小説読解 魯迅「故郷」その7 ~地上の道とは~


スポンサーリンク

こんにちは、文LABOの松村瞳です。

「故郷」のラストシーン。主人公「私」による独白のシーンです。

一人、黙々とこの帰郷の旅のことを思い返しながら、明るい未来を願う私。普通であるのならば、そこだけで終わるシーンですが、その後、主人公は自分の考えにふと、疑問を抱きます。

テストでも重要視されるこの部分。理解も難しくなるのですが、解ってしまえば簡単なのが国語のいいところ。

解らない、でくくるのではなく、今から約100年ほど前の人々が考えていた事を探りに行きましょう。

道は、歩く人々が踏み固めた場所の歴史。歩く人が多い道は広くなり、逆は……

 

【自分の選択した道】

船の中で、母とホンルが眠ってしまった後。一人、「私」は自分が歩いている道を考えます。この「道」とは、具体的なものではありません。精神的な、自分が選択した物です。

-本文-

今、自分は、自分の道を歩いていると分かった。思えば私とルントーとの距離は全く遠くなったが、若い世代は今でも心が通い合い、現にホンルはシュイションのことを慕っている。

-解説-

自分の道、という表現に少し困惑すると思いますが、自分で選択した人生の道という意味です。

簡単に喩えると、数学の角度を思い出してください。

同じ平面を歩いていても、ほんの小さな違い。角度にしてみたら1度とか2度くらいなのですが、その線をずっと引いていくと、元の平面の線と長くのばせば伸ばすほど、距離が出来てくる状態を少し想定してみてください。(人間の成長の姿は、これが一番です。⇒参照『日々の1°があなたを劇的に変える魔法』)

「私」とルントーは、30年前は同じ場所に居た。

けれど、「私」が身分など関係なく、人は心を通わせられるはず、という考え方を選択したように、ルントーは、そんなことを考えるのはもう疲れた。とにかく、生活が楽になりたい、という道を選択した。

そして、日々が流れ、30年後。

二人の距離は、もうどうしようもないほどに開いてしまった、と言う事です。

なので「私」はルントーを責めるのではなく、自分も昔から変わったのだから、仕方がない。

私は、私の行きたい、すすみたい道を選択したのだからと、自分に言い聞かせているのです。

「私」が望む人間の交わりは、確かに若い世代は実現できているのだから、それを実現したいと願うのは私だけではないはずだと。

【三つの駄目な例示】

けれど、ここで「私」はホンルとシュイションの未来を考えます。

-本文-

せめて彼らだけは、わたしと違って、互いに隔絶することのないように……とはいっても、彼らが一つ心でいたいがために、私のように、無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活を共にすることは願わない。またルントーのように、打ちひしがれて心が麻痺する生活を共にすることも願わない。また他の人のように、やけを起こして野放図に走る生活を共にすることも願わない。希望ほ言えば、彼らは新しい生活を持たなくてはならない。私たちの経験しなかった新しい生活を

-解説-

せめて彼らだけは、これからを生きる彼らだけは、隔絶するような思いをしないように、と思いながらも、逆にこんなふうにはなってほしくないという、三つのパターンを上げています。

まず、「私」

無駄の積み重ね、とは、実現しない願いをずっと持ち、それが実現しない現実に毎回心を痛めている、私の姿です。

身分差など無く、人間は心を通わせることが出来るはず、という希望を持ちつつも、実際は知事の身分や金持ち、という色眼鏡でしか判断してくれない周囲の人々と話すたびに、自分の希望は間違いなのだろうかと、「私」はずっと傷付いてきているのです。

この帰郷の間だけでなく、ずっと。

そして、心が傷付く様子を、魂をすり減らす、と表現しています。

「私」は希望が砕かれる状態を何度も体験し、そのたびに傷付き、すり減り、疲れ、溜め息を吐きながらも、それでも希望を捨てることが出来ない。そんな疲れ切った姿と言う事です。

そして、ルントー。

様々な状況・環境が彼をいじめ、そしてもう自分はここから抜け出せない人間なのだと、思いこんでしまい、心が打ちひしがれる。やる気を失い、何にも心が反応しない状態のことを言います。そんな状態で、心が麻痺してしまった。




スポンサーリンク


何も感じない。何も考えない。頭にあるのは、ただ、楽になりたい。自分は辛い状況なのだという事だけ。

そして、最後に他の人。

楊おばさんを代表とする、大多数の人々の表現です。

やけを起こして、というのは、もうどうなろうとも構わない、という事です。このやけを起こしているのがどうしてなのかは、時代背景を少し考えなければなりません。今現在の中華人民共和国が建国されるまでの、国内の革命による混乱や清という巨大な国が崩壊し、身分制度が変わり、何を信じていいのかすらわからない状態で、野放図に走ってしまう。

野放図とは、何をしでかすか分からない人の事です。

このくだりの前に、ルントーの盗みを見つけた楊おばさんが、手柄の当然の権利として「私」の家のものを掴んで取っていたというシーンがありますが、どうなろうとも構わない。今、自分が利益を取れたらそれでいいと、予想しない行動を取る人々の事です。

