「可能無限」解説、その4
ここからは、後半の具体例に関わってきます。
著者である脳科学者の茂木健一郎さんが、前半部分で提起している問題点は、
「数学的な考え方をすれば、この世は無限に満ちている。けれども、その無限と多様性を、人間の人生にとって意味のある無限に結びつけることが出来るか、どうか」
これが、この「可能無限」という単元のテーマであり、大きな問題提起です。
つまり、著者茂木さんは、私たちの人生に無限性を結びつけた方が良い! と主張し、勧めている。けれども、それが中々難しいんですよ、と同時に難点も挙げている。
まず、何故無限性が人生にあった方がいいのか。その利益を知らなければ、誰もそんな小難しい事を考えません。
なので、その利益性を知るために、まず、「無限」とは何か。それを説明しようとしているのです。
この、前提条件を説明するやり方を、評論文では「定義付け」と言います。
定義付けって、今からこの場で語る「無限」って、これこれこういう意味での「無限」ですからね~、誤解しないでね~ってことです。
またそんなめんどくさいっ、って思わずに。解りきっている言葉であろうとも、人間って意外に違う意味合いで受け取っていたりすることも有ります。だから、そういう誤解がない様に、確認作業をするのです。
では、そもそも茂木さんが言う「無限」とは何なのか。
読み進めていきましょう。
【第10段落】
無限の概念には、二つの種類がある。「可能無限」と「実無限」である。(本文より)
はい、きました。いきなり専門用語(笑)
-概念とは-
まず、「概念」からいきましょう。
概念とは、ある事物に対して、共通しているもの。考え方、特徴、ということ。
例えば、シャーペンやボールペン、鉛筆など、ひとつひとつは明確に違いますが、それらに共通することを言葉で表すとするのならば、「紙に何かを書き表す道具」「人間の手によって使われるように形成された、書く(描く)道具」と、定義できる。これを概念と言います。
沢山のモノを一々説明しているとめんどくさい。なら、全部に共通することをまとめていっちゃおう! というのが、概念です。
と言うことは、此処では「無限」って私達が思うものに共通することって何だろうね? と言っている訳です。
-専門用語が出てきた時の対処法-
はい。来ました。「実無限と可能無限」科学の専門用語。
専門用語って、どうしても嫌煙しがちになってしまうのですが、評論文を書いている学者の人達もそれは重々解っています。だから、丁寧に注釈を付けてくれています。
けれど、注釈つきでも、意味の通じない言葉を連発されると読む気がなくなってしまう事も、また同時によく解ります。
なので、お勧めなのは、置き換えをしてしまうこと。自分の解る言葉に、強制的に変えて読んでしまうこと、です。これはセンターなどの評論文にも良く適用出来るので、お勧めです。これも、ある意味では概念で起きかえる作業かもしれませんが、解りやすさって勉強を続けるのにとっても重要なんですよね。
解りにくいことなんか、誰もしたがりません。自分に厳しくならない。優しくなる為に、簡単な言い回しを採用してしまいましょう。
-注釈の言葉を確認-
と言ったとしても、先ずやらなきゃならないのは、確認作業です。
何を注釈で書かれているかを確認。そして、本文でもそれらの内容に対して触れている部分を読み、何を示しているかを導き出していく。
この作業をしっかりやると、びっくりするぐらい良く解る様に成ります。逆に、授業で聞いた時によく解るのは、この説明をじっくりされて理解できているから。
自分一人でも出来るように、練習しましょう。最初は上手く出来なくとも、「やる」ということが慣れてくると、自然と考えられるようになっていきます。
では、教科書の注釈です。
実無限とは……現実的無限。無限は、有限を越えて完結して実存するもの、という考え方。
可能無限とは……無限を限りない増加・減少と考える立場。可能的無限。
さて、案の定解りません。
なので、本文の先を読んでみましょう。
【第11段落】
実際の無限である実無限自体を、私たちは扱うことができない。それは、誰もまだ見たことも、聞いたことも、触ったこともない。神様でなければ実無限と直接向かい合うことは出来ない。(本文より)
はい。
訳解んない言葉で書いてある様に見えますが、その実、結構本質的なことを言ってくれています。
つまり、神様の領域のお話だと。
要するに、実無限とは、数学的な世界の数の上限を超えたものです。
兆とか京とかだったらまだ何とか付いていけますが、垓(ガイ)や、那由他、不可思議、無量大数になると、「へーっ……」としか思えないです……少なくとも私は……10の68乗って、どんな数だよと、真実思ってしまいます。
けれど、実無限はその無料大数すら越えた存在、ということ。
無量大数の更に上を越えて存在するもの、です。
有限に存在するものを越えた存在。そんなもの、筆者も言っている通り、神様しか触れることも、見ることも出来ません。
なので、
実無限=神様の領域。人間に関係ない世界。と置き変えてしまう。
【第12段落】
それに対して、可能無限は、私たちが実際に扱うことのできる無限である。それはつまり、「次がある」ということに関係している。(本文より)
ならば、可能無限は何かと言うと、この1.2.3……と、自然数(0が入っていないことがポイント。0は現実の世界では存在しない事なので)で数えられるもののことです。
へ? 数えられるものが、無限なの???
と思いますけど、昨日のエントリー(参照⇒可能無限 解説 その3)でちょっと例示に出したように、図書館の本とか、目に見える数ですし、何千、何万書、と実際に数えられますが、けれどもそれを全部読む、となったら、無限に感じてしまうことってありませんか?
それを少し頭に置いて、似た様な例示を考える。
例えば、スイーツビュッフェとか、到底食べ切れないケーキとかスイーツとかが並んでいる光景って、良く見ますよね。あれ、確かに数はある。有限ではあるけれど、自分のお腹の容量と比べても、無限にある様に感じちゃいますよね。
要するに、これを食べても次がある! と思える感覚。これが、可能無限。
可能無限=実質的には限りがあるんだけど、「次がある!」って錯覚を人間が起こす現象、と言うことです。
実際は無限ではないのだけれども、人間が勝手に「無限だ」「次があるんだ」と思っちゃう。その錯覚。思い込みを、可能無限と言っているのです。
さて。この可能無限。
「次がある」という感覚が一体人間に何をもたらすのか。どうして、茂木さんは可能無限を私たちの生活に取りこんだ方が良いと言っているのか。
今日はここまで。
続きはまた明日。
ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。
続きはこちら⇒可能無限 解説 その5
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