評論文を読めないと得られないもの 3つ

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本って、無限の可能性を秘めています。そう、「読めれば」

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【地獄のような評論文】

-評論文を読む生徒の本音-

「評論文なんてつまらない」

「何書いてあるか、分かんないし」

「別に、分からなくても俺の生活には全く問題ないし」

これって、本音ですよね。

誰もが一度は思ったことがあるんじゃないでしょうか?(笑)

実はね、私自身も思ったことあります。実は。

今でも、疲れている時やどうしても読まなくちゃいけない問題文を読むときに、それがすっごく解りづらい物だったりすると、「いらっ」としてしまうこともしばしば。

だから、生徒のこんな本音は、「だよね~」と思わず同意したくなります。というか、積極的に同意します(笑)

でも、本当に評論文って価値のないものなのでしょうか?

もしかしたら、価値のあることが書いてあるものを、自分が一読して理解できないから。分からないから、そんな能力のない自分を守るために、「そんなもの、価値がないものだ!」と言いたくなるんじゃ、ないでしょうか?

そもそも、本当に価値のないものだったら、どうして高校受験や大学受験で、「国語」ってものが課されているのか。

日本語の習得なら、小学校で終わっているはずなのに、しつこいくらいにどこまでも国語ってついて回ってきます。

古文や漢文は避けられても、現代文は絶対に追っかけてくる。

ホラー映画並みの恐怖ですね。13日の金曜日の、ジェイソンばりのしつこさです。(古いかな?)

個人的に、数学に対しては本当に現役の時にこのような感情を抱いていました。「こんなの勉強して、何になるの?」と。
(参照⇒数学のススメ ~数学偏差値学年最下位だった私が、高等数学をやり直したわけ その1)

けれど、評論文をこうやって毎日解説しながら、読み直し、何度も何度も読んでいると、毎回と言って良いほど気付くことがあるんですよね。

それって、評論家の方々が書いている文章は、私たちを悩ますためではなく、私たちの生活を豊かにするための情報や、考え方の提示、物の見方の視点の切り替え方、受け止め方の変化など、様々な情報を提供してくれている、と言うことです。

人の学びって、生涯終わることはありません。むしろ、大学、社会人になった方が、多いほどです。(参照⇒脳の無限大の可能性を説いた評論文「可能無限 解説 その1」)

そして、大人になればなるほど、専門職に就かない限り、人間の学びは書物や文章を通して行われるものです。その時に、「言葉は分かるけれど、内容が全く頭に入ってこない」となってしまったら、そんな人に誰が仕事を与えてくれるでしょうか。

何を読んでも、何一つ学びとれない。解らない人間に、何か新しいことができるでしょうか。

数学は問題の理解と論理的思力を。
そして、評論文は他者の意見を取り込み、受け止める練習のようなものです。

ひとつひとつは決して難しいことではありません。

分からないなら、分からないでも良いんです。大事なのは、「分からない」をきちんと表に出して、「だったら分かるようにするには、どうすればいいのか」に、どうやったら進めるのか。

その方法を考えられるかどうか、です。

今の貴方が分からないからと言って、貴方の全てが駄目であるわけではありません。

また、同時に明日の貴方が、解らないわけでもない。

大丈夫。国語の授業が良く分からない、なんて皆経験していることです。面白くないってことも、ちゃんと思って、感じても大丈夫。

でも、そのままで放置していると、とんでもないことになります。

言葉は分かるけれど、書いてあることが理解できない。

そう、なりたいですか?

-能力がないと落ち込むのではなく、抜け出し方を学ぶこと-

何時まで経っても、文章で書かれている事が理解できない人間のままで、居たいですか?

「分からない」から逃げ続けている限り、それはずっと追っかけてきます。大丈夫。立ち向かう方法はあるし、分かってしまえば案外簡単です。

けれど、逃げ続けた時にどうなってしまうのか。それがとても恐ろしいことであることを、理解しましょう。全てはそれからです。

評論文を読めない、読まないと、得られないもの3つ。

逆に言うのならば、これは読める事で得られるものです。

それを、中学・高校・大学の学生時に能動的に授業で得られるものとしていくか、それとも「自分には用のないものだ」とスルーするか。

同じ時間を有意義に活用できるかできないかは、貴方次第です。

-地獄から天国へ-

昔話で、「天国と地獄の長い箸」というものがあります。

ある人が地獄と天国を覗いた時、ちょうど食事時で、同じ様な食卓が地獄も天国も並んでいたけれど、地獄の人々はやせ細っていて不機嫌そうだったのに、天国の人々は笑顔でとても嬉しそうに食事をしていた。

両方とも食べ物が沢山あることは一緒なのに、どうして? と思って良く見直してみると、それぞれ手に長い箸がくくりつけられてた。

地獄の人々は、その長い箸で食べようとして、腕よりも長いから全く食べ物を口に入れる事が出来ずにいた。

天国の人々は、向かい合う相手の口に食事を運んで、皆が幸せそうにしていた。

まぁ、良くある寓話なんですが、ポイントは、この「条件が一緒」であったということ。

受け取りようや、考え方、思考の幅の広さから、条件が一緒なのに、全く違う結果になった、というこの地獄と天国の話。

これって、なんとなーくなんですが、学校の授業とか、受験とか、私たちの日々生活と似てるなぁ、って思うことはありませんか?

