こんにちは、文LABOの松村瞳です。
福沢諭吉の有名な著作と言えば、「学問のススメ」ですが、有名な冒頭。「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。」と書いてあります。
この世の全ての人々は平等だと。けれど、本当に福沢諭吉が言いたかったことは、この冒頭の次の部分であると思います。この続きの部分と同じ精神で書かれた違う本からの文章を参考にしながら、日本の近代化の急激さがもたらした病を、解説します。
これは、現代、多くの場所で問題になっている精神的ストレスや、ノイローゼなどの心の病の原因ともリンクしている部分で、筆者の観察眼の鋭さが垣間見える部分でもあります。
【福沢諭吉の「日々のをしへ」】
「世の中にむづかしきことをする人を貴き人といひ、やすくことをする人を賤しき人といふなり。本を読み、物事を考へて、世間のために役に立つことをする人はむづかしき仕事にて、……されば人の貴きと賤しきとの区別は、ただその人のする仕事のむづかしきとやすきとによるものゆゑ、いま、大名、公卿、侍などとて、馬に乗りたり、大小を挿したり、形は立派に見えても、その腹の中は空き樽のやうにがら空きにて……ぽかりぽかりと日を送るものは大そう世間におほし。なんとこんな人を見て、貴き人だの身分重き人だのと、いふはずはあるまじ。ただこの人たちには、先祖代々から持ち伝への、お金やお米があるゆゑ、あのやうに立派にしてゐるばかりにて、その正味は、……賤しき人なり。」――これは福沢諭吉が維新のころ幼児のために書き与えた「日々のをしへ」の一節であります。(本文より)
福沢諭吉が、明治維新のころに書いたという、子供向けの本。
その中に、既に「である」論理と「する」論理に基づく解説が出ています。
で、古文もそうなのですが、難しい文章が出てくると、大概、読んでいる人は出てくる言葉そのままに理解しようとします。なので、簡単な言葉に言い換える。置き換える。
これだけでも、文章はすっきりと分かりやすくなります。
と言うことは、この文章も同じ。
仕事として難しい事をしている人。例えば、現代で言うのならば資格がなければ出来ない職業。特殊な技術を持っている職業と考えると、医者だったり弁護士だったり、会計士や税理士、科学者、建築家や、職人さんたちも入るかもしれません。
そんな、普通の生活をしている人には出来ない、努力で技術と知識を身につけ、それを仕事にしている。難しいことを生業としている人達を、貴い。つまり、偉い人たちだと言っています。
その逆。
誰にでも出来るような事を仕事としている人達を、賤しき人。つまり、とるに足らない人だと。
尊敬される人と、賤しい人の違いは、ただその人が日々行っている仕事の内容次第であり、日々本を読んで知識を貯め、その貯めた知識や経験を世の人の為に使っている人々が尊敬される理由であり、その人が行っている行動のみが判定基準だと言っています。
で、少々辛口な批評ですが、福沢諭吉って能力がないのに身分が上というだけでふんぞり返っている人々が大っきらいだったんでしょうね。
馬に乗ったり、刀をさしたり、偉そうに振舞っているけど、中身は空っぽだと。そして、どれだけ偉そうにしていても賤しいと言いきっています。
確かに、肩書だけ凄くでも、中身空っぽって、一番嫌ですよね。
実るほど 頭を垂れる 稲穂かな、ってこういうところにも当てはまる格言だなと思います。
「である」論理の身分社会にどっぷりはまって、何も行動しようとしない。学ぼうとしない人が偉そうにふんぞりかえっている社会に、福沢諭吉は腹を立てていたことが解りますし、この江戸末期。そして明治の黎明期に、近代的な思想をひろめた思想家たちがいたことを暗に示している事実も同時に解ってきます。
【日本の病】
日本の近代の「宿命的」な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靭に「である」価値が根をはり、そのうえ、「する」原理をたてまえとする組織が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されてきたところに発しているわけなのです。(本文より)
ここで、日本の近代化の致命的な問題点を筆者は書いています。
人間はすぐには変われません。そして、この前の章でも述べたとおり、近代化は様々なヴァリエーションが存在する。「である」価値と「する」論理が入り乱れ、どちらかに統一できるわけでもなく、混在しながら近代化が進んだと有りました。
そして、その混在は、現代も同じなのです。
