手の変幻 解説その4。
【両腕の欠けている像の美しさ】
両腕を持っていることよりも、その欠損によって、像はいつの時代にも、どの文化にも受け入れられる普遍的な美しさを手に入れた。
その理由を、これまで解説してきました。
両腕がないことによって、人はその欠損された部分に意識が集中します。
そして、ないからこそ、人は無意識に
「どんな姿だったのだろう」
「どんな腕をしていたんだろう」
という、興味関心を持ってその像を見つめる。そして、誰に強制されたわけでもないのに、各個人それぞれが頭の中に理想的な像の姿を思い描く。
そう。強制ではないのです。
「考えろ!」と言われて、腕のある姿を考えるわけではない。むしろ、人は自然に、無意識に、両腕がある姿を考えてしまう。
その、「自然と考えてしまう」という状態が、とても稀有で、奇跡的なことだと、筆者は考えています。
どんな姿でも良いのです。人と比べる必要は全くない。
その人その人の、「美しい」と思う基準は違います。だからこそ、私たちは別の存在であり、別の価値観を持ち、生きているのだから。
けれど、普通に生活していたら「理想的な美」なんて、滅多に考えません。「考えろ」と言われたら、
「えーっ、そんなの分かんないよ」
となる筈です。
けれど、ミロのヴィーナス像は、それを強制ではなく、自然に、無意識に、人の頭に理想的な美を描かせる。その力を持っている。
それが、ミロのヴィーナスが、時代を超え、普遍的に人々に愛される理由だと、筆者は述べています。
美に上も下もない。優劣は関係なく、どんなものを思い描いていい。
それを想像し、良いなぁと思えた時。人は美に癒され、それを愛し、心に栄養を与える事ができる。
「あー、良いもの見た!」
ということです。それが、芸術であると筆者は述べています。
この「良いもの見た!」と言うのは、別段石像だけでなく、絵画や様々な造形物。音楽や舞台、物語など、様々なものがはまります。
その中でも、自然と自分の理想を思い描かせてくれるこの像の「欠損の力」を、筆者は愛してやまないわけです。
【第5段落】
-ミロのヴィーナスの復元案-
第5段落の冒頭は、復元案のオンパレードです。
その例示を読んでいると、「ああ、なるほど。そういう考え方もあるのか」という、視点の広さが感じられます。
例示を箇条書きで挙げると、
・柱に支えられていたかも。
・盾を持っていたかも。
・お風呂の前後の裸のシーン?
・もしかして、一人じゃなくて、いっぱい居た中の、ひとりなのかな?
・横に恋人が居て、もたれかかったりしていた?
ざっと挙げると、こんな感じです。
面白いのが、こうやって聞くと、「ああ、これが正解!」と全然言えない事。(笑)
あー、なるほど。そういう考え方もある、と妙に納得してしまいます。
多分これらは、それぞれが頭の中に描いた理想図の具現化なのかなと、考えてしまいます。案を出した人にとっては、これが究極の美しい姿なんだろうなと。
けれど、筆者の意見は違いました(笑)
-おそろしくむなしい気持ち、とは-
ぼくは、そうした関係の書物を読み、その中の説明図を眺めたりしながら、おそろしくむなしい気持ちにおそわれるのだ。(本文より)
はい。
この具体案を、恐らく筆者は事細かに調べたのでしょう。
そうして、ぐったりと項垂れている姿がちょっと予想できます。
とんでもなく、
「違う……違う、そうじゃないんだよぉぉぉっっっ!!!」
と、説明図が載っている本を握りしめながら、心の中で叫んでいる筆者の姿が見えるようなんですが、どうでしょうか?(笑)
では、どうして虚しくなるのか。
まず、言葉の意味の確認です。
むなしい、は、虚しい。空しい。の二つの漢字を当てはめる事ができますが、本文にはひらがなで書いてあることから、恐らくこの二つの漢字の意味を両方入っているのでしょう。
空しいは、からっぽ。効果がないことです。
役に立たない。無駄である。形だけで、実質がない。
そういう意味をひっくるめて、むなしい気持ちに襲われてくる。その前に、筆者は説明図を読み解くために、関係書を読みあさっている、という努力が書いてあります。
つまり、その努力に見合うだけの収穫が全く得られなかった。更には、復元案が興ざめだとも言っている筆者です。試しに、本当にそうなのかなと、確認のために関係書を読みあさったのでしょう。
けれど、全くそれが無駄だった。
その次に、こんな文が書いてあります。
選ばれたどんなイメージも、すでに述べたように、失われていること以上の美しさを生みだすことができないのである。(本文より)
ここから、おそろしくむなしい気持ちって、どんな気持ちなのかと考えてみると、
となります。
解説のその3で述べた、小説や漫画が、実写映画化やアニメ化になった時、
「この俳優さん、イメージと違う!!」
「このキャラ、この声優さんじゃない方が良かった」
と、思った事は誰にでも一度か二度はあります。
もちろん、理想ぴったり!! という人もいるでしょうが、全員の理想に当てはまる人なんか居ないですよね。現実的には。
