評論文解説『「である」ことと「する」こと』丸山真男著 その6~業績本位という意味~


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こんにちは、文LABOの松村瞳です。

今回は、「する」論理で形成されている団体。グループとはどういうものなのかを説明していきます。「である」論理の身分社会は、生まれた時から決まっていて、その身分にふさわしい振舞いを求められ、それを会得することが生きることでした。

ならば、「する」論理の団体、社会とはどのようなものなのでしょうか。

会社って、何のための団体でしょうか?

【「する」論理の社会は目的重視】

「である」論理から「する」論理への推移は、必ずしも人々がある朝目ざめて突如ものの考え方を変えた結果ではありません。これは、生産力が高まり、交通が発達して社会関係が複雑多様になるにしたがって、家柄とか同族とかいった素性に基づく人間関係にかわって、何かをする目的で――その目的のかぎりでとり結ぶ関係や制度の比重が増してゆくという社会過程の一つの側面にほかならないのです。(本文より)

身分社会から、近代社会への推移は、ある日目ざめて始まったわけではありません。

絶対王政時代のフランスが、あれだけの革命を経て、やっと共和制を手に入れた筈なのに、ナポレオンがちょっと頑張ったからと言って、権力を与え、また帝国制に戻るという、ある意味ぐたぐたな歴史的過程を経ていることからもわかるように、「である」から「する」に移行するのは、それだけ過程を経なければならないのです。

そして、社会が多種多様に変化していく中で、複雑になり、身分社会では全く関係することのなかった人達と関わり合いにならなければ生きていけない社会がやってきた。

身分に変わって、近代で横行したのが、平等です。

平等な社会の中では、人間関係も変わってきます。その関係は、何かをする目的で集まるグループの中で繋がる人間関係だと、筆者は分析しています。

確かにそうですよね。

近代社会を代表する、機能集団。つまり、何かの目的を果たす為に集まった団体の事なのですが(機能=目的を果たす、と考えましょう)、現代社会の団体は、ほぼこの理論が根底に存在します。

会社は、業績。つまり、お金儲けを目的とした団体です。
政党は、国を思い通りに動かす為に集まった団体。
組合は、言葉的な意味ではなく、出資をし、共同事業を営むことが目的の経営体系のこと。
教育団体は、社会が望む優秀な人材を作り出すことが、目的です。

団体、グループとは、目的を果たす為に、存在し、目的を達成するために必要だから、集まるのです。その根底は、「する」論理が機能しています。

部活とかも、そう。

試合で勝つためだったり、楽しい時間を過ごす為だったり、充実した学校生活の為だったり、そこは人によって目的は変わるのでしょうが、何一つ目的も無しにグループを作り出すことは、全くありません。

近代の団体は、全て何かしらの目的を果たす為に存在するのです。

ならば、「である」論理の団体は、目的が何もないグループ、とすると、解りやすいかな。

常に対比で考えると、より理解が進みます。

【会社の上司は、上司だからえらいのではない】

封建社会の君主とちがって、会社の上役や団体のリーダーの「えらさ」は上役であることから発するものではなくて、どこまでも彼の業績が価値を判断する基準となるわけです。(本文より)

身分制度って、一つ上の身分は何が何でも「えらい」です。どんなに君主がクソであったとしても、無能であったとしても、馬鹿であったとしても、「えらい」。

こればっかりは変わりません。どんなにむかついても、身分は絶対です。どうして「えらい」のかと、考えることすらタブーでした。

けれど、近代社会は目的を果たす為に集まった集団です。

だから、目的にそくしていない存在は、「えらく」ないのです。会社の社長は、あくまでも金儲けの能力や業績が素晴らしいから「えらい」のであって、その能力がない人間は「えらく」ない、のです。

だから、先生も生徒の能力を引き出せない人は、「えらく」ない。能力重視のとっても辛い社会なんですけど、でも、そんなの言いだしたら絶対に先生から嫌われるし、会社だったら社長の起源損ねたら、解雇されたりとかありますよね。

近代社会の理念と違うじゃないか!! という文句、聞こえてきそうです。うん、確かにそうだ。

大丈夫。筆者はちゃんとそこらへんもカバーしてくれています。

【仕事の上下関係は身分的になりがちになるのは、何故なのか】

社長や上司が仕事を離れても「えらそう」だったり、先生が「えらそう」だったり。

能力ないのに、なぜかその立場に付いている人が「えらそう」となるのは、何故なのか。

本来、目的の元に集まっている団体なのだから、その目的を果たしている時間以外は、つまり勤務時間外ならば、上司と部下、先生と生徒、という関係はなくなるはずです。




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けれど、特に日本はこれが中々出来ない。そこに、ちゃんと筆者も言及しています。

もし日本で必ずしもこういう関係が成立していないとするならば、――仕事以外の娯楽や家庭の交際にまで会社の「間柄」がつきまとうとするならば――職能関係がそれだけ「身分」的になっているわけだといえましょう。(本文より)

人間って、そんなに器用じゃありません。

一つの関係で上下が決まってしまうと、やっぱりその時間帯だけ上下が存在し、それ以外はフラットな関係を構築できるというのは、中々出来ない事です。

それが身分的になってしまうのは、身分で判別し、対応を決めてしまうのが楽だからです。考えなくていいし、楽だから、それに流れてしまう。だから、勤務外でも自分は「えらい」と勘違いしてしまう人も、居るのです。

人間って、そう考えると結構単純だし、楽な方に流れていくんだなって解りますよね。

【変化は様々なヴァリエーションがある】

この段の冒頭で、筆者は変化はある朝目ざめてみたら、ガラリと変わるわけではない、ということを述べています。

「である」論理から「する」論理へ。身分社会から、目的重視の近代社会へ。権威から、能力重視へ。

色々な分野で変わろうと思っても、その変化のスピードは様々です。変わりたいと思っても中々変われなかったり、変わったはずなのに、また逆戻りしてしまったり、きちんと決めた筈なのに、実際は誰も守ってなかったり。

場所や集まる人々。文的な背景や、様々な要因で変化が早く訪れたり、遅くなったり、停滞したり、巻き戻ったり、色んな過程がある。

そんな変化の過程が、ヴァリエーションとしてあるのが、現代なのだと筆者はまとめています。

必要な部分で、全然変化してなかったり、それほど必要ではない部分で、物凄く必要以上に変化していたり、本当に様々。そして、それが人間の集合体の社会というものなのだと。

これって、社会のことを話していますが、社会を形成する人間のことですよね。

人って、急には変われない。変われても、徐々に変化は訪れるものです。急激に変わりたいと皆、願いますが、人間って結構複雑で、怠けグセがあって、変化を嫌う存在なんですよね。

今日はここまで。

続きはこちら⇒評論文解説『「である」ことと「する」こと』丸山真男著 その7~日本の急激な「近代化」~

ここまで読んで頂いてありがとうございました。


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