ミロのヴィーナス 解説その5


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ミロのヴィーナス 解説その5。

【欠損の美しさ】

ここまで何度も何度も述べてきたように、筆者は「欠けている像」が美しいと言っているわけではありません。

欠けている事によって生じる、人の意識の変化。

つまり、ミロのヴィーナス像の欠けた腕にどうしても意識が向いてしまい、「どんな腕だったのだろう」「こんな状態だったのではないか」と考える、人間の思考。

そして、それを促したヴィーナス像との間に、相互作用のコミュニケーションが発生している。

腕がなければ、人はそんなことを全く考えないし、そこに注目すらしない。

けれど、皮肉にも腕を無くす、という美術品として致命的な欠陥を抱えた方が、より人の意識に残り、影響を及ぼす力を持つようになった。

これがある全体性への肉迫です。

肉迫とは、限りなく近づいた、と言うこと。

それは、ミロのヴィーナスを見て、「へぇ~」で終わって、全く心に引っかからない人もいるかもしれないという、可能性を残したからこそ、肉迫、という言葉を筆者は使いました。

全員全てではない。けれども、多くの人はどうしても無くなった腕のことを考えてしまう。(ある全体性への肉迫=殆ど全ての人が同じことを考えてしまう=無くなったヴィーナスの両腕)

しかも、強制ではなく、あくまで自然にそれを成し遂げてしまう。

その力を持っているからこそ、復元案は全くと言って良いほど的外れであり、無益な行動だと言い切っているのです。

復元された腕がどれだけ美しかろうが、どれだけ意外性に満ち満ちていようが、それこそ、腕が復活したことで、人に対しての影響力は薄まってしまう。つまり、感動が無くなってしまう。

そんなことは駄目だ。そんなことは許せない。

と、筆者の主張は続きます。

では、教科書抜粋の最後の部分を読んでいきましょう。

何故、ヴィーナスが無くしたものが腕でなければならなかったのか。その考察です。

【第6~7段落】

腕は、手は、世界と繋がっている

-両腕が無くなったことで生まれた感動-

ここで、別の意味で興味があることは、失われているものが、両腕以外の何ものかであってはならないということである。両腕でなく他の肉体の部分が失われていたとしたら、ぼくがここで述べている感動は、おそらく生じなかったにちがいない。(本文より)

両腕以外が欠落していたとしたら、筆者はここまで感動していなかったはずだと、述べています。

「両腕が無くなっていた。」

そのことが大事で、他のどの部分が欠落していたとしても、同じ様な感動は生まれなかった。

他の部分が欠落していたとしたならば。

本文で挙げられていた例示は、眼、鼻、乳房、などが欠けていて、両腕がちゃんとついていたとしたならば、感動は生まれないと、筆者は断言しています。

生命の変幻自在な輝きなど多分あり得なかったのである。(本文より)

この「生命の変幻自在な輝き」とは、これまでの文章を読んでいれば理解できると思います。

変幻自在、と言うことは、如何様にも変わることができる。つまり、欠落した両腕の姿を、それぞれ個人が頭の中に理想図を描き出す。それは、確かに鑑賞者の数だけ存在する姿です。

そこに、生命の輝きがある。

それは当たり前ですよね。だって、思い描くのはその人が一番美しいと感じる両腕なのですから、輝いていて当たり前です。欠けた両腕を思い描くのに、わざわざ自分の嫌いな姿や不快感を持ってしまう姿を思い描くはずがない。




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だからこそ、見た人の数だけミロのヴィーナスの完成形は存在し、それは美しく輝いているのです。その、見た人が今まで生きた中で、何を美しいとしているのか。その美意識の塊のような姿が、描き出されているのです。

-両腕が失われる必要性-

腕というもの、もっときりつめて言えば、手というものの、人間存在における象徴的な意味について、注目しておきたいのである。(本文より)

腕。もっというのならば、手というものについて、人間はどのようにとらえているのか。

手を、どのような意味合いをのせて考え、また、感じているのかを、筆者は注目しています。

確かに、体のどの部分よりも、私たちが使っているのは、「手」ですよね。

象徴的とは、抽象的な、曖昧な概念を、具体物で持って示す事、です。

例えば、「戦争反対」「世界平和」の象徴として現れるのは、広島の原爆ドームであったり、グランド・ゼロ(9.11アメリカ同時多発テロのWTC倒壊跡地)であったり。曖昧な思想を、それを連想づけられる、解りやすい具体物で示すことです。

今ここでは、逆ですね。

「手」という存在は、私たちにとってどのような存在、意義を持っているのか。

その意義を考えると、ミロのヴィーナスが失ったのは、両腕ではならなかったという筆者の主張の意味が見えてきます。

 

-千変万化する交渉の手段-

ここには実体と象徴のある程度の合致がもちろんあるわけであるが、それは、世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段である。(本文より)

実体とは、実際の自分の手のこと。手に何ができるのか。物理的な意味です。物を持ち上げたり、字を書いたり、人と握手したり、自分の体を触ったり、様々なことをする。
象徴とは、概念の具現化です。それらの具体的な行動が、どのような意義を持つのか。

それがある程度合致していなければならない。全く的外れでは、困るわけです。

筆者が導き出した答えは、「手」は色んなものに変化できる、「交渉の手段」だと述べています。

交渉とは、相手との話し合いや関わり合いについて、取り決めることです。更には、その関わり、関係、付き合いを指し示す事もある言葉です。

「手」は、世界や他人や自分との、関わり合いを取りきめる意味を持った存在である、と。

世界、というと意味が大きくてぼんやりしてしまいますが、ここでの意味は自分を取り巻く環境のことです。

例えば、外が冬で寒かったならば、服や手袋で防寒もしますが、あまりにも寒かった場合、私たちは手で自分の体を守ります。まるで、寒さという環境=世界から、自分を守る取り決めをしたように、とっさに出るのは手です。足ではないですよね。

他者との距離を測る時も、相手の体に先ず延ばすのは、手です。他の部分ではありません。

そして、自分を理解する時も、人は考えたりする時に腕を組んだり、手を合わせたり、指を組んだり、色んな事をする。

そうやって、自分を落ち着かせたり、または奮い立たせたりして、自分との取り決めをしている。

そんな、意義がある存在が、「腕」「手」だと言うのです。

自分の周囲の世界と、他者と、自分自身も含めて、関わり合いを決めているのが、手である、と。

だからこそ、それが失われてしまうとどうなってしまうのか。

この筆者の主張を軸に考えると、「世界の関わりや、他者、そして自分との関わりを断ち切られてしまった」ということになります。

だからこそ、人はその失われた両腕を想像せずには居られないのです。自分が、手や腕を通じて、世界と関わっているからこそ、それが無いことに耐えられないのです。

-ふしぎなアイロニーとは-

そして、たとえばこれらの言葉に対して、美術品であるという運命をになったミロのヴィーナスの失われた両腕は、ふしぎなアイロニーを呈示するのだ。(本文より)

これらの言葉とは、「機械は手の延長であると言った科学者の言葉」「恋人の手をはじめて握る幸福を表した、文学者の言葉」のこと。

でも、これらは全て「人間の手」です。石像の手。芸術品の手ではありません。

けれど、それが失われたことによって、私たちはその存在を強く意識するという、皮肉が生じます。

もし、両腕が存在していたら、これほど気にするでしょうか。

欠けているから、ここまで実感を持って、唯の石像の腕であるはずの存在を、これほど脳裏で思い描くのです。なぜなら、手は世界との交渉の手段だから、思い描かずには居られない。

ほかならぬその欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でるのである。(本文より)

そして、「ない」という現実が、それぞれの脳裏にあらゆる可能性に満ちた手の形への想像を許してくれている。

それを、夢と述べています。

儚い、自分の脳裏にしか描かれない。けれども、だからこそなによりも素晴らしい理想形を描く、『美』

これを補完しようとする能力が、人間にはある。

普段眠っているはずのその能力を、強制でなく、自然に思い描かせてくれるこの石像は、やはり芸術品として素晴らしい。美の本質を体現している、と述べて終わっています。

今日はここまで。

明日は、全体のまとめです。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

続きを読む⇒ミロのヴィーナス 解説その6 まとめ


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