その三つにならず、ホンルとシュイションには新しい希望に満ちた未来を歩いて欲しいと、「私」は願っているのです。

【ルントーの偶像崇拝と私の希望】

ですが、普通の小説ならばここで終わる筈です。

けれど、魯迅の独特なところは、正しい道を示そうとしながらも、そうやって考えている自分自身も、もしかしたら間違っている可能性を示唆するところです。

-本文-

希望という考えが浮かんだので、私はどきっとした。たしかルントーが香炉と燭台を所望したとき、私は相変わらずの偶像崇拝だな、いつになったら忘れるつもりかと、心ひそかに彼のことを笑ったものだが、今、私のいう希望も、やはり手製の偶像にすぎぬのではないか。ただ彼の望むものはすぐ手に入り私の望むものは手に入りにくいだけだ。

-解説-

聞きなれない言葉も沢山あると思いますが、先ず、ルントーが望んだ香炉と燭台とは何だったのか。

これは、宗教的な道具です。仏教において、三具足と呼ばれる、脚台のついた物。

御仏壇の前に供えるものだと思えば、大丈夫です。

それを欲しがったと言う事は、ルントーは家の中に御仏壇があったと言う事です。日本と中国では仏教の祀り方は若干違いますが、ここで受け止るポイントは、ルントーが仏教を家で祀っていた事。

宗教家、というわけではなく、当時の当たり前の家の風習として残っていたものだと思うのですが、「私」はそれを偶像崇拝(=大仏や仏具など、物自体を崇拝すること)と心で笑います。つまり、少し馬鹿にしているのですね。

偶像崇拝は、その物体自体に神や仏。つまり、人間が崇拝する尊いものが存在していると思い、神や仏を大事にするように、その像自体を大事にする、という意味であるはずなのですが、そこから転じて悪い意味があるのです。

偶像には、偽物。虚像の意味合いもあり、本来は実体のない物をやみくもに崇拝する、という意味が偶像崇拝にはあります。

物すごーく受験生に突きささる例示を上げるとするのならば……

全く勉強していないんだけど、ここで祈ると絶対に受験に合格する、というお寺や神社で祈願してもらって、なんとなくそれで大丈夫な気がして全く勉強せずに、受験の日を迎える……と言った感じでしょうか。

願うだけでは叶わない。願って、気持ちを落ちつけさせて、大事なのはその後にちゃんと実行に移すことが大事なのに、多くの人は信仰したり、崇拝したりするだけで、大丈夫だと思い込んで、何もしない状態に陥ってしまう。

その危険性だったり、危さを「私」は知っていたから、昔と同じように、貰った香炉と燭台を使って仏を祀るルントーの姿を想像し、そんなことをしただけでは何も変わらないのに、と心の中で笑ったわけです。

いつになったら忘れるつもりか。

作者魯迅が生きた19世紀~20世紀は、神の存在が消えた時代です。

「神は死んだ」と説いたのは哲学者のニーチェ。科学技術がすすみ、今までは信じられていた奇跡の数々があり得ない事だという考えがこの時代には知識者たちの間で持て囃されることに。もちろん、魯迅も知っていたのでしょう。

だからこそ、仏具を欲しがったルントーを見て、そんなものを拝んだところで何も救われることなど無いのにと、笑ったのです。忘れた方が良い。そんなもの、幻想にすぎないものなのだからと、思うのです。

けれど、ここでハッとします。

私の希望も、手製の偶像なのではないか……と。

つまり、闇雲に仏具を崇拝しているルントーと同じように、自分自身もまた、「人間は身分に関係なく、心を通わせられる存在のはずだ」という考えを、闇雲に信じているだけなのではないか。そう信じたいから、それが正しいと思い込みたいだけなのではないかと、自分の考えに、赤信号を点しているのです。

やもくもに、実体のないものを崇拝する。

ルントーは神や仏。それらが宿ったとされる、物理的な仏具を望み、

私は、希望。人が身分の関わりなく心を通わせられる存在であるという、信念を望んでいる。

物理的な物体を望んでいるルントーの願いは、物なのでお金さえあれば手に入ります。沢山作られていますしね。

けれど、私の望むものは、願いや信念。そして、実際にそれらを実現している人間達がいなければ、手に入れることが出来ません。

私が望む信念を、「僕もそう思うよ」と願う人がいて、実際に身分差など関係なく、心を通わせられる人達が出てこないと、実現しません。

他人を変えることは出来ません。変えられるのは自分と未来だけです。だからこそ、人々がそれを本当の価値のあるものだと認識し、自分を変えようとしなければ変わらない。そんなことが出来るのだろうかと思えば思うほど、溜め息が出てきてしまう、と言うわけです。

自分はそれが本当に良いものだと思っているけれど、それは私だけが思っているだけで、本当は誰もそんなことを感じていないのではないか。

私が、単にやみくもに信仰しているだけなのではないかと、不安になっているのです。

【希望は地上の道のようなもの】

-本文-

思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。

-解説-

ここまで積み重ねてきていると、この最後の言葉の意味が解りやすくなります。

希望なんて、あるかどうかも、もともとは分からない。

道も、誰も歩いていない大地には本来、どこにも道なんてなかったはずだ。

けれど、歩く人が多ければ、段々と踏み固められてすすみやすい平坦な道になっていくように、あるかどうかも分からない希望も、それを望み、それを願う人が多くなれば、誰もが望む希望という思いになっていくのだろう。

だから、そうなりたいと思う人を、一人でも多くしなければと、私は願っているわけです。

希望を希望で終わらせないために。

希望を、現実に変えていくために。

明日は、作者魯迅の生きた社会背景と共に、「故郷」のまとめを行います。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

 

 


スポンサーリンク



コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください