こんにちは、文LABOの松村瞳です。
【イントロダクション】
今日から、高校現代文の評論文解説。今福龍太さんの「ファンタジー・ワールドの誕生」を取り上げます。
評論文って、全く感情が読めなくて、無機質で嫌だ!! という意見や感想を聞くことがあるのですが、意外かもしれませんがちゃんと解ると、かなり露骨に批判していることや、逆に称賛していたり、忠告していたり、むしろ小説よりも評論の方が感情だだもれなんじゃないかと思うぐらいです。
それ位、ムカつく事だったのかなぁ……とか、人に訴えたい事なのかなぁ……と、全然知らない筆者だけど、そんな風に評論から筆者の感情が読みとれる様になると、ぐっと評論分析が楽になっていきます。
相手の感情を読みとる、と言う事は、主張を読みとることとほぼ同義語なので、意識して取り込んでいきましょう。
そして、要注意なのが、自分の主張を入れないこと。筆者の意見と戦わないこと。
あくまでも現代文の課題は、筆者の主張を読みとり、理解することです。理解をする前に戦ってしまうと、理解が歪んでしまう可能性があるので、そこはぐっと我慢。あくまでも、要求されたことに応えるのが試験の鉄則だということを理解してください。
では参りましょう。
ざっとした要旨は、西洋文化批判。そして、観光という名目で、何を我々がしているのか、のかなり辛辣な指摘です。
けれど、辛辣になるにはそれだけの理由も有り、分析も証拠もあるから、批判が出来る。相手を追求するのならば、それだけの研究と下調べ。論理的にしっかりとした理論が必要になります。
それらを読みとっていきましょう。
【第1段落】
-不快感満載の冒頭-
人間って不思議なもので、何も指針を与えないとのんべんだらりと文章を読んでしまいがちなのですが、「これを書いてる人。どんな感情で書いてると思う? 喜んでいるかな? それとも、怒ってるかな?」と指針を与えると、不思議と文章から感じ取れるものがあります。
何処にも、「私は不愉快だ!!」とは書いてないんですけど、表現の端々に不快を目一杯感じてます!! って訴えている描写が沢山あるんです。
無機質な文だと思ってしまうと、無機質なものしか伝わってきません。けれど、「この人、どんな気分でこれ書いているんだろう?」と思って読むと、意外と感情が拾えたりするんです。人間って不思議。
パプア・ニューギニアの北部低地のジャングルを貫流するセピック川の河口付近。とある河岸に、場違いなほど豪華な、真っ白い大型クルーザーがエンジン音をうならせ、エア・コンディショナーをきかせながら停泊している。その船体に描かれた飾り文字は、”Melanesian Explorer”と読める。(本文より)
はい、これ。冒頭の文です。
何処が、感情が垣間見えるのか。特に感情が垣間見える部分を、赤字で色変えしました。
場違いなほど豪華。ということは、ジャングルにはどんな船だったら相応しいのか。豪華という言葉は、たしかにジャングルに相応しい言葉とは思えない物です。
真っ白いクルーザー。自然の色で、真っ白、というのは珍しい色です。汚れも何もない、とも受け取れる。それは、純粋、という意味で受け取るか、それとも、自分で汚れることを拒んだ傲慢さの表れなのか。どちらで取るのも構いませんが、筆者は強烈な皮肉として使っているのでしょう。それを見るのもあまりいい気分はしない。
それは何故なのか。
「こころ」の解説エントリーでも説明しましたが、人は酷い事をする時ほど、自分は無意識で、自覚など全く無い状態で行うものです。そして、無自覚な言葉や言動がどれだけ残酷で人の心を抉るものであるのか。それを解っているが故に、残酷で皮肉な現象を、出来るだけ感情を排して述べようとしているのです。
(参照⇒夏目漱石「こころ」17〜ばれた裏切りとKの頬笑みの意味 〜)
-底抜けに明るい観光客-
その真っ白い船に乗りこむのは、様々な国の観光客です。
しかし彼ら/彼女らは一概に年配者で、よく見ればあしもとのおぼつかない者すらいる。しかしその表情はみな底抜けに明るい。夢にまで見た「食人族ツアー」が、いよいよこれから始まるからだ。(本文より)
これを読んだ瞬間、「えっ?? なんで??」と思う人が殆どだと思います。このツアー、参加したいと思いますか? それも、笑顔で、高齢者が。
ジャングルのツアーで、そこの原住民である一つの部族を尋ねる旅行企画の一つなのでしょうが、この観光客達の出身は、ドイツ、アメリカ、イタリア、オーストラリア……所謂先進工業国の人々です。
しかも、夢にまで見た、という表記まで加わっている。
何故、先進国の、しかもまともに一人で歩けない様な高齢者までもが、このツアーに参加するのか。
その異様さに、是非気付いてほしいと、この筆者は訴えています。確かに、個人的に「食人族ツアー」に行きたいかと問われれば、「うーん……」と悩むかなぁ……と言うのが正直なところ。是非!! とは、ならないのが私の本音です。
