小説読解 魯迅「故郷」その6 ~鮮明だったものがぼやけていく物悲しさ~


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こんにちは、文LABOの松村瞳です。

鮮明だった銀の首輪の小英雄。くっきりと思いだされていたものが、途端にぼやけていく物悲しさを解説します。

そして、あれほど帰りたかった。20年来、心に描き、常に片時も忘れることのなかった故郷が名残惜しくなくなっていきます。何故、名残惜しくないのか。

人が物を懐かしく思ったり、大事に思うのは、それそのものの価値ではない、ということも合わせて理解しましょう。

厚い霧に覆われて、何もかもが見えなくなっていく……

【ルントーが犯した罪】

ここで、ルントーが犯した盗みが発覚するシーンがあります。

 

-本文-

おととい、灰の山から碗や皿を十個掘り出した。あれこれ議論の末、それはルントーが埋めておいたにちがいない。灰を運ぶとき、一緒に持ち帰れるから、という結論になった。

 

-解説-

ルントーはこのシーンの前で、昼飯を自分で作って食べろと言われました。

 

そして、ルントーがシュイションと共に昼飯を食べている間。「私」と母は、持っていかない家財道具は全てルントーにやろうと決めます。

恐らく、時系列的に考えると、

「私」との再会⇒昼飯を台所で食べる⇒その時に灰の中に碗や皿を隠す⇒家財道具を持っていっていいと「私」から提案される。

と言う、流れだったのではないでしょうか。

灰は、畑の肥料になるし、畑を持っていない「私」としては、無意味なごみです。だから、欲しいと願い出ればくれるだろうと算段をして、ルントーは碗や皿をその中に隠した。

まさか、その後に「私」が家財道具を譲ってくれると提案するとは知らずに、彼は盗みを働いてしまった事になります。

【何故盗みを働いたのか】

ルントーが盗みを働いた理由は、解りません。そこは小説の中には言及されていませんでした。けれども、生活苦を抱えていたルントーの立場から、少しでも金目の物を盗っておきたかったという誘惑に駆られた事は、推測できます。

 

何故、「ください」と申し出る事が出来なかったのか。

きっと、断られるだろう。もしくは、軽蔑されるかもしれない。そんな恐怖が、彼の心の中にあったのかもしれません。

それか、もしくは、昔話の中で、すいかの番の話をしていたことがありました。(参照⇒小説読解 魯迅「故郷」その2 ~明るい描写のフラグ~ )

余裕があれば、人はそんなことをしない。喉が渇いて仕方がなかったから、食べてしまっただけ。そんなのは、泥棒とは言わないと、おおらかに話していたルントー。

もしかしたら、その時のおおらかさを自分の行動にも当てはめ、「これは仕方のないことなんだ」と言い訳をし、きっと経済的に余裕がある「私」は、自分の事を泥棒とは思わないはずだと、思考していたのかも知れません。

そして、この盗みに対して、後日ルントーが別れの日に家財道具と灰を取りにやってくるのですが、そこで「私」は既にルントーとは話をしませんでした。

忙しさに、話す暇もなかったと描写されていますが、既にルントーと話すことが辛くなっていたのでしょう。ルントーも灰の中に自分の隠した皿が無くなっていることに気付き、恐らく自分のしてしまったことがバレてしまったから、「私」に話しかけることも無かった。話しかけて責められたら、貰えるはずの家財道具も貰えなくなってしまうと、

謝ることすら出来ずに、ルントーは去っていきます。去るシーンすら、小説の中では描写されていません。恐らく、「私」はルントーの姿を追いかけることすら、既にしていなかったのでしょう。

【心を通わす若い世代】

ですが、決定的に心が離れてしまった大人たちとは違い、皮肉なことが起きます。

-本文-

船はひたすら前進した。両岸の緑の山々は、たそがれの中で薄墨色に変わり、次々と船尾に消えた。
私といっしょに窓辺にもたれて、暮れてゆく外の景色を眺めていたホンルが、ふと問いかけた。
「おじさん、僕たち、いつ帰ってくるの?」
「帰ってくる? どうしてまた、行きもしないうちに、帰るなんて考えたんだい?」
「だって、シュイションが僕に、家に遊びに来いって。」
大きな黒い目を見張って、彼はじっと考え込んでいた。
私も、私の母も、はっと胸を突かれた。

