古典を勉強するコツ 古典嫌い克服方法その5 兼好法師ってどんな人?


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古典嫌い克服方法その5

今回は生徒にも比較的人気が高い、兼好法師です。

どうして好きなのか。きいてみると、「解りやすいから」「参考になるから」「面白いから」と明確な答が返ってきます。やっぱり、解るもの=面白いな、と感じることが多いのでしょうね。解らないものは、面白いとも感じない。感じることが出来ない。なら、知ればいいだけです。

そう言えば、古典が得意になった生徒は、以前ひたすら清少納言の書いている内容に文句を言い、兼好法師の文章が心地いいと話していました。清少納言は、上から目線の偉そうな文章が嫌いで、自分の知識を見せびらかしている感じが嫌いで仕方がない、と(笑)(そんな清少納言もね、宮中の生活で舐められないように必死に頑張っていたんだよ、という見解は高校生男子には難しかったらしいです(笑))

そんな生徒に受け止められやすい兼好さんの人生を、ちょっと振り返ってみましょう。三大随筆の筆者の中では、一番前向きで、ポジティブで、明るく、論旨も明快だったりします。

解りやすい話って、それだけで興味を持てるから兼好法師は基本的に話上手。

【兼好法師とは?】

三大随筆、最後の作者である兼好法師。

本名は卜部兼好(うらべのかねよし)。

その本名を、出家してから読み方を変えます。出家する、というのは、俗世を捨てて仏の世界に入ることなので、卜部兼好という人は一旦死んだ、という意味合いで名前を変えたのでしょう。

そんな兼好さんがどんな人生を生きたのか。

生きた時代は?

兼好さんが生きた時代は、鎌倉時代中期から後期。詳細は解っていませんが、仕えた人々の年代から考えると、ちょうど元寇が終わったあたりに生まれ、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政、南北朝時代に生きたことになります。

結構激動の時代ですね。

方丈記の鴨長明も、平安末期から鎌倉時代創生の動乱期でしたが、兼好さんも同じ様に価値感がひっくり返る時代に生きていました。

あれほど強靭だと思っていた鎌倉幕府が瓦解し、隠岐に流された後醍醐天皇が復活し、政治の中心が鎌倉ではなく、京の都に戻ってくる。
けれど、貴族に権力が戻ってくるのかと思ったら、やっぱり武士中心の世界になっていく、という安定とは程遠い時代です。

なら、方丈記のように、「安定したものなんか、何にもないんだ……」と溜め息が深い文章になるかと言うと、何故か兼好さんはそうならない。

さて、彼はどんな文章を書くようになっていったのか。

家柄も良く、才能にあふれた青年時代

さて。ここがとても面白いのですが、鴨長明が神職の家柄であったように、兼好法師もまた、吉田神社の神職の家系に生まれおちます。

つまり、時代は違えど、恐らく鴨長明と兼好法師は似たような環境、教育を受けた人、ともとらえることが出来るわけです。

鴨長明は神職になることを望み、なれなかった人ですが、兼好さんは何故か神職になるような気持ちは無かったらしく、さっさと20歳ぐらいには宮中の役人になってしまいます。最高の官位は従五位下。なんのこっちゃら解らない、という人もいるかと思いますが、従五位、と言うのは殿上人になれるかなれないかの境目です。天皇に直接会える身分、と言えば解りやすいでしょうか。平安時代だったら、100人前後しかなれない、エリート中のエリートの身分です。今だったら、国家公務員試験第一種合格、ぐらいの価値かな。

更には宮中の中での価値感ではありますが、従五位は、将軍の地位でもあります。そう。鎌倉幕府や室町、江戸の将軍たちの貴族的序列の場所です。

如何に高い地位か。エリートだったかがちょっと解るかな。

ところが、兼好さんはこの将来が約束された地位を、「自分から」放り捨てます。

(本当にここらへんが鴨長明と同時代じゃなくて良かったなと思うんですよね……)

仕えていた後二条天皇の崩御とともに出家

兼好さんが仕えていたのは、後二条天皇。

鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政をおこなった後醍醐天皇の異母兄です。 この天皇は、とても若い、24歳で崩御しています。南北朝の動乱の中、宮中の中でも権力闘争が絶えず、また鎌倉方との駆け引きも多かった宮中で、胸を痛めていた様子は、様々な文献に残っているのですが、その様子を間近で見ていた卜部兼好は、争いごとに嫌気がさしたのか。それとも、自分が宮中に居ることで、 争いが激化すると思ったのか。

当時、皇太子を誰にするかで権力の移譲が問題視され、後二条天皇はそれらに巻き込まれたが故の死と噂されているので、宮中の中でも次代の天皇を誰にするのか。どちらの派閥に付くのかが、日常のように語られていたはずです。

それらに嫌気がさしたのは、権力の中枢に居ることが嫌になったのか。通常はそう取られていますが、何故出家したのか。具体的なことは何一つ解っていません。

むしろ、徒然草を読んでいると、こういうの好きそうなんですけどね……兼好さん。

30代から40代は歌人として活躍? あやしい行動満載な中年期。

出家してからの兼好さんは、京の比叡山近くに隠居して、仏道修行と和歌の修行に明けくれた、となっています。

ええ、自分でそう書いていのですが……この時代、兼好さんの行動は謎がとっっても多い。




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別段、サボっていたとか、仏道修行と言いながら、全くお寺の中で修行していないじゃないかとか、そもそも的なツッコミも多いのですが、本当におかしいんです。この時期の兼好法師。

そもそも隠居生活でつつましく生きているはずなのに、結構あっちこっち行っているし、その旅費ってどこから出てるの??という疑問てんこ盛りなんです。

ラブレターの代筆?? 室町幕府の権力者たちとの交流

卜部兼好は、天皇に仕えた役人です。

この時期。兼好さんは、自分では「仏道修行頑張ってましたー」と書いてますが、他の文献に名前がちらほら出てくるんですよね。

特に注目したいのが、高師直(こうのもろなお)。

この人自体は知らなくとも、この人の主人は絶対に知っています。そう。室町幕府の立役者。足利尊氏です。高師直は、その尊氏の側近中の側近。

そう。ここで、「あれ?」と思ってほしい。

兼好さんは、天皇側。貴族側の立場だったはず。

でも、交流があったのは、幕府。つまり、武士側の人間達です。友達ならば、別に問題ないじゃないか、と思うかもしれませんが、権力闘争が嫌で出家した人間が、わざわざ火種の中心の人物と懇意にする意味が分かりません。はい。

ここで、交流のあった高師直の話に戻ります。

高師直も実力者で能力血が高い人だったんですが、歴史に語り継がれるような欠点がありました。それは、異常なほどに女好きであったこと。

歴史人物の黒歴史としては、まぁ、別に珍しくもない話ですが、(伊藤博文とか、江戸時代の将軍様とかいろいろ、ね……)高師直はそれ以外にも結構な悪行をしている人物でして……
権力があると思って、本当に好き放題。挙句の果てに、当時、尊敬の対象でもあった寺社仏閣を焼き払う、なんていう悪行もしております……寺を焼くのって、織田信長だと思っていた人も多いでしょうが、前例はしっかりあったんですよね。。。

そんなとんでも人物と交流があった兼好さん。法師がお寺を焼く人と交流って……とちょっと思ってしまいますよね。

更に、何で交流していたのか、というと、女大好き高師直さんが、ある武将の妻に横恋慕して、何とかモノにしたいと考え、ラブレターの代筆を兼好法師に頼んだと言うくだりが出てくるんです……

もう、どこからどう突っ込んでいいのやら、なエピソードなんですが、これ史実なんですよね。うん……
というか、坊さんが俗世の色恋沙汰の、しかも不義密通の手助けするってどういうことなの???という倫理観崩壊気味のエピソードなんですが、こんな感じで兼好さん。

出家しても、幕府関係者とのつながりが沢山確認されていて、鎌倉にも何度も旅行に行っている記述が残っています。

もしかして幕府の密偵として、諸国を回っていたのでは……?という話があるぐらい、結構きな臭い。謎が多い。そして、恐らく女好き……(って言って良いのかな(笑))

仏道修行どこ行った、と思わず言いたくなる人生ですが、そんなこんなで「和歌の修行してたよ!!」という本人談の横川時代が終わり、晩年は仁和寺の近くに引っ越しします。

50代を目前に、徒然草を執筆

そして、ここら辺から徒然草の執筆を開始。

と言うよりも、短くまとめられた文章の数々は、長年かけて書かれていたもので、冒頭がこの時期に書かれ、徒然草として世に出たのでは? と考えられています。(諸説あり)

兼好さんの面白いところは、高位の人物に対してのツッコミどころや、おかしいことはおかしいよね、ときっぱりと言い切る切り口の鋭さです。

けれど、仁和寺の法師に代表されるように、そのやり玉に挙がっているのは、同業他社の法師たち。これって本当に不思議です。

仏道の社会にかかわりがあるのならば、身内の恥をさらすような文章は本来、書けないはずです。(教師が学校組織の批判文章は大っぴらに出せない、など)

けれど、兼好さんはガンガン書いています。なんなら、代表作ぐらいの勢いで、教科書にも載っていますよね。

何故、これが出来たのか。

それは、出家した、と言いながらも、全く兼好さんが仏道関係の人々との交流をしていたわけではなく、むしろ政治色の強い人々との交流が多く、仏教、寺、寺社仏閣というものを、ある意味では外側から眺められたからこそ、書くことができた。

むしろ寺社仏閣から文句を言われても、痛くもかゆくもなかったのは、それだけ強力なパトロンがいたことを示しています。だから、容赦なく書くことが出来、それが多くの人に受け入れられた要因にもなったのでしょう。現在もそうですよね。

あれ? 和歌は??

そして、兼好さんの和歌なのですが、徒然草が有名すぎて、兼好法師の和歌、というとパッと思い浮かばない人が多いと思います。

一応、ちゃんと作っているので、ご紹介。

「さわらびの もゆる山辺を きて見れば  消えし煙の 跡ぞかなしき」

意味は、若芽をだした早蕨を見ると、どうしても亡くなった人のことを思い出して、悲しさが自然と心に湧きあがってくる、とうたったものです。

生命の誕生を見た瞬間に、その終わりを連想し、亡くなってしまった人々の思い出すなと、「女官」に、この和歌を送っている兼好法師。

この時代って、男女の友達って感覚あったのかなぁ? 身分も大体一緒だし、元同僚だし、仕事仲間って言うよりも、「元カノ」だったのかなぁ? とか、ちょっと考えてしまう和歌ですよね。

内容は非常に前向きでポジティブ

と、そんなこんなな兼好法師の人生を見てきましたが、兼好法師の文章はひたすら明るく、明朗で物事の捉え方がはっきりしています。

当時の権力者や社会的に高い身分。特に、仏教関係者に対する容赦ない批判的な文章は、現代の無駄に偉ぶっている人々に対しての反発に転換可能な内容なので、生徒にも読みやすいし、また、読みたい、という気持ちになるのは、そこで共感が出来るからなのでしょう。

けれど、徒然草を通して主旨が一貫していない部分があったり、真逆なことを書いてある部分もあったりするので、ちゃんと読み解くことも必要となります。

ただ、共通してある観念は、「有職故実」

つまり、「あふあ、昔は良かったなぁ……」という感覚です。

この兼好さんが言う「昔」は、「平安時代」のこと。平安時代の行事や法令はとても優美で、雅で、心に染みいるものが多い。けれど、現代のものは軽薄で、薄っぺらで、何にも心に響かない、ということを良く書いてあります。

なんとなーく、「近頃の若者はっ……」と溜め息吐いている姿が見えますよね。


無常のとらえ方の違い

そして、重要なのは、鴨長明と兼好法師の「無常感」への受け止め方の違いです。

鴨長明は、「無常感」=安定したものなど、何一つない。=そんな世の中で生きなければならない人間と言う存在は、なんと悲しいものなのか。

という、永遠などどこにもないことへの絶望と嘆息。諦めのような感情を持って受け止めているのに対し、兼好法師は全く真逆に無常感を受け止めています。

兼好法師の無常感は、「無常」=常に変化している=なんと面白いことか!!と受け止めているのです。

変化出来る。それは、確かに悪いことにも繋がるかもしれないけれど、だからこそ成長もできるし、新しいことを知ることもできる。永遠に変わらない世界など、そんな世界に生きる意味などどこにある。変化があるからこそ、人は頑張ろうと思えるし、成長しよう、物を知ろうと思えるのだという、全く違う受け止め方をしています。

その感覚が、今まさに勉強で成長している生徒たちの心に響くのかな? と思いますよね。

【まとめ】

激動の時代を生きた、兼好法師。

権力の中枢から一旦身を引きますが、それは公の立場では自由に動けなかったが故であり、立場を捨てたことによって、実に自由に様々な人々と交流をしています。その中で、幕府の密偵めいた事も「面白そう」と、やってしまいそうな感覚をきっと持っていたのでしょう。

それは、「悟り」を絶対の価値観としていた寺の中に居ては、決して辿りつけない感覚だったのかもしれません。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

ぜひ、好きな作品を見つけて、現代語訳でも何でもいいので、読んでみてください。


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