「する」価値。行動する価値や、実力や技術、能力の有無によって社会を回していくことは、急激に生産性を高め、経済力を高めました。けれど、人の外見は簡単に変われても、中身の精神性は変われないもの。または、変化はゆっくりと現れるものです。
結果を出せるから。それを欧米が支持しているからといった理由で、方法を取り入れたけれど、その精神性にまだ日本人がなじんでいない。
または、「である」価値を元にする、身分的な態度や話し合いの仕方を譲らない人間達が、「する」論理を元とする組織を形成した場合、しっちゃかめっちゃかになるのは、目に見えていますよね。
だからこそ、日本は会社での上司が、プライベートな部分でも偉そうに振舞うし、仕事を離れて純粋に友人関係が保てず、類は友を呼ぶように同じような立場の人間でしか友達関係を形成することが出来ない。
身分制度は廃止されたはずなのに、業績を上げることを目的とした組織の中でも、身分が横行してしまう。実力ではなく、立場で偉さが決まってしまうという、おかしなことが色んなところで発生し、上司だから偉い、というように勘違いする人間達が生まれてしまうのです。
【「うち」的集団の形成】
続々とできる近代的組織や制度は、それぞれ多少とも閉鎖的な「集団」を形成し、そこでは「うち」のメンバーの意識と「うちらしく」の道徳が大手をふって通用します。しかも一歩「そと」に出れば、武士とか町人とかの「である」社会の作法はもはや通用しないようなあかの他人との接触がまちかまえている。人々は大小さまざまの「うち」的集団に関係しながら、しかもそれぞれの集団によって「する」価値の浸潤の程度はさまざまなのですから、どうしても同じ人間が「場所がら」に応じていろいろにふるまい方を使い分けなければならなくなります。(本文より)
学校カースト制もそうですが、人間は3人以上の集団になると、どうしてもグループに分かれてしまいます。学校のクラスでも、なんとなくグループって決まっていますよね。
そのグループの中でしか通用しないルールや言葉などがある筈です。例えば仲間内だけで通じる話題や、あだ名などがそれ。
けれど、そのグループから一歩外に出ると、仲間内で通じていた話題は全く通じないし、あだ名も通じません。むしろそれを話題に出すと、白けるという恐ろしい現象がでたりしますよね。
で、そのグループって、色んなところで形成されています。
学校の中でも、クラスの中での自分。友達グループの中での自分。部活での自分。委員会での自分。先生の中での自分、後輩に対する自分、先輩に対する自分。色んな自分が居ます。
その色んなグループの中で、「である」論理、「する」論理は入り乱れているわけですから、色んな対応を求められ、色んな言葉づかいをし、色んな態度を取ります。
それで、混乱するなという方が、むしろ無理で、良く対応して変えてるなと褒めた方が良いぐらい。
TPOに合わせて行動しろ、と求められていますが、それってかなり高等テクニックで、それに対応できないから、混乱し、ノイローゼになってしまうかも……と、明治時代に既に夏目漱石が指摘しているんですよね。
まるで、現代のうつ病や精神疾患に悩む私たちの姿を予言しているようでもあります。
【多種多様な仮面が必要な、現代】
この文章が書かれたのが、もうすでに50年以上前のことです。
けれども、その時既に指摘されていた危惧が、現在にも続いていて、見事に日本の病を言いあてています。
多種多様な自分を作る必要があり、まるで仮面を付け変えるように、様々な人に対してその場で瞬時に対応を探し出し、相手の不快にならないように言葉や態度を選んでいく。
それは素の自分が出せない時間が多いと言うこともできます。素の自分を出したら、無礼に当たるかもしれない。だからこそ、仕事や学校、部活などの組織で知り合った人達は、それ以外の関係性に発展させることはほとんどなく、先輩はずっと先輩ですし、後輩はずっと後輩として付き合うことになっている人も多いはず。
一人の人間に、子供である面、学生である面、先輩である面、後輩である面、様々な仮面が必要とされているのが現代であり、組織が形成されるごとにその仮面は増えていくわけです。
猫をかぶる、という「表面を取り繕う」という言葉がありますが、この評論で喩えるのならば、色んな猫の着ぐるみを用意しないと、対応できないということになりますよね。
そんな中で、もうどれをつけたらいいか、多すぎてわかんなーいっっ!! ってなるのも、ちょっと理解できる気がします。
貴方はどれだけ仮面とか着ぐるみ、持ってますか?
混乱してません? 大丈夫?
な、感じで、そんな混乱の日本。大丈夫?
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