、どのように形を変え、おもてに現れてきたのか。それを追いかけていくと、帝国主義が引きずっている一つのディスクール。言説が見えてくると言うのです。
言説とは、ものを言ったり、説明したりすること。
帝国主義が引きずっている、一つの物言い。つまり、ずっと説明し続けていることって、何でしょうか。
-帝国主義とは何か-
帝国主義とは、飽くことなく自国の領土・勢力範囲を広げようとする侵略的傾向のこと。また経済上、国際市場を独占しようとする、資本主義の最終的段階。
要するに、自分が一番。常に自分が一位であり、他は自分に従うべきである、というあくなき支配精神であるということです。
分かりやすいイメージで説明すると、帝国主義=ジャイアンだと思うと、分かりやすいかも。お前のものは、俺のもの。俺のものは俺のもの。が帝国主義です。
つまり、「君たちはまだ私たち、西欧人に追いつけていない「未開文化」なのだから、我々が指導し、導いてあげなければならない。だから、支配下に入りなさい」ということ。
あくまで、西欧人が世界をリードする立場であり、それ以外は従うべき存在であるという意識。これが、引きずってきた言説です。
その考えの中で産み出されたのが、「人類学」と「観光」は産み落とされた。両方とも、西欧人の優越さを保証するための。感じられるものとして、発達しているのです。
だからこそ、同じ考えから産み出された、一卵性双生児だと、筆者は言っています。学問の分野と娯楽。一見、全く縁がなさそうな二つなのに、その実それらを産み出した思想は、同じところから生まれていた。だからこそ、持てあました権力欲がゆがんだ形でおもてに出たのが、「人類学」と「観光」なわけです。
【第10段落】
だが、オルークのなげかけるメッセージは、もう少し微視的なかたちで現代の「旅」あるいは「観光」というものの特異な姿を描き出してもいる。(本文より)
植民地主義的な思想の表れとして、「観光」が産み出されたけれど、オクールのメッセージはそれだけにとどまりません。
微視的とは、顕微鏡で識別できるほど小さな対象を扱うこと。ミクロです。
もっと細かい部分を指摘している、と言うのですね。
-観光に求める差異は差異ではない-
現代において「旅」は場所のあいだに横たわる文化的「差異」の存在を一つの前提条件として行われている、という事実についてだ。観光客の行動が示しているように、彼らはジャングルの奥地でなにかえたいの知れない未知のものに出あうことを期待してやってきたのではけっしてない。(本文より)
はい。「観光」の根幹に問いかける問題提起です。
「観光」は知らないものを知るためにその場所を訪れているわけではない。
へっ?? って思いますよね。いや、知らないし。行ったこともないんだから、知っているわけないし……と思うかもしれませんが、この情報社会である現代。
本当に貴方は、全く何も情報がない場所に行こうとするでしょうか?
ディズニーランドや、USJも、今何をやっているのか。どのようにまわれば効率よく回れるのか。何が売っているのか。何を体験できるのか。
その情報をある程度知っているところに、「行きたい!!」って思うのではないですか?
-既に知っているからこそ、その場所に行きたくなる-
その土地も地勢も、風土も、人間たちの暮らしも、あらゆるメディアの情報とともに、すでに彼らの想像力のなかに書き込まれてしまっている。彼らは、出発する前にすでにつくりあげられている安定した「差異」の感覚を現地での観察や体験の指標としながら、その「差異」を証明するさまざまな記憶や証拠を発見しようとする。(本文より)
要するに、「観光」って、大概テレビや雑誌で宣伝されますよね。「そうだ、京都にいこう」とかも、そう。
既に映像で知っている清水寺や鹿苑寺金閣堂、慈照寺銀閣堂を訪れようとする。(日本史選択者は、正式名称でおぼえましょうね)
そう。「知らない場所」になんか、観光で行かないんです。ちゃんと、知っているんです、私たち。何かしらの情報をちゃんと持っている。そして、それが西欧プリミティヴィズムの中に入ると、自分達との「差異」まで、入ってくる。
だからこそ、その「差異」を証明する、証拠品が欲しくなるんです。
-写真や民芸品は「差異」の具現物-
写真や民芸品といったものは、まさにそうした発見の記録や証拠品として持ち帰られるものなのであり、だからこそ、それらは観光客にとってなによりも不可欠な関心事となるのである。(本文より)
未開文化の「観光」は、自分達との「差異」を体験し、優越感を得られる絶好の機会です。
「ほらっ、こんなに私たちと違うのよ!」
その写真を見せるのは、誰にでしょうか。もちろん、被写体として撮られた現地人に見せる事はありません。
写真を見せるのは、西欧人が自分達の国に帰って、同じ先進国の文化で生まれ、育った人たちにです。その「差異」を感じて、楽しみ、共感を得てくれる人たちに見せます。
民芸品もそう。
「ほらっ、これこんな安かったんだよ!!」
と値段を必ず付けるでしょう。そして、これだけ値切ったんだと、自慢するでしょう。安くなればなるだけ、自分達の国の通貨が強い。下げてでも、彼らは売りたい。それぐらい、自分達の国の通貨は、とても国際的に力を持っているのだからと、御満悦になりたいのです。
だから、いい気分に浸るためには、証拠がないと駄目ですよね。
持って帰って、その優越感を一緒に共感してくれる人たちに見せるためのものが、必要。
だからこそ、彼らは「観光」に行くわけです。
この前、パプアニューギニアに行って来てさぁ……と、相手に話し、写真をみせ、お土産で勝ったものを見せる。
これらの行為は全て、「ほらっ、こんなに彼らと私たちは違うんだよ。私たちって、なんて優れているんだろう。なんて、素晴らしいんだろう」ということに、繋がっていく行為だと、筆者は指摘しています。
西欧人、と他人事で考えては居られません。私たちも、旅行から帰ったら、必ず話を誰かにしませんか?
もう知っているはずの場所にわざわざ行くのは、その証拠品をとってくるためなのです。
「差異」を確かめ、証拠をつかみ、自分達の優位性を感じるための材料にするために、それらは必要だと。
だからこそ、常にファンタジー・ワールドは誕生し続けなければならないし、この流れは恐らく止まらないでしょう。発展途上国には、近代化なんかしてもらっては困るのです。自分達と肩を並べられては、いけないのです。
だって、同等になったら、優越感なんかかんじられないから。
決して、彼らは同等だとは認めないでしょう。彼らの文化を「未開文化」と決めつけ、原始的な生活をし続けているのだと決めつけ、自分達が観光で使う施設の近代的な建築技術は、矛盾を生じるので一切無視をする。
そんな、我儘な西欧人の意識が、「観光」旅行に見えるねと、最後はくくられています。
今日はここまで。
明日は、「ファンタジー・ワールドの誕生」のまとめです。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
つづきのまとめはこちら⇒ファンタジー・ワールドの誕生 解説その8 まとめ
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