小説読解 魯迅「故郷」その5 ~失意の裏に隠れた封建社会の名残~


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こんにちは、文LABOの松村瞳です。

ルントーとの再会を果たした主人公「私」。けれど、感動の再会とは程遠く、大人になったが故の、身分や背景を色々考えてしまい、幼い時とは同じように話すことが出来なかったシーンです。

あくまでも主人公目線で書いてありますが、だからこそ目立たぬところに当然のように、むしろ良いことのように書いてある部分に、封建社会の名残があります。

それを払い落し、人間として触れ合いたいと思っていた主人公も、きちんとその身分社会に影響されている部分。そこを今日は解説します。

操り手のいない人形は、ただうなだれるだけ

 

 

【ルントーの辛い生活】

「だんな様」という呼び名で、「私」を呼んだルントー。

ためらいの表現があるところから、それを言うのが、彼も辛かったことが解ります。そして、その後、衝撃を受けている「私」の前で生活の辛さを吐露します。

-本文-

私は暮らし向きについて尋ねた。彼は首を振るばかりだった。
「とてもとても。今では六番目の子も役に立ちますが、それでも追っつけません……世間は物騒だし……どっちを向いても金は取られ放題、決まりも何も……作柄も良くございません。作ったものを売りに行けば、何度も税金を取られて、元は切れるし、そうかといって売らなければ、腐らせるばかりで……。」
首を振りどおしである。顔にはたくさんのしわが畳まれているが、まるで石像のように、そのしわは少しも動かなかった。苦しみを感じはしても、それを言い表すすべがないように、しばらく沈黙し、それからきせるを取り上げて、黙々とたばこをふかした。

 

-解説-

ルントーの様子は出会いの時にもその見た目は描かれていましたが、今度は話の内容です。

 

あれほど、きらきらとしていたルントーの話。幼い時は何時までもいつまでも聞きたいと思った彼の話。

けれど、ルントーの口から語られるのは、苦しみばかり。そして、お金のことばかりです。

しわは少しも動かない、という事は、表情が全く動かない、という事です。あれだけ笑って、明るく話していた彼が……と、話を聞けば聞くほど、「私」の心も同時に動かなくなっていくのが見えるようです。

自分は辛い、自分は不幸だ……と、言い続けている人に、何も言う事が出来なくなってしまうのと、少し似ているかもしれません。そして、お金がないと言いつつも、嗜好品であるはずの煙草を黙々とふかすルントー。

人間は辛い状況で有ればある程、手近な快楽に手を出し、それを手放せなくなってしまう事を表しているような気がします。本当に生活に困窮しているのならば、煙草をやめた方が良いはずだと解っていても、やめられない。

人間の避けられない弱さが、垣間見えます。

【でくのぼうの意味】

そのルントーの様子に、その後。「私」とその母は、彼の境遇に付いて語ります。

-本文-

彼が出ていった後、母と私とは彼の境遇を思ってため息をついた。子だくさん、凶作、重い税金、兵隊、匪賊、役人、地主、みんな寄ってたかって彼をいじめて、でくのぼうみたいな人間にしてしまったのだ。

 

-解説-

匪賊は盗賊団です。前の部分での、世間はぶっそうだし……と言っている部分がここに当たります。

 

きっと色んなものを盗られてしまったのでしょう。そして、凶作や重い税金、様々な辛い境遇がこれでもかこれでもかと、彼に襲いかかり、昔とは似ても似つかない人間にしてしまった。

ここで、出てくる言葉が、でくのぼうです。

でくのぼう=1 人形。あやつり人形。でく。2 役に立たない人。気のきかない人。人のいいなりになっている人。また、そのような人をののしっていう語。

 

辞書で意味を調べてみると、とても酷い言葉です。木偶、という言葉自体が平安時代の「くぐつ」操り人形の事を指すのですが、それゆえに、人に操られている人。転じて、自分の意志で動けない、という意味で、気の利かない人や、役立たない人、という意味が生じた言葉です。

つまり、「私」は現在のルントーを見て、まるで誰かに命令されなければ何一つ動けない、空っぽの人形みたいな存在だと、思ってしまったのです。




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空っぽな木偶。

周囲の状況や環境に心を反応させることも無く、何かを考えることも無く、ただ心を摩耗させ、辛いと言う事だけを見てしまい、その他に考えることもせずに思考停止をしている人間。

