評論文解説「である」ことと「する」こと 丸山真男著 その8~「する」価値と「である」価値との倒錯~

「である」ことと「する」こと

こんにちは、文LABOの松村瞳です。

さて、ここら辺からまとめです。まとめなんですけど、このまとめが物凄く分かりにくい。ので、解りやすく分類します。

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【この矛盾って?】

この矛盾は、戦前の日本では、周知のように「臣民の道」という行動様式への「帰一」によって、辛うじて弥縫されていたわけです。(本文より)

はい、まずこの部分の冒頭ですが、「矛盾」という言葉から始まっています。

国語の問題として、「不思議な」とか「矛盾」とか「逆説」とか、「二律背反」とか、そういった特徴的な表現がされる時は大抵問題になります。特に記述。

で、なぜかここをしっかり説明できない人が多いので、確認しておきましょう。

矛盾って、辻褄の合わない事です。漢文の基礎でやった盾と矛ですよ。

だから、ここまで話していた、辻褄の合わない事を考えれば良い。

「する」論理。つまり、目的重視で結果を出す為に集まった集団であるはずなのに、目的を果たす為に付けたはずの役割が、まるで身分的な要素を帯びてしまうこと。「である」価値が入り組んでしまうこと、です。

本来は目的を果たす為に集まった団体なのだから、その目的を離れれば、その中での役職は関係が無くなるはずです。けれども、仕事を離れても上司は上司だし、学校を卒業しても、部活を引退しても後輩は後輩、先輩は先輩です。

目的重視の近代社会ならば、その団体から離れた瞬間に役割から解き放たれても良いはずなのに、そうはいかない。団体の中だけでの役割のはずなのに、日常の中にもその役割が浸透してしまうし、そうらしく振舞ってしまうのは大きな矛盾です。

ここをしっかりチェック。

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【「臣民の道」とは?】

で、もうひとつここの部分でのポイントは、戦前の「臣民の道」です。

周知のように~と書かれていますが、全く周知ではないですよね。筆者の丸山さんは大正・昭和・平成を生き抜いた人です。だから、彼にとっては「周知」の事なのだと思いますが、現代で読む高校生にとっては、「何それ、美味しいの?」ぐらいの感覚だと思います。

けど、それでめげてちゃ読めないので、「臣民の道」って何? という話になりますよね。

要するに、明治時代に要求されていた、天皇陛下の「臣民」として相応しい振舞い、ということ。

戦前の民衆の心の支えのようなもの、と考えてください。理想的な人物、としても良いです。

急激に近代化し、身分や権威が生きていた時代から実力主義の世界になって混乱するけど、それよりももっと根幹として、「臣民」でありなさい。という共通の観念があったから、辛うじて混乱も訪れず、心理的負担も無かったと言いたいのです。

確かに、権威重視か、目的・結果重視か迷っている事よりも、もっと大事な「臣民」として相応しい考え方や振舞い、態度があるだろう。広くいえば道徳や強固な常識のようなものが確かにあったとしたならば、それに従っていれば良いだけです。

潜在的な混乱はあったとしても表面化しづらく、また意識もしなかったことでしょう。

それが戦後に一気に崩れたことによって、精神的な拠り所が無くなったために、問題が沢山出てきたと言っているわけです。

スポーツ漫画とかでも良くありますよね。心が折れると、強くてもグダグダに崩れていく、あんな感じ。精神的支えって、結構大事なんです。信じられるものが瓦解すると、人間は一気に崩れてしまう。逆もしかりです。心が折れなければ、人は頑張り続けることが出来る。

【厄介なもの】

むしろ厄介なのは、「『する』こと」の価値に基づく不断の検証がもっとも必要なところでは、それが著しく欠けているのに、他方さほど切実な必要のない面、あるいは世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部類では、かえって効用と能率原理がおどろくべき速度と規模で進展しているという点なのです。(本文より)

