文学の仕事 解説その2 目の前で苦しんでいる牛を助ける意味

文学の仕事

加藤周一さん著。「文学の仕事」解説、その2。

解説その1では、文学がなぜ必要なのかを解説しました。

文学は人生の目的を決めるために。それを言葉で明確に表せるようになるために、必要なものになります。

目的が決まってこそ、それを達成するために「どうすればいいのか」と人は考え、そして手段である技術を考えるようになります。「こうしたい!」という情熱が、人間の活動にはどうしても必要で、その情熱と知識、思考力、判断力がなければ、人は簡単に道を誤ってしまいます。

頭が良ければ、なんでもかなっていいなぁ~というのは、誰もが一度は思うものかもしれませんが、いわゆる偏差値が高い生徒たちは何に悩んでいるかと言うと「なりたいものがないんです……」という、びっくりするような悩みだったりします。

今までは、「こうしろ!!」と言われ続けてきたので、それをこなすことがある意味では「仕事」でしたが、では「自分は何をしたいの?」と問いかけられると、皆、フリーズしてしまうのです。

そんな生徒の姿を見ているがゆえに、加藤さんの「知的な行動が目的を与えてくれるわけではない」という論調は、納得してしまうんですね。やらなければならないことに追い立てられて、本当に自分が望んでいるのは何なのか。何が好きなのか。

そんなことすら、解らなくなってしまう。感じることが出来なくなってしまう生徒が、今とても多いことも、また事実なのです。

さて、では本文の続きを読んでみましょう。

今回から、例示の話になります。

3つ挙げられているのですが、今日はまず1つ目。漢文でおなじみ。孔子のエピソードとなります。

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【第4段落】

目の前の一頭を助けることの意味

孔子は重い荷物に苦しんでいる一頭の牛を見て、かわいそうに思って助けようと言った。すると弟子は中国にはたくさんの牛が荷物を背負って苦しんでいるのだから、一頭だけ助けたってしようがないのではないかという。(本文より)

孔子は、春秋戦国時代(今から約2500年前)の教育者です。

その教え子である弟子たちは3000人もいて、その中でも特出した才能に秀でた弟子たちのことを、七十子(しちじっし)と言います。その弟子たちとのエピソードです。

目の前に苦しんでいる牛がいて、孔子が「助けよう」と言ったけれど、弟子たちは疑問を素直に口にします。

「そんなことしたって、無駄じゃないですか?」と。

目の前の一頭を助けたって、すべての牛が助けられるわけじゃない。目の前の一頭を助けたって、すぐ死んでしまうかもしれないし、もう働けない、役に立たない牛かもしれない。だとしたら、そんなこと、利益にならないから無駄だと。

弟子たちの言い分は一見正しそうに思えます。

簡単にまとめてみると……

  • 目の前の一頭を助けるよりも牛全体を助けることを考えた方が良いのではないか。
  • 利益になることを自分たちはやるべきであり、この死にかけの牛が死んでしまったら、自分たちの努力が無駄になるのではないか。

そんな論理の意見です。

だとしたら、弟子たちの言い分は、言い換えるとこのようになります。

  • 全員を助けられる方法、手段を考えたい。
  • 努力が必ず報われる、利益に直結するものでなければ、やる意味がない。

現代でも、似たようなことは山ほどありますよね。

この弟子たちの言葉を、受験の合格=利益という公式に当てはめて言い換えると……

  • 全員が希望大学・高校・中学に受かるやり方をするべきだ。
  • 点数が確実に上がる方法のみ学び、受験に必要な科目以外、勉強する価値はない。

と言っていることになります。

いかに無茶なことを弟子たちが言っているのか、伝わるでしょうか。確かに「正しい」意見です。意見としては。でも、実現は可能でしょうか。これを言われて、「じゃあそれをやろう!!」という気になるでしょうか?

抽象論になってしまうと、一見正しそうに思えてしまうのが、論理的な意見の怖いところでもあります。だって、本当に「正しそう」に聞こえてしまいますから。

私の前を通っているから助ける

孔子は、しかしこの牛は私の前を通っているから哀れに思って助けるのだと答える。それは第一歩です。(本文より)

その弟子たちの主張に、孔先生の返答は、「可哀そうだと私が思ったから、助けるんだよ」という、単純なものでした。

さて、この弟子と先生である孔子の論調の違いは、何でしょうか。

一見すると、偉い先生であるはずの孔子の発言の方が、子どもっぽい、単純な理由に思えてくるかもしれませんし、弟子たちの論調の方が論理的な、いわゆる理性的な「大人の考え方」に思えてくるかもしれません。

生徒たちも、ここで「あれ?」と疑問を抱いてくれます。

可笑しいではないかと。孔子がこんな単純なことを言うはずがないじゃないかと。

その通りです。単純なことの方が、真理を表していることもあるのです。

孔子は言います。「これは、【第一歩】なのだ」と。

さて、この第一歩、とはどういう意味でしょうか。

【第5段落】

第一歩の意味

第一歩というのは、人生における価値を考えるためには、すでに出来上がった、社会的約束事として通用しているものから、まず自らを解放することです。(本文より)