その演ずる人を否定するわけではなく、感覚的に「違う!!」と思ってしまうと、拒否反応が出てしまうのは、それだけ人間にとって、頭の中で描く理想図はとても大事で、誰にも邪魔をされたり、否定されたくないもの、だということです。
私たちは、自分のたちの想像した姿を、自覚している以上に大事にしているのです。
-筆者の強烈な否定-
もし、真の原形が発見され、そのことが疑いようもなくぼくに納得されたとしたら、ぼくは一種の怒りをもって、その真の原形を否認したいと思うだろう、まさに、芸術というものの名において。(本文より)
はい、真の原形が発見されて、ぼくが納得するならば……とありますが、自分で「違う!!」と思っても、問答無用で、「これが正しいです!!」って主張できる人が居ます。
そう。それは、筆者と同じ立場の「鑑賞者」ではなく、このミロのヴィーナス像を作った、「作者」です。
何らかの文献が発見され、疑う事もなく、その石像を作り上げた人のデッサンなり資料なりが見つかり、否定できない証拠が積み上がったら、われら「鑑賞者」は「作者」の前にひれ伏すしかないです(笑)
だって、「どう作るか」は、作った人の自由です。自由な選択肢は、作った人が持っているものです。
だから、それが真の原形、という言葉で表わされているけれども、その真の原形が解ったとしても。そして、それが自分でも、「こればっかりは認めないとなぁ……」と思えるような確実さがあったとしても、
「違うっっ!!」
と言いたいと(笑)
もう絶対に認めない気まんまんで、読んでいると笑みがこぼれます。
ああ、認めたくないのね……と(笑)
でも、その理由として筆者は、「芸術」という言葉を使っている。
芸術という名のもとに、「認められない」としています。
-芸術とは-
芸術論は沢山読んできているけど、「芸術って何?」と聞くと、大概みんな困惑した表情をします。
では、ここで芸術の定義です。
辞書的には、表現者あるいは表現物と鑑賞者がが相互に作用し合い精神的、感覚的な変容を得ようとする活動、となっています。
まず、必要なのは、「作品を作る人」と「その作品を楽しむ鑑賞者」の二人が必要になります。
表現者だけでは、芸術は成り立たない。それを見る人。鑑賞者がどうしても必要になってくる。
確かにそうですよね。
表現者は、何かしら伝えたいことがあって、作品を作るわけです。その伝えたい、と言う気持ちは自分の作品を見た人。楽しんだ人に、何らかの心の動きを感じてほしい。伝えたい、という気持ちが、表現の根幹です。
さらに深掘りすると、「相互に作用」とあります。
これが芸術的活動、ということ。
簡単な例示を挙げると、例えばSNSなどで、自分の撮った写真を挙げた人=「表現者」が居たとします。
それを見た人たちが、「いいね」ボタンや「コメント」を残しますよね。
それって、その挙げた写真という「作品」に対する反応であり、感想です。
ああ、これはあんまり受け入れられないんだ。逆に、これはコメント沢山貰えたよな。なんでなんだろう。とか、考えますよね。
逆に、それを見ている人たちも、その「作品」から多大な影響を受けます。無意識に、何らかの影響を受けてしまう。
それって、「作品」を介在した、コミュニケーションです。
誰かの一言にほっこりして、胸が暖かくなったと思えば、嫌な気分になったり、逆に「作品」を挙げる人たちは、全く相手にされなかったり、否定的、肯定的、無視、など色んな反応を貰うことで、色んな影響を受け続けます。
そうやって、互いに影響しあって、交流を図る。
だからこそ、今こんなにも腕のない姿に感動し、その姿を美しいと思っている「鑑賞者」の意見を全く無視し、作者の意見だけを優先して、腕がない存在を愛している「鑑賞者」の存在とその思考をないがしろにすることは、怒りすら覚える、と筆者は書いているわけです。
どちらが優先される、という意味ではなく、どちらが欠けても成り立たない。
だからこそ、
「復元案なんてやめろーーーーっっ!!」
とここまで力説しているわけです。
【第5段落まとめ】
-復元案はむなしさしか、もたらさない-
たとえ「作者」が残した図案が見つかって、復元したとしても決して、「鑑賞者」は満足しない。そこに、美は存在しない。
それは、芸術というものの根幹を理解する必要がある。
-芸術は表現者と鑑賞者、相互のコミュニケーションで成り立っている-
「表現者」は、作品を創り、その作品を鑑賞した人々の反応に、影響されていきます。
否定であれ、肯定であれ、賛辞であれ、無視であれ、何らかの反応を人々は作品に対して表します。
その反応が、「表現者」に影響を及ぼし、そしてそれらを受け止める「鑑賞者」もまた、作品によって影響を受け続ける。
その相互作用。コミュニケーションが、芸術には存在するのだから、これだけ無数の美を生み出した存在は、作者の意図で勝手に変えられるべきものではない。だから、両腕は存在しなくてよい、と筆者は強調します。
今日はここまで。続きはまた明日。
ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。
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