身体、この遠きもの 解説その2(解説 その1)
【前回のまとめ】
-物質としての身体は異質なもの-
身体って、自分の身近な存在であり、思いのままに動かせる存在だし、馴染んでいるものの筈なのですが、実は物体として扱った場合。
とてつもなく、異質な存在となります。
だって、
・交換出来ない。
・調子の良い時は、その存在感が無い。
・調子の悪い時に、存在感が増してくる。
(普段は頭の裏側なんて何も感じないのに、頭痛の時は頭蓋骨の形すらはっきり意識出来る、など)
という、日々の当たり前にスポットを当ててくれるこの評論文。
-違和感なしと違和感あり-
調子の良い時には、違和感がない。
つまり、何の障害も無く使える。ここは、普通の物体とも同じ部分なのですが、大事なのは、調子が良ければ良いほど、その存在感が無くなっていくことです。
これがとてつもなく、異質な部分なのです。
そして、調子が悪くなると、違和感をだし、その存在感を一気に増してくる。
さらにはその不調が、私たちの精神的な部分にも影響を多大に与える、とまで筆者は語っています。
けど、調子悪い時って、勉強しても全く頭に入らないんですよね。
だから、成績良くしたいなら、常に身体の調子を整えて、集中力が働く状態ってのを保持しておくと、余計なことに気を取られないから良いのかもしれません。成績良い子って、大概身体も強かったりするので。
(運動部の子が一気に短期間で成績上げてくるのも、ここにポイントがあったりする。参照⇒自分に優しくなろう 新学期に向けての3つの心構え)
身体は、違和感を訴えてくるとき、その存在感を増し、更には私たちの考えや記憶、意識にバイアス。偏りをかけてくる働きがあります。
失敗した時とか、身体が上手く動かなかった時に、「ああっ……」って落ち込んじゃうこと、ありませんか?
本来は、単なる疲労だったり、ただ経験が足りなくて上手くいかないだけだったりするのに、苦手意識を持ったりしてしまうことが多くある。
身体の経験って、かなり意識に影響を及ぼしているんです。しかも、良い時よりも悪い時の感覚の方が残りやすい。良い感覚は違和感が無いので、意識に引っかからないから残りにくい。
そんな性質を私たちの肉体は持っているのです。
では更に違う視点から、身近であるはずの身体のおかしなところ。異質な部分を探っていきましょう。
【第4~5段落】
-身体の奇妙な現れ方-
あるときは、わたしたちの行為を支えながらわたしたちの視野からは消え、あるときは、わたしたちがなそうとしている行為を押しとどめようとわたしたちの前に立ちはだかる、こうした身体の奇妙な現れ方は、さらに別の局面でも見いだされる。(本文より)
上手くいく時は、身体は私たちを支えてくれている。なのに、視野から消える。つまり、気付くような違和感がなくなり、透明になる。その感触を無くしていく。
けれど、不調の時は、行為を押しとどめる。まるで邪魔をするように立ちはだかってくる。つまり、思い通りにならない。違和感だけが募っていく。不透明に、重く、ずっしりとのしかかってくる。
そんな奇妙な対比が、違う場面でも身体は出てくるのです。
それは、「持っている」「所有」の感覚で考える時に、現れてきます。
-所有する=意のままにあやつれる?-
なにかを所有するというのは、なにかをじぶんのものとして、意のままにできるということである。そのとき身体は、ものを捕る、つかむ、持つというかたちで、所有という行為の媒体として働いている。(本文より)
所有物。
例えば、いまこれを観ている媒体は、スマホかパソコン、タブレットだと思うのですが、自分の思い通りに操れますよね。(一部、使い方が解らない、という人もいるかと思いますが、でも所有しているものって、基本どう扱おうが自由です。)
バックや靴、服、文房具、制服、教科書、何でも良い。
自分の意志で、自由に扱えるはずです。
けれど、私たちは自分の身体をちゃんと「持っているはず」なのに、意のままに動かせないんです。
-意のままにあやつれないわたしたちの身体-
つまり身体は、わたしが随意に使用しうる「器官」である。が、その身体をわたしは自由にすることができない。(本文より)
これを読むと、
「えっ? 身体は自由に動かせるよ?」と思う人が出てくると思います。
けれど、じゃあ、心臓を止められますか?
肺の中で行われている、酸素と二酸化炭素の交換。自分の好きに止められますか?
もっと言うのならば、風邪やインフルエンザに罹ったときなんか、「明日までに治れ!!」と思って、思い通りに回復しますか?