常に一つの事しか考えず、そこから動けないのは、何も思考していないのと同じようなものです。

そして、このくっらーい小説を書いた魯迅の目指していた事は、中国人の心の治療です。

敢えて、楊おばさんやルントーのように、状況や環境に冒されて心が摩耗してしまった人々を描くことによって、「そうではない世界」を作るために、悪い例示を見せているように思えます。

反面教師、という言葉がありますが、魯迅は悪い例示を見せ、そうはなりたくないと思わせることを狙って、このでくのぼうのような人間=変わり果てたルントーを描き出したのでしょう。

【決定的な身分差ゆえの「私」の行動】

そして、このルントーとの話し合いで、ひとつ。読み飛ばしてしまいそうな部分を敢えて取り上げます。

これ、変な部分なのですが、気付けますか?

-本文-

母が都合をきくと、家に用が多いから、明日は帰らねばならないと言う。それに昼飯もまだだと言うので、自分で台所へ行って、飯をいためて食べるように勧めた。

-解説-

はい、今回の表題の部分です。

封建社会の残り香の部分。

身分制、と言うのは不思議なもので、人々の日常や意識の中に織り込まれてしまうものです。その人にとっては当然のものであり、むしろ良いことだと思ってやっている事が、実はとんでもなく封建社会制度に支配されている姿だと事。

これは、魯迅が意識して書いたかどうかは解りませんが、彼はこの封建社会の害悪を嫌い続けていました。

身分が高いという、ただそれだけで人よりも偉そうに振舞い、特権が許されていると思い込んでいる人々を、嫌い抜いていました。

けれど、その封建制度を嫌い抜いた魯迅の底にも、この身分社会の名残があったのだと、意識させられる部分です。

この部分。

恐らく、学校の授業では取り上げられないでしょうが、よくよく考えてみてください。

ルントーはお客さんです。そして、主人公の「私」は少なくとも、身分を気にせずに交流したい。同じ人間として触れ合いたいと考えていた。

そんな人が、「お昼ごはん、食べてないんです」と言ったなら、身分制度のない現在ならば、どうするでしょうか?

そう。

なら、お昼ごはんを出しましょうかと、「私」や母親が食事を出すはず……

けれど、本文の中では、ルントーが自分で台所に行って、作っています。

これ、おかしくないですか?

いえ、「私」や母親からしてみたら、当然の事なのでしょう。むしろ、今は働いていない召使に、台所を使わせてやることは、とても良いことですし、ルントー自身も、昼飯代金が一食分浮くのですから、願ったりの申し出です。

けれど、そこに、登場人物のだれもが疑問にすら思わない、封建社会の闇が垣間見えます。

ルントーはもてなす相手ではない。つまり、対等ではなく、下の身分だと、無意識に主人公「私」自身もそこに疑問を抱かずに提案をしている。

昔と同じように、身分など関係なく、その理想を願っている主人公ですら、そんな状態なのです。

身分制度を制度だけ払しょくしたとしても、人の心の中からその垣根を取り払う事は難しいと、地味に表れている部分です。

 

【もう私を惹きつけないルントーの世間話】

-本文-

彼はまた世間話をした。とりとめもない話ばかりだった。明くる日の朝、彼はシュイションを連れて帰ってしまった。

-解説-

シュイションとは、ルントーの息子です。昔のルントーそのままの、けれども、少し痩せこけた子供です。

とりとめもない話、とあっさり書いてありますが、昔のルントーの話も、単なる自分の生活の話で、とりとめもない話であったはずですが、主人公にとっては、とてもとても大切な時間でした。それこそ、30年たっても話の内容を思い出せるほどに、とても好きな話でした。

けれど、ここでは何一つ細かく描写されてはいません。

つまり、書く必要もない。成長したルントーの話は、「私」にとって、心を躍らせるものではなく、惹きつけられない事を示しています。

残酷な事実ですが、それが文章量からも解りますよね。

昔のルントーの話は、教科書見開き1ページ分、しっかりと書いてあります。

けれど、この世間話の部分は、これだけです。そして、彼(ルントー)が、世間話をした、と書いてあるので、「私」は何も話さなかったという事ですね。

話さなかった、と言うよりは、話せなかったのでしょう。

何を話しても、きっとルントーの心に私の言葉は響かない。そんな「私」の諦めにも似た気持ちが、見えるようです。

そして、故郷への別れの日が訪れます。

 

今日はここまで。続きはまた明日です。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。


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