今回から、論理国語の芸術論の基礎。基本とも言うべき、清岡卓行さんの「ミロのヴィーナス」(数研出版)を解説します。
両腕を失ったミロのヴィーナス。
ヴィーナスとは、美の女神のことです。
【古典と共通する芸術論】
この、芸術論。
実は、古典のある文章で、非常に似たような同じ論旨のことを述べている人が居ます。
それは、徒然草の兼好法師。
約700年前の法師と、現在の評論家が全く同じ様なことを述べている。切り口は全く別なのですが、「完璧なものが美しいのではなく、欠けているものこそ、美しい」という趣旨は全く同じものです。
けれど、芸術論と聞くとハードルが上がってしまうのか、殆どの生徒たちはこの文章を読むのをとても嫌がります。
けど、要は何を美しいと人は思うか、って事なので、そんなに肩肘張らずに読んでみましょう。芸術論って、意外に面白いです。
と言うより、人の美意識って面白いなぁ、って思いながら読むと、案外いいかも知れない。
人って、1000年くらいでは、物の考え方や感じ方って、全く変わらないんだなって事が、良く理解できます。
では、本文です。
【第1~2段落】
-第1段落 石像が実際の人のように魅力的な存在であること-
ミロのヴィーナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかったのだと、ぼくはふとふしぎな思いにとらわれたことがある。(本文より)
はい、びっくり論旨がしょっぱなに来ました!
欠けている方が美しい。
ミロのヴィーナスを、「彼女」という風に呼んでいるのもそうですが、えーと、筆者の清岡さんにとっては、「彼女」と言いたくなるぐらい、ミロのヴィーナスが特別なんですよね。
えっ?? ただの石像を「彼女」って、キモイ!!
これ、実際の生徒が率直に言ってくれた言葉です。うん、本音をありがとう。
嫌味でも何でもなく、ちょーっと危ない表記の仕方だったりするんですが、これに気付けるって事は文章が良く読めている証拠です。で、筆者は危なくもなんともありません(笑)(すみません……)
それだけ、ミロのヴィーナスの美しさに、惹かれた。魅力的だった。心を捉えて離さなかった。
それだけのことです。
で、そういう存在って、人にはそれぞれあるものです。
まぁ、俗に言うオタクと呼ばれる人たちは、解る感覚なのではないかなと。
漫画やゲーム、アニメの作られたはずのキャラクターを、まるで実在するかのように話したり、思い浮かべたりする事ってある筈だし、架空の存在を身近に感じたり、または今現在の社会なら、ロボットを妙に可愛いと思ったり、Siriの受け答えで遊んだり。
人間じゃない存在でも、例えば小さな子供がクマのぬいぐるみを友達と思って大切にしたり、心惹かれればそれは人にとって大事な存在になります。
それが筆者にとって、ミロのヴィーナスだった。ただ、それだけのことです。
-欠損した姿が美しい-
そして、特徴的なのは、筆者が心惹かれているのは、両腕を無くしたミロのヴィーナスです。
こんなにも魅惑的であるため、と本文に書かれていることから、筆者の頭の中では、
ということが、解ります。
普通、美術品って完成された姿を美しい、とするのが本来であるはずです。
なのに、筆者はそれを真っ向反対の姿勢を取っている。常識論、一般論の否定です。
と言うことは、この常識とは新しい視点。と言うことになります。
物の見方の新しい視点です。
完璧が良いわけではない。
さて、何故そう言えるのか。
-第2段落 ミロのヴィーナスの説明-
第2段落の冒頭では、ミロのヴィーナスがどのような経緯で生まれ、何世紀に発掘されたのかを書かれています。
19世紀に農民の手で掘り出された像なんですよね。
農民さんもびっくりしただろうなぁ。と、ちょっと的外れなことを思ってしまいます。
日本的に考えると、田んぼ作ろうと土を掘っていたら、仏像が出てきた、ぐらいの感覚でしょうか。
-時代を超えるために無くした両腕-
彼女はその両腕を、自分の美しさのために、無意識に隠してきたのであった。よりよく国境を渡って行くために、そしてまた、よりよく時代を超えて行くために。(本文より)
はい、なんのこっちゃら良く解らない部分がやってきました。
自分の美しさのために、無意識に隠した???
石像が?? 意志を持たない存在が???
と、疑問が頭にぶわっっ!! と浮かびそうな勢いですが、先ほど言ったように、筆者にとっては、ミロのヴィーナスは人と同じ存在です。
彼に美しさを教えた存在、とも言えます。
ならば、何故、「彼女」が腕を無くすことが。無意識に、隠してきたことが、時代をこえ、国境を超える事に繋がったのか。
ここではまだ、その理由は明らかにされていません。明らかにされていないから、ここでは解答を無理矢理出さない。
大丈夫。
続きに必ず解答が出てきます。
そこを確実に押さえてください。
事実はどうあれ、少なくとも、筆者はそう考えている。
それを、一応受け止めておく。
-特殊から普遍へ-
このことは、特殊から普遍への巧まざる跳躍であるようにも思われるし、また、部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉迫であるようにも思われる。(本文より)
はい、来ました!! 抽象論のオンパレード!!
こういう文章がくると、皆、教科書放り投げたくなる部分です。
けれど、ちょっと耐えて頑張ってみましょう。
だから、その特殊性が受け止められるのは、一部だったりするし、時代の流れの特殊な一時期だったりします。
一部のファンに熱狂的に人気のあるバンドとか、ありますよね。それと一緒。
逆に、普遍って何なのか。
だから、時代が変わっても通じるものだったり、全ての人々に愛されるもの。当たり前に存在しているもの、の意味。
例えば、特殊なのが、今現在人気なバンドの曲、だったりするならば、普遍的に愛される曲、と言うのは、童謡の「ふるさと」だったり、「さくらさくら」だったりの曲。
たとえ一部の人に熱狂的に愛されていても、そのファンを除けば、知っている人は少ないのが特殊ならば、「ふるさと」や「さくらさくら」は、日本人であればだれもが知っていて、子どもから老人まで皆が一緒に歌え、更にそれは百年後も変わらないと思えるものです。
なので、
と、読みかえる事ができます。
両腕を失ったことで、ミロのヴィーナスは、普遍的な美しさ。つまり、永遠的な美しさを持つことが可能になったと言うのです。
【第1.2段落まとめ】
-欠損した像の美-
完成されたものを美しいと私たちはしてしまいがちですが、実は「美」というものは、様々な要因が絡みます。
その中で、最たるものがこのミロのヴィーナス像。
たまたま偶然、両腕が欠けた像が見つかり、それが現在まで「美しい」とされる価値を私たちに与えてくれているのは、なぜなのか。それは、欠損しているからこそ、惹きつけられるものがある、と筆者は定義しています。
-普遍性の美を手に入れたヴィーナス像-
「美」というものは、時代、文化、風習、環境によってさまざま変化します。
なので、「普遍性」の「美」というものの存在は、実は実現しづらいものです。
いつの時代も、誰であったとしても、「美しい」と感じさせる何かを、ミロのヴィーナスは手に入れたのです。
さて、それは何によってなのか。
その続きはまた明日。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
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