それに、ワールドカップに出るくらいにサッカーが上手くなりたいと思っても、すぐさま思い描いたとおり、身体は動きますか? 動かないですよね。
と、言うことは、確かにわたしたちは身体を所有しているはずなのに、スマホの電源を入れたり切ったり出来るように、身体の内臓の器官を自由に動かしたり、止めたり。自由に眠ったり起きたり、自分でコントロールできるかと言うと……出来ないんですよね。これがまた。
-身体と身体一般の違い-
こういう「神秘」は身体一般のなかには見いだされない。(本文より)
「神秘」とは、人間には理解できない、神様や天地の秘密のことです。
論理や理論では、理解できないこと。
つまり、私たちの身体は確かに私たち自身が所有している「もの」「物体」で有るはずなのに、自分の思い通りには出来ない。いきなり病気になることを止めるる事も出来ないし、それによって死を迎えることを意志で拒んでも、どうしようも出来ない。
身体一般というのは医学研究者にとっては存在しても、ひとりひとりの個人には存在しない。身体はわたしたちにとっていつも「だれかの身体」なのだ。(本文より)
医学研究者が見ているのは、常に「他者の身体」です。
自分身体からは切り離されている。だから、患者が感じている痛みなどは、全く襲ってきません。(襲ってきたら、手術なんか出来ないですよね)
有る意味、医者って人の身体を一番、物質的に見ている職業なのかもしれない。
身体一般=医学者が見ている、「他者」の身体の総称。
身体=ひとりひとりの「誰か」。個人が所有している、唯一無二の身体のこと。
そう筆者は言葉の意味を使い分けています。
痛みひとつをとっても、それはつねにわたしの痛みであって、その痛みをだれか任意の他人に代わってもらうなどということはありえない。(本文より)
良く、「解るよ、その痛み……」という言葉が小説やドラマなどで見かける時があるのですが、実はそれって、単なる勘違いや、そう思いこみたいだけだったりするんですよね。
わたしたちの肉体は、別個に区切られていて、その人が感じている苦しみや痛みは、本当にその人しか感じられない。同じものでは、絶対にない。
代わってもらうことは、出来ない。
所有しているもの、のはずなのに、思い通りに動かす事も出来ず、何かに代わってもらう事も出来ない。
スマホが壊れたら、買いかえればいい。そんな風に、私たちの身体は扱えないのです。物質として、所有されている「もの」の特徴としては、かなり特殊です。
-極端に可塑的なわたしたちの身体-
人称としてのわたしと身体との関係は、対立や齟齬といった乖離状態にあるときもあれば、一方が他方に密着したり埋没したりするときもあるというふうに、どうも極端に可塑的なものであるらしい。(本文より)
乖離状態とは、そむき、離れること。つまり、ぎくしゃくしている事。
これは、違和感や不透明などの言葉と同じです。
上手く体が動かせない。痛くて駄目だ。自分の意志で動かせない。治せない。それに対していらついたり、自己嫌悪に陥ったりする時もある。
なのに、
調子がいい時は全てが思い通りに動いていく時がある。
透明、密着、埋没。違和感が全くない状態のこと。
同じ身体であるはずなのに、こんなに違う状態があるのは、なんなのか。
身体って、そうとう不思議です。
このことを、筆者は力が外側から掛かることで、簡単に形が変わってしまう性質。可塑性をあげ、可塑的な存在である、としています。
脳もそうですが、人の身体って可塑性だらけですよね。精神も含めて。
(参照⇒脳の無限大の可能性を説いた、評論文「可能無限 解説 その1」)
【今日のまとめ】
-誰もが持っているけど、唯一無二の存在である「わたしの身体」-
当たり前のように、毎日使っている私たちの身体。
自由に使えていると思い込んでいますが、その実。何一つ自由にならない時がある。
そんな可塑性に富んだ、不可思議な、奇妙な存在であるという認識が、私たちには薄い。更には、その可塑性が人間にもたらす影響は、バイアスをかけるものであると言うこと。
そして、身体の齎す感覚は、わたしそのものである。つまり、身体の感覚が「わたし」という存在を示すものになってしまい、経験と存在を切り離して考えることが難しくなってしまいます。
あなたが走るのが苦手だったとして。
経験は、ああ、あんな事もあったなぁ。遅かったなぁ、と思えること。
存在は、自分は足が遅い人間なのだと、思い込んでしまうこと。
この二つには、大きな違いがあるのですが、区別して考えるのは非常に難しいものになってしまいます。
明日は、この部分の具体例の解説です。
続きはまた明日。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
続きはこちら⇒身体、この遠きもの 解説その3
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