目の前に文章はある。

日本語は、ちゃんと理解できている。

けど、読める人と読めない人の差が生まれてしまう。

これって、天国と地獄の長い箸に似ています。

天国の人たちは、長い箸を使って食べられる方法を考え出した。

地獄の人たちは、今までやってきた食事の仕方に固執して、それだけを繰り返した。

周りの状況は、全部一緒になのにやり方が違っただけで、得られるものが得られなかった。たったそれだけです。

必ず、「読めない」「理解できない」「面白くない」から抜け出せます。

方法はちゃんとあります。

それだけは確かです。

だからこそ、読めないまま放置すると、これだけの損害があるということを意識して、続きを読んでみてください。

 

【その1 知識】

-評論文は知識の宝庫-

まず、評論文は知識の宝庫です。

何せ書いている人は、その分野の専門家が殆ど。学者であり、実際の科学者である人たちも居ます。

そして、その中で研究を繰り返し、発表した物の中から、高校生が知っておく上で有益だとするものをチョイスしてくれています。

例えば、自分の能力が無限の可能性を秘めているものだとか
(⇒参照可能無限 解説 その9 まとめ)

自然物を、西洋と日本では捉え方が違うこととか、
(⇒水の東西 解説 その6 まとめ)

法律や政治のシステムをどのように回してくか、だとか
(⇒「である」ことと「する」こと まとめ)

自分に才能がないのは、本当に才能がないからではなく、あなた自身が自分の存在自体を卑下しているからである、といった驚きのもの
(⇒「贈り物」としてのノブレス・オブリージュ 解説 その5 まとめ)

これ、全て高校の教科書に載っているものです。

それを読むチャンスと、理解する機会を学校は与えてくれています。それを否定するのはとても勿体ない。

必要なのは、読み方をマスターするだけ。その方法を身につけるだけのことです。

-違う分野の知識を取り入れるチャンス-

人は、普通に生活していると、どうしても視野が狭くなってしまいます。

けれど、人の文章を読み、彼らが研究したこと。気付いたこと。物の見方や視点、受け取り方など、自分一人だったら決して掴みとれない事を、本は。文章は教えてくれます。

他者が行ったことや、研究を取り込むこと。そして、実践するには、先ず理解することがどうしても必要になります。

どんな分野でも、最終的に相手に何かを伝えるのは、文章になります。

その文章が読めない。解らない、と言うことは、それだけ理解できるものの幅が狭くなるということ。

新しいことを、取り入れられなくなることにも繋がっていきます。

【その2 解らないものに取り組む姿勢】

-評論文は基本、解らない事だらけ-

「解ることを書いてくれればいいのに」

そんな風に言う生徒の言葉を聞きますが、評論文は基本的に、自分達の知識の外にあることを伝えようとしてくれているものです。

専門家が書いていることですものね。

けど、解らないものを避けて通っていたら、どうなってしまうのか。自分の知識の幅が狭くなってしまいます。

だからこそ、解らないもの。困難であるものにどうやってアプローチするのか。

その方法を、勉強を通して経験を積むことができます

-真摯に調べることで得られるもの-

評論文は、基本的に専門用語が多用されています。

中学生も、高校受験の説明文になってくると難解なものが増えてくる。

言葉もそうです。それを鵜呑みにし、なんとなく解ったふりをして通り過ぎると、結局訳が解らなくなる。

だからこそ、解らないものに対して、丁寧に調べる謙虚さが、必要となってくるし、その行動をしていくことで、謙虚になっていきます。

解らないものは、素直に調べる。

このたった僅かな、些細なことでも、積み上げていくと大きな違いとなってきます。

【その3 自信】

-文章に対する恐怖感の消失-

全ての物事の伝達は文章によって行われます。

それは、私たちが積み上げてきた文明の中で、一番手軽で、かつ正確に物事を伝える事の出来る道具が、言葉だからです。

これは、学校の生活だけでなく、生きていく上でとても大事な力となります。

大量の文章を見て、「げっ……」と思うか、「よし、読むか」と思えるか。

それって、結局のところ評論文を読み解けるかどうかに関わってくると思うんですよね。

-時間をかければ理解できる-

評論文は難解なものが多いです。

それは否定しません。

けれど、伝わらないものが書いてあるわけではない。こちらが努力をすれば、必ず理解できるものが書いてあるのです。

一読して解らなかったとしても、調べ、向き合い、何度も読み返すうちに理解できることを経験として積んでいれば、それは自信となります。

解らないものであったとしても、分析したり、分解したり、調べたり、構造を確認したり、書きだしたりすれば、必ず理解できる。

理解できるように、読む方法を。技術を身につければいい。

そう感じることが、出来るようになっていきます。

【まとめ】

評論文を読めないと得られないもの3つ。

その1 知識
その2 解らないものに取り組む姿勢
その3 自信

の三つです。

それを得られる機会を、棒に振るか。それとも、得るための挑戦の時間とするか。

貴方の時間です。

自分で決めてください。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

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