ここの部分は、例示を考えてみるとかなり分かりやすいです。

抽象⇒具体に落とし込むことが出来るのか。ここをしっかりと考えてください。

「すること」の価値。

例えば、常に結果が重視される場面。

政治や法律、司法などの分野や、企業の経営や売上などは、常に結果重視です。ある意味、近代の理念を支え、それが色濃く出ている分野であるはずなのに、なぜかこの分野では、目的を重視し、結果を重視する姿勢が欠けていて、なぜか「議員先生」だから「偉い」とか、「社長」「専務」「部長」「上司」だから「偉い」という価値観が横行している。

逆に

結果だけ・効率性だけを重視すると、問題が出てくる場面。

科学の研究に代表されるように、様々な分野の研究は、数年、数十年かけて実るものが殆どです。なのに、直近の成果を求められ、採算が合わなかったから。効率が悪いからと切られていたら、将来の発展を捨てることになる。

教育もそうです。

結果を出さなければならない分野であることは確かだけれども、結果重視、例えば点数だけを必死に上げることに偏重すると、テスト以外何も出来ない人間が出来あがるかもしれない。

結果や目的を重視すると、人として守らなければならない道徳性や仁の心など、途端に崩れていくのが目に見えてきます。効率性、合理性だけでは破綻する場面は他にも沢山あるのです。

けれど、そこまで「する」論理が入り込まなくてもいい部分で、「する」論理が過度に入り込んでいる。

その例示として、筆者は二つ、挙げています。

【旅館からホテルへ】

日本式の旅館は、一部屋を客として、借り切ります。

その部屋の客であるのだから、その部屋で食事を取り、その部屋の中で眠る。サービスの享受(喜んで受け取る)権が、その部屋の客だから発生しています。「である」論理です。(流れ出る、とは顔見知りの客ほど、部屋の中以外でもお客さんとしてのサービスを受けられるようになると言うこと。泊まる日以外で、旅館の外であったとしても、女将さんから丁寧な扱いを受けられるということです。)

それが目的別。

つまり、寝る時はベッドへ移動。

食べる時は、レストランへと、目的別に分けられた場所に向かう。行動を中心に部屋を分けている、「する」論理で区切られているホテルへサービスが移動するのは、効率的だし、便利だからと、ある一定の理解は示しています。

ここの部分。なぜか「説明しなさい」と良くテストに出るので、要チェック。

【休日の例示】

筆者が問題にしているのは、休日の受け取り方です。

休日は、予定ばかりを詰めて一生懸命動いている平日の義務から解放されて、「何もしなくても良い状態の日」であったはずなのに、現代の消費社会は、休日にこそ予定が入っていなければだめ、という雰囲気がある。

あれですね、「日曜日、何してたの~?」と週明けのクラスで訊かれ、「寝てた」と答えると、「えー、どこにも出掛けなかったの?」とまるで出掛けなかったのが悪かったことのように訊かれる、あれです、あれ。

夏休み・GWにどこにも旅行に行かなかった。家でゆっくりと休んでいる事が許されないような世の中になってきたのは、どうなんでしょうねと筆者は言っているんですね。

旅行いくの、駄目なの? という突っ込みは無しで(笑)好きでいってんだから、ほっとけよ。ストレス発散なんだよという反論も、取りあえず言いたくなるのは分かるけど、横に置いておいて、筆者が取りあえずそう考えている事を理解します。

「休日」であるはずの場所に、旅行「する」ことを過度に要求するのは、どうなんだろう、と。

【学芸のあり方】

もう一つの例示は、学芸のあり方です。

学問と芸術。

この二つは、効果や実用性、合理化、効率性からは、最も遠い分野だと言ってもいいかもしれません。先ほどあげた科学者の研究のような分野です。

けれども、そこでも論文の内容よりも、どれだけ書きあげたかで成績が決まってしまうと歎いているアメリカの友人の嘆きを語っています。

本来、内容の良さを判断するはずの分野で、数や量の観点で、優劣を競わせるのはどうなのだろう、ということですね。

この学芸の在り方の話は、先に続きます。

今日はここまで。

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