評論文解説『「である」ことと「する」こと』丸山真男著 その4~二つの極~

「である」ことと「する」こと

こんにちは、文LABOの松村瞳です。

高校生だと、英語でこのことわざを聞いたことがあるでしょう。

The proof of the pudding is in the eating.

これの日本語訳って、何でしょうか?

プリンの味は食べてみないと分からない??

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【論より証拠】

「プティングの味は食べてみないとわからない。」

これはとても有名な英語の格言になりますが、対応する日本語訳は「論より証拠」(なんで?? プリンどこにもないじゃん!! と言いたくなるのは解ります。うん、でも仕方がないから諦めて覚えましょう(笑)あれだよね、「覆水盆に返らず」も、英語になると「こぼれたミルクを嘆いても仕方がない」って、水がミルクになるし。ちなみに英語は⇒It is no use crying over spilt milk.意味合いは少し変わるのですが、文化の違いって、仕方がないんですよ……ところ変われば品変わるんです。)

この有名なプリンの格言を使って、例示を述べています。

プディングのなかに、いわばその「属性」として味が内在していると考えるか、それとも食べるという現実の行為を通じて、美味かどうかがそのつど検証されると考えるかは、およそ社会組織や人間関係や制度の価値を判定する際の二つの極を形成する考え方だと思います。(本文より)

要するに、どういう事なのか。

ケーキ屋さんで、とっても美味しそうなプリンを眺めながら、「きっと美味しいんだろうなぁ~」と見た目でプリンと認め、直接味わってないけれどプリンの味を勝手に想像するのか。(属性判断)

それとも

本当に美味しいのかどうか、ちゃんと毎回自分で食べて確認するのか。(行動判断)

例えば、

東大に合格した学生、という事実があるとします。

その情報を入手した時点で、彼、または彼女と直接話さずに、「東大合格」=「頭が良い」と価値基準を属性(東大に在籍しているという事実)にゆだねて、判断してしまうのか、

それとも、

実際に自分で話し、その人間の人となりも含めて、本当に優秀な人間であるかどうかを毎回毎回、話してみるという行動を通して、確認するのか。

人間関係や、会社、社会組織をの価値を判定する時に、この考え方は相対する二つの両極だと、筆者は話しています。

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【二つの極=二つの判定基準】

属性判断、と言われるとちょっとピンときませんが、具体例を挙げるととっても簡単です。

ランキングで上位だから、良い作品なんだろう。
売り上げ一位だから、きっと良い商品のはずだ。
皆が観てるから、きっと面白いんだろうね。
進学校に通っているから、頭が良いんだろう。
あそこのラーメン屋さん、いつも行列凄いから、きっと美味しいんだろうね。etc….

こんなふうに、思い込みや見た目の判断。そして、周囲でそのように評価を受けている場所に居るから、多分良い物なんだろう、と何気なく思ってしまう事。

実生活の中でも、思い当たることが沢山あると思います。

そうやって属性で判断するのが一つの極とするのならば、もうひとつはある意味とても面倒です。

いちいち一つ一つ自分で確かめて、判断する。確かめる、という行動を通して判断するやり方です。

属性判断=「先天的」に通用していた権威。=「である」論理

検証行動による判断=現実的な機能と効能を「問う」近代精神のダイナミックス(原動力)=「する」論理

としているわけです。

属性判断って、とっても楽なんですよね。皆がそう思っているから、とか、誰かがそう言っていたから、というふうに判断を誰かにゆだねられるし、考えなくていいので楽チンなんです。

たま~に、TV番組とかでやっていますが、高級レストランでインスタント物を出して、見破れるかどうか、という実験のような事をしていますが、人ってその雰囲気に入った時点で美味しいなぁ~と勝手に思いこんじゃう性質があるんですよね。

検証するって、周囲の評価と自分の感覚がずれていたとしても、自分の感覚を信じるということが必要になってきます。

それは相当の観察力と知識が必要になりますし、人から白い目で見られても自分の感覚を信じる勇気が必要になってきます。

それよりは、他人の評価にゆだねた方が、取りあえず恥はかかないし、まぁ言い訳出来るし、神経貼らなくていいから、そっちに流されがちになる。

けれど、近代の価値は、この具体的な検証の精神に支えられています。

 

【to be から to do へ】

ウィリアム・シェークスピアの戯曲。「ハムレット」の有名な言葉に、「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」という台詞があるのですが、自分の父を殺した相手に対し、復習をすべきかすべきでないかという判断を迷っているシーンで、ハムレットはこの台詞を言います。

王殺しは、身分社会では許されない事です。先天的な権威が齎す、罪です。けれど、親を殺された息子として、復讐を果たしたいという感情もまた、当然抱くものですし、親を大事にするという権威に従っている姿、という事になります。

疑いも抱く必要も無く、そう思って当然だろうと疑問も何も抱かない。権威社会、身分社会に生きているハムレットにとって、それは当然の悩みでした。

けれど、その身分や権威が崩壊した近代の人間達の中で問題になるのは、「to do or not to do」「するか、しないか」「行動するか、行動しないか」が、問題だと言っているのです。

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【非近代的と過近代的】

もちろん、「『である』こと」に基づく組織(たとえば血族関係とか、人権団体とか)や価値判断の仕方は将来とてもなくなるわけではないし、「『する』こと」の原則があらゆる領域で無差別に謳歌されてよいものでもありません。(中略)たとえばある面でははなはだしく非近代的でありながら、他の面ではまたおそろしく過近代的でもある現代日本の問題を、反省する手がかりにもなるのではないでしょうか。(本文より)

ここで面白いのが、筆者は

「である」こと=悪
「する」こと=善

というふうに、解りやすい判断に頼っていない事です。

であることの価値判断が無くなるわけがない。それに、どんなに良くても「する」論理だけで全てのものが判断されることも、またおかしい。

それを一つ一つ確認、検証、確かめを行っていくのが、後半に繋がっていく部分です。

私たちの社会では、前時代的な考え=非近代的なものが未だに残っている分野もあれば、そこまでしなくてもいいんじゃないか? と思われるような分野で、実績や検証などが過度に重視されている分野もある。

そのバランスが、どこかおかしいよ!!

と筆者は言いたいわけです。

非近代的=身分や権威を過度に重視する考え方。

過近代的=具体的な数値や量。結果ばかりを重視する考え方。

です。

もう少し、近代化が必要な場所では、権威がのさばって前進してないし、そんなに近代化が必要かな? と思う部分で、やたらと結果ばかりを重視する風潮がある。

そのおかしさ。変なところを、これから確かめていきましょうとまとめています。

続きはこちら⇒

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