小説読解 志賀直哉「城の崎にて」その4 ~「人と違う」という孤独~


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こんにちは、文LABOの松村瞳です。

今回は、「城の崎にて」の四回目。

作者、志賀直哉の孤独についての解説です。

【天才であるが故の孤独】

 

短い部分ですが、最後のいもりの死に直面する前。主人公は一枚の葉に意識を奪われます。

この、一枚の葉。

単なる情景描写ではなく、人が何一つ気にならないものが気になってしまう、作者の感性の鋭さを描き出すのと同時に、人が気になるものが全く気にならないという、逆の孤独感を鋭く描き出しています。

すこし、想像してみてください。

人間は人に囲まれて生きる、集団的な社会的存在です。人がいなければ。相手がいなければ生きていけないのです。

そして、「人と一緒にいる」という事は、ある意味分かり合う、という行動。共感を得なければ、物理的に人と一緒に居たとしても、逆に孤独感は募っていくだけです。

解り合えない。

人と違うものが気になってしまい、逆に人が気になるものが全く心が反応しない状態がずっと続いたとしたら、貴方はどうなってしまうと思いますか?

自分が気になるもの。心惹かれるものが、周囲は存在していることすら気付かない状態が多いと知ったならば、それを誰かに貴方は話そうとするでしょうか?

話せば話すほど、人との違いが浮き彫りになるかもしれないのに。

そんな志賀直哉の心境を象徴的に表した、木の葉の描写を追っていきます。

たった一枚の葉に、あなたは心惹かれますか?

【一枚の桑の葉】

物がすべて青白く、空気の肌ざわりも冷え冷えとして、もの静かさがかえってなんとなく自分をそわそわとさせた。(本文より)

城の崎での滞在が続く中、心地いいと感じていた静かさが、自分をそわそわさせた。このそわそわ、という言葉がどんな状態を指すのか。

そわそわとは、何かしらで落ち着かない、という事です。蜂の死を見ていた時には、その静寂さや動かないもの。静止している姿に親しみを感じていた作者が、その静けさに落ち着かなくなってくる。

そうして、目に留まるのは今度は動かないものではなく、動くものです。

向こうの、道へ差し出した桑の枝で、ある一つの葉だけがヒラヒラヒラヒラ、同じリズムで動いている。風もなく流れのほかにはすべて静寂の中にその葉だけがヒラヒラヒラヒラとせわしなく動くのが見えた。(本文より)

動かないものではなく、動くもの。つまり、生きている物。生を持つ存在に、意識が向いている。そのことに、作者は不思議だと、素直に自分の心を言い表しています。

あれほど、静寂に、静けさに親しみを感じていたのに、何となく、その静けさが。静かすぎる城之崎の雰囲気が、どことなく落ち着かない。しっくりと来ない。

そんな時に、今まで気にもしなかったはずの、動くものに意識が引っかかる。

今までとは真逆の物に心惹かれる状態に多少怖い気持ちもあったけれど、自分の信教の変化に対する好奇心の方が勝った。そして、その葉をずっと眺めていたら、急に風が吹きました。

すると風が吹いてきた。そうしたらその動く葉は動かなくなった。原因は知れた。何かでこういう場合を自分はもっと知っていたと思った。(本文より)

【木の葉の意味】

風もないのに、揺れている葉。

この葉っぱの描写は色んな解釈が出来ると思いますが、厳密に文章だけで読みとるのならば、風は無いけれど、流れはある、と読みとれます。

つまり、風というほど強くは無いが、微弱な空気の流れは、存在していた。その流れに、木の葉は反応して、動いていた。

けれど、強い風になってしまうと、抗おうとしてしまうのか。勢いが強すぎて、木の幹にぴたりと葉をくっつけて動かなくなってしまうのか。それは解りませんが、他の物も動いてしまうような強いものには全く反応を示さなくなってしまった。




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その原因を自分は、知っている。そんな場面、今まで幾らでも出会ってきたと。

此処で言う葉は、志賀直哉の人生を物語っているのかもしれません。

普通の人だったら、気が付かない。気にしない、微弱な問題が、自分にはどうしても気になってしまう。どうしても、心に引っかかって、「それでいいじゃないか」と思いきれることが出来ない。

けれど、逆に皆が動揺し、大きく心揺らすような出来事には、自分の心はびくりとも反応しない。そんなこと、いくらでもあったと。

それを、わずかな風の流れには反応して、ヒラヒラヒラヒラと動くのに、色んなものが動く強い風には全く動かない木の葉に喩えている。

実際、皆が大騒ぎするような電車に轢かれた事故には全く自分は反応せず、(普通だったら、もう電車の音すら聞きたくないし、線路に近付きたくないと思うくらいはあり得そうなのですが、小説の本文では語られていません…汗)逆に、誰もが反応などしない、気にも留めない蜂の死骸や、串刺しにされた鼠の姿がどうしても脳裏から離れていかないのです。

それは別に今日昨日に始まったことではない。ずっとそうだった。

それは、観察眼や着眼点、そして感受性が強いが故の志賀直哉の苦しみが見てとれる場面です。

【作者の孤独】

自分が気にしている部分は誰も気にせず、誰もが気にするものに、自分の心は反応しない。

これは、人と分かり合う事が出来ないという、強烈な孤独をもたらします。

もしかしたら、自分の感覚は変なのではないのだろうか。周囲から、浮いているのではないのだろうか。けれども、この自分の感覚を裏切ることなど出来ない。どうしても自分の心を無視することは出来ない。

だからこそ、彼は、自分と同じように気になる人に伝えたくて、文を書き続けたのではないかと思います。

極端に描写を減らし、簡潔な文で、原因すらも明確にせず、淡々と、起伏ない文章で綴っているのも、それが彼の感じる心地いい文体であったから、同じように心地いいと感じる人達に伝えるために、筆をとり、書き続けた。

人と違う事は、個性的で良いことのように礼賛されていますが、その実、人と違う、と言う事は、共感を得ることが出来ない。解り合う事が出来ないという、孤独をもたらします。

多くの芸術家が孤独に苛まれてしまったのも、彼らが人と違った感覚を持ち得ていたからです。その孤独を抱えていたからこそ、人一倍、人に伝えたいという願望が強かったとも、逆説的には言えるのかもしれません。

そんな孤独に苛まれてきた、主人公「自分」。

この後、もう一つの死を体験して、結末へと向かいます。

続きはまた明日。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

続きはこちら⇒小説読解 志賀直哉「城の崎にて」その5 ~この世は生死さえも偶然で出来ている~


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