解りやすいものから、解りづらいものに変わった瞬間は、要注意です。

此処をしっかり押さえると、全体が理解しやすくなります。

こういう、抽象的で理解し辛いものは、要旨をまず考えます。主語と述語を抜き出して考えてみる。余計なものをそぎ落とすんですね。

となると、「第一歩」=「人生の価値を考えるために、社会的約束事から自分を解放することである。」

ということになります。

社会的約束事とは、簡単に言ってしまえば常識です。

人生の価値は、その1で説明した通り、「自分が何をしたいのか」「願望」「欲望」「夢」ということ。

言い換えると、

「夢を考えるとき、常識的な考えからいったん離れて考える」ことが必要。

それが第一歩だと、孔子は言います。

普通の考え方から解放されるということ

たとえば牛に同情するのだったら、統計的に中国に何頭の牛がいて、それに対してどういう補助金を与えるとか動物虐待をやめるような法律を作るとかさまざまな方法でそれを救う必要がある。それは普通の考え方です。その普通の考え方から解放される必要があるのです。(本文より)

牛を助けたいのだったら、

  • まず何頭いるのか、調べる。
  • その牛たちがどんな状態で働かされているのか、調べる。
  • 牛たちの飼い主に、仕事を分散できる牛を買えるように補助金を出す。
  • 動物虐待をとめるためのNPO団体などを立ち上げて、啓蒙活動を推進する。

なんてことが考えられます。

この「牛」を「労働者」に置き換えて考えると、ちょっと怖くなりますよね。現実の世界で、論議されていることと似ていますから。

それは「普通の考え方」だと筆者は言います。

確かに、現実的で実現可能で、一見効果がありそうな、常識的にやる方法のように、見えますよね。

でも、人が生きる目的や価値は、その「常識」や「正しさ」「普通の考え方」にはない。そこから、解放される必要が、第一歩になると筆者は言います。

解放とは、「そんなもの知ったことか!!」と一旦離れる。常識を、普通の考えを、思考に入れない、ということです。

ということは、

孔子「苦しんでいる牛を助けたい」

弟子「目の前の一頭を助けても、無駄なのでは?」(正論・常識)

孔子「私がかわいそうだと思ったから、助けるんだ」(常識から離れた考え・人生の価値に直結する考え方)

となります。

出発点へ戻る

牛が苦しんでいるのは耐えがたいから牛を解放しようと思う、どうしてそう思うかというと、それは目の前で苦しんでいるのを見るからです。だから出発点に返る。やはり一頭の牛を助けることが先なのです。(本文より)

どうして、その牛がかわいそうなのか。それは自分の目の前で苦しんでいるからです。

苦しんでいるから、助けたいと思う。それは自然な人間の感情の発露であり、「助けたい」と思うことは、それを見ていると自分が辛くなるからという、自身の欲望の解消にも直結します。苦痛から逃れたいという感情は、とても人間らしい感情であり、自分以外の人が苦しんでいても、助けたいとやはり思ってしまいます。

思わない人も一部いるかもしれませんが、それは此処では問題になっていません。

「個人」が、「目の前の問題」に対して、「どう感じ」「何をしたい」と思うか。

そこに、社会の常識は必要ではないし、むしろ個人の行動を止める確率もあるのだから、一旦離れる必要がある。

常識から離れ、自分がやりたいと思ったことを素直に行動に移していく。それが、人生の目的を定義する、第一歩だと筆者は述べたいのです。

そこに、

  • 役立たない
  • 利益がない
  • 無駄だ

という考えは、横に置こうと言っているのです。

ある意味、人が生きる目的は「役立つ」「利益」「実利」のためではないと、筆者は孔子の例を使って語っているのです。

【まとめ】

孔子の「牛を助けたい」という例示を通して、「そんなことをしても無駄だ」という常識の意見が弟子たちから出てきました。

けれど、孔子は言います。「私が助けたいと思ったから、助けるのだ」と。
(ちなみに、孔子の言動を弟子たちがまとめ、編纂した「論語」には、このようなエピソードはありません。)

人が生きるのは、パンのみにあらず、という言葉は、イエス・キリストの言葉ですが、(物質的なものだけでなく、精神的な充足が生きていくことに必要だ)という内容に、同じ意味が込められていますね。

苦しんでいる牛を助けた孔子は、どう思うでしょうか。きっと「ああよかった」とほっとし、安心し、充足感を得たのではないでしょうか。

「人は、自分のやりたいと思ったことを実現し、その幸福感が生きる価値であり、人生の目的に繋がっていく」

その考えが色濃く出ている例示が、二つ目に出てきます。

今日はここまで。

続きはまた次回。

ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。

続きはこちら

コメント

  1. oha より:

    孔子の牛のお話、論語で有名とのことですが、出典箇所を教えてください、

    • 文LABO 文LABO より:

      ohaさん
      コメントありがとうございます。
      書き方が悪くてすみません。(訂正させていただきました。)
      論語ではこのエピソードは存在しないようです。

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