-解説-

ルントーの息子と、「私」の甥。ちょうど、30年前の自分たちがそうであったように、ただ数日共にいただけで、友達になった二人が、また再会することを約束している事を聞き、「私」と母は、その奇妙な偶然の一致に胸を突かれます。




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胸を突かれる、とは、驚くこと。または、急に感情がわき上がってくることですが、ここでは、驚くことと受け取ります。

昔の自分たちと全く同じように仲良くなり、そして再会の約束をした子供たち。

その偶然に、驚き、その後わびしさが「私」の胸に湧き上がってきたであろうことは、予想が出来ます。

何故ならば、子供の頃に再会を約束し、ルントーの家に行くことは叶わなかったけれど、再会の約束を30年ぶりに果たした自分達は、結果的に心を通わすどころか、悲しい身分という壁に隔たれ、距離が開き、もう何も言葉をかけられないような関係になってしまった。

こんなことなら、会わずに引っ越しをしてしまった方が良かったのではないか。
会いたいという気持ちだけを心の中に抱いていただけならば、こんな虚しい気持ちを抱かずに済んだのではないかと、考えてしまう。

けれど、子供たちにはそんなことは関係ありません。

だからこそ、「私」は考えずにはいられない。

この子たちが自分のように大人になった時の、未来の再会の姿を、思わずにはいられないのです。

 

【目に見えぬ高い壁とは?】

-本文-

古い家はますます遠くなり、故郷の山や水もますます遠くなる。だが、名残惜しい気はしない。自分の周りに目に見えぬ高い壁があって、その中に自分だけ取り残されたように、気がめいるだけである。すいか畑の銀の首輪の小英雄の面影は、元は鮮明このうえなかったのだが、今では急にぼんやりしてしまった。これもまたたまらなく悲しい。

-解説-

自分の周りに高い壁があり、自分だけが取り残された、という表現。

これは、比喩的な表現ですが、目に見えない、というのは精神的な壁、という意味です。

そこに取り残されている、と言う事は、誰も居ない。「私」一人だけが、そこに居る、と言う事。

少なくとも、「私」はそう思っています。

これはどういう事なのか。

「私」が望んでいるのは、身分も背景も関係なく、心を通わせられる人間関係です。皆、生きているのだから、辛いことは人ぞれぞれある。それを解ったうえで、けれども人間だから解り合う事が出来るはずだ。そんな交流をしたい、と考えているのが主人公です。

けれど、現実は……

自分の事を知事という、仕事の身分でしか判断しようとしない、「楊おばさん」

そして、昔はそんな交流が出来た筈のルントーも、遠い場所に行ってしまった。身分に隔てられた、悲しい壁が出来てしまった。

自分の考えは、自分だけが考えている事なのだろうか。誰とも、分かち合う事は出来ないのだろうか。

自分だけが持っている考えが、誰にも伝わらず、誰とも実現しない現実に、「壁の中に取り残されている」ような気分になっている、という事です。それは、孤独で、寂しい状態です。

当たり前ですよね。

自分の考えが、誰にも解ってもらえない。誰とも解り合えないのならば、悲しくなってしまう。

それを「気がめいる」と、表現しています。

気がめいる、とは、陰鬱な気持ちになる。簡単に言うと、考えれば考えるほど、元気が無くなっていく、という事です。考えても、だったらどうすればよかったんだと自分に問いかけ、そして答えが出てこない。だから、虚しくなり、元気が無くなっていくような気がするのです。

どうにかしたい、けれど、どうにも出来ない。

何も行動することが出来ない時に、人はやる気が無くなっていきます。

そして、その陰鬱な気持ちが、ルントーの子供時代の姿。小英雄の姿であり、主人公にとって「美しい故郷」の象徴であった姿が、ぼんやりとしていきます。

考えれば考えるだけ嫌な気分になるのですから、考えたくなくなってしまう。思い出したくないものに、なってしまった。

だから、ぼやけたのです。

思い出は、本当に美しいものだけが残るのではなく、その人が「美しい」「大事だ」「大切だ」と思ったものが、「美しい思い出」となっていく。

だから、その大切だと言う気持ちが薄まれば、同時にその人に関わる思い出も、色をなくしていくものです。

主人公が、もうすでにルントーを大事だとは、思えなくなってしまったことを、寂しいかな。映し出している場面とも、言えます。

続きはまた明日。

明日は魯迅の哲学とも言うべき最後の部分を解説します。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

 


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