文学の仕事 解説その4 全体に働きかけるための「一人の証人」の存在意義とは

文学の仕事

加藤周一さん著「文学の仕事」解説、その4

今回は、木下順二さんの「巨匠」という作品の内容から、文学が何を教えてくれるのかを読み解きます。

そして「人が生きる」ということは、アイデンティティの確立=自分がこういう存在でありたいと願い、それを他者に向けて実証すること、の説明をしていきます。

前回の解説は、こちら

 

では、続きを読んでいきましょう。

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7段落~15段落

『巨匠』のあらすじ

木下順二さんのナチ占領下のポーランドのある町を舞台にした『巨匠』という芝居でも同じ主題が描かれています。

同じ主題とは、解説その3で説明した、状況や環境に左右されずに、自分のアイデンティティを確立する力が、人々に行動を促すことです。

この、状況や環境に左右されない、というのは簡単に書いてありますが、「自分の命があやうくなった時に、それが出来るか。貫き通せるか、どうか」という究極の選択を迫られた場合は、どうでしょう?

もちろん、アンゲロプロスの例示でも命懸けでした。

けれども、自己のアイデンティティを立証したら。つまり、自分の本来、こうありたいという状況を体現し、周囲に認められたら殺される、というとんでもない状況であっても、自分のありたかった姿。こうしたかったという願望を貫き通せるか、どうか。

「巨匠」は、そんなありえない状況を見事に表しています。

あらすじはこうです。

第二次世界大乱中。ナチの占領下のポーランドでは、知識人や俳優などがとらえられ、処刑されていました。そんな中、かつて俳優であった役所の書記を務めていた老人の男が、ナチの将校に聞かれます。「お前は俳優か?」と。

そうだと答えれば、殺されます。自分は役所の書記だと言えば、命は助かるのです。将校は、「お前は書記だろう。俳優は昔、遊びでやっていただけなのだな」といって、彼を処刑の列から外そうとします。

けれど、その老人は「私は俳優だ!」と宣言し、「だったら今、ここで演じてみろ」とシェークスピアのマクベスの一場面を演じます。

「パンの問題」

その老人は、旅回りの下手な役者なのですが、俳優だということを相手が信じれば殺される。しかし彼の生き甲斐は芝居をやっていることなのです。書記をやっていることは単なるパンの問題です。どっちをとるかという生死のかかった問題になる。

命が助かった方が良いじゃないか!!

そういうことは、とても簡単です。けれど、俳優が生き甲斐で、彼の生きる全てであったとしたならば。

人気者のスターになってスポットライトを浴びるのはほんの一握りの人間のみです。そうは慣れなかったけれど、けれどもこの老人は、演じることが好き好きだった。

演じているときが、生きていると感じれる瞬間だったのかもしれません。

続けてきたブライトなどもあるのでしょう。他人から見たら、意味が解らないのかもしれません。けれども、少なくともこの老人にとっては、生きること=演じること=俳優として周囲に認められていること、だったわけです。

けれども、人間である限り、生活の糧は得なければなりません。体が動かないために、頻繁に演じることも難しくなってきたから、「生活を支えるため」に書記の仕事をしているです。生計を立てるために、必要な仕事であったわけです。

ここは、現代でも変わりませんよね。俳優や芸能関係で成功したい人たちは、最初から人気者で居ることができるのは、ほんの一握りです。最初は本当にお金がなくて、生き延びるためにバイトで食いつなぐ人たちも多くいます。

この老人も、そうだったのです。けれども、少なくとも彼自身は、自分の本業は「俳優」であると思っていたし、「俳優として認められたい」と切に願っていた。

特に、仲良く話していた俳優志願の青年には、俳優だったと思われたかった。

「一人の証人」の意味

ここに込められているのは、彼は一人の青年に向かって演じたわけだけれども、その青年というのはポーランド全体だということです。つまり一人の証人が大事なのです。

一人の証人=ポーランドの青年です。

何のための証人かというと、この老人が役所の書記ではなく、立派な俳優だったと証明する証人です。

彼はナチの将校に聞かれたから演じるのではなく、以前から「自分は俳優だったんだ」と仲良く話していた青年に対して、証明したかったのです。

なぜならば、この老人はポーランド人です。

ドイツ人に認められたいわけではない。認められたいのは、あくまでも同じポーランド人である青年に対してだけであり、少なくとも一人が認めてくれたのならば、彼は「俳優」となることができますし、一人の心を動かせる、ということは多くの人の心に届く可能性が発生しますし、それはやがて全体に(ここでは自国のポーランド人全体)対しての働きかけをしたことに、繋がっていきます。

一人の心を動かし、証明すれば、それは自信となっていきます。

また、証明された人。ここでは青年は、彼を「俳優」として扱います。すると、それが周囲にも伝わっていきますし、全体に対して能動的に働きかけたという実績に繋がっていくのです。

人間は社会性の生き物であるという事実

ここで難しいのは、人は「こう生きていきたい」と思っても、一人ではそれは叶いません。

「有名なインフルエンサーになりたい!!」と思ったとしても、自分一人でそう考えているだけでは、人の心は満たされないのです。

それが満たされるのは、様々な状況の違いはありますが、「他者」に「インフルエンサー」だと認められて、初めて人は、望んだ存在に「なれる」わけです。

つまり、自分の望んだ生き方というのは、認めてくれる他者が居ないと、立証されない。確定すらもされないわけです。

望んだ生き方をするためには、まず他者に「認めてもらう」という受動の状況がなければ、かなわないのです。

人は、一人では望んだ生き方すら、生きることができない寂しい存在なのです。

自分一人だけで、「私は歌手です」「私は有名youtuberです」「インスタグラマーです」「芸能人です」「アイドルです」と言ったとしても、空しいだけなのは分かるでしょう。

認めてくれる人が居て、人は初めて、自分の存在を立証できる。望む姿で、やりたいことをすることができる。

そのために、たった一人の証人を作るために、受動ではなく、能動で働きかけるのです。

この老人が、命を懸けて青年の前で演じたように。

まとめ

人は自分がやりたいこと、こう生きたいと望んだとしても、望んだだけではそれは叶いません。

自分の望んだ人生を歩むには。生きがいのある人生を送るためには、「自己のアイデンティティの確立」は絶対です。

「私は、こういう人間なのだ。これがやりたくて、こんな状態で過ごしたくて、生きているのだ」という明確な目標のようなものです。

けれども、人が生きるのが難しいのがここで、望んだだけでは、それは叶わないということです。

それを認めてくれる「一人の証人」が必要になる。逆に言うのならば、「一人の証人」が居れば、皆に認められていることにも、繋がっていきます。もちろん、全体がそう認識するのは、物理的に不可能ですが、一人が認めてくれれば、それはやがて広がっていきますし、一人の証人が居るのならば、その一人が、集団の中に何人もいる可能性があるのですから。

実際、イエス・キリストの教えも、孔子の教えも、最初はたった数人が認めていただけでした。けれども、それが後世にまで伝わり、全体に働きかけている実例と言えるのかもしれません。

それは、私たち人間が社会性のある存在。つまり、たった一人では生きられない弱い存在であり、相手の存在が居ないと、生きる意味すら見失ってしまう。だからこそ、「一人の証人」の価値が高まってくるのです。

 

今日はここまで。

続きはまた次回。

読んでいただいて、ありがとうございました。

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