だって、ジャングル基本的に怖いし、行って見てみたい気もしなくもないけど、そこまで冒険家体質では無いし……
けれど、この高齢者たちの表情は、一様に皆、底抜けに明るい。心の底から楽しんでいる様子がうかがえる。
それは一体、どうしてなのだと、問題提起にして書かれてはいませんが、筆者はこの一種の奇妙さに読んだ人間が気付いてほしくて、敢えて不快感を丸だしにして、この冒頭を書いてあります。
そして、この「夢に見た」という表現と、「底抜けに明るい欧米人の観光客」の謎が、この評論全体を通して、語られていくのです。
【第2段落】
–ツアーのパンフレット-
この「食人族ツアー」パンフレットには、こう書いてあります。
地球上でもっとも魅惑的な「奥地の旅」が可能な場所、それがセピック川流域地帯です。セピック川の周囲に住む人々は、文字どおり西洋的な生活スタイルを全く知らないままこれまで生きてきました。(本文より)
奥地の旅が、魅惑的。
奥地=西洋的な生活スタイルを全く知らない人々、と明言されています。
さらっ、と書かれていますが、これは強烈な差別的発言であり、差別意識がないと出てこない言葉です。
「えっ?? どこが??」と思う人は、よーく考えください。
私達日本人も、西洋化、欧米化された生活スタイルを現在謳歌していますが、ちょっと前。精々150年ほど前までは、欧米なんて無縁な、引きこもりの鎖国状態だったわけです。
なので、そこで西欧人に、「日本は西洋的な生活スタイルを知らない、地球上の奥地だ!」と言われたら、どう感じますか?
ちょっと「ムカっ」ときますよね。「ああ、確かにそうだなぁ……」と思う人も居るかもしれませんが、それってどうしてなのか。
奥地の反対の言葉。対義語をちょっと考えてみましょう。
奥地の反対と考えると難しいので、類義語を活用します。
奥地=辺境の地=ド田舎。
その反対は?
そう。都会=中枢都市=世界の中心。
つまり、セピック川流域は、世界中で最もド田舎で、西洋は世界の中心地だと思っていなければ、こんな言い方は出てこない。パンフレットですから、とてつもなく綺麗な文章で彩られていますが、その実、その根底に流れているのは、強烈な差別意識。そして、西洋人たちが自分自身に抱いている、選民思想です。
それを解った上で、パンフレットの最後の文を読んでみてください。
さらにみなさんは、部族の伝統的な集会のなかでくりひろげられる歌や踊りを体験することをつうじて、未開人たちが生きる本当の世界にきっと触れることができるでしょう。…… (本文より)
……も含めて本文です。
これはパンフレットの文面がもっと続いている事を意味しているのか。それとも、厚顔無恥さに満ちた文章を書き写すことに、筆者が嫌気がさしたのか……
未開人達か生きる本当の世界、って何でしょうね?だとしたら、私達は嘘偽りに満ちた世界を生きるていることになるのでしょうか?
所謂、このパンフレットの本当の世界、の意味は、原始的な生活の世界、という意味合いで使われている筈なのですが、到る処に自分達西欧人は、先進的で優れていて、この原始的な生活から、ここまで発展出来たのだ、というプライドをそこかしこに感じ取れます。
-『カンニバル・ツアーズ』-
このツアーの一部始終をまとめた映像作品があります。オーストラリアの映像作家。デニス・オルークの作品。『カンニバル・ツアーズ』です。
観光客や村人へのインタヴューを交え、克明にこのツアーの詳細を描き切った作品。
キャメラのいくらか皮肉な目は、このツアーに参加した現代の観光客がどのようにして自分たちと「プリミティブ」な世界との関係を打ち立てるのかを、忠実に、一種のシンパシーすら込めながら写しだしていく。(本文より)
プリミティブは根源的な、原始的な、という意味。
観光客たちが、どのように原始的なジャングルの世界と関係していくのか。その姿を、皮肉な目線で捉えている、と言っています。
皮肉とは、意地悪な言葉や態度、のこと。
意地悪な視点で、現地人たちと現代西洋人が関わっていくのかを捉え、それを描き出している、と言うのです。
-写真を撮ることの意味-
西洋人観光客は、一様に二種類の行動を常にツアーのなかで繰り返しています。その一つ目は、写真を撮ること。
彼ら観光客は、ひとりひとり、男も女もほとんど例外なくカメラを首にさげて、ツアーのあいだじゅう無数の写真をひたすら撮りまくる。(本文より)
何が問題なの? 旅行行ったら写真撮るのは当たり前でしょう?
と言う声が聞こえてきそうですが、評論家って誰も気が付かないことに「何故なんだろう?」って思考し、気付くことが仕事のようなものです。当たり前じゃん!!で終われないのが、彼らなんです。
観光に来たのに、何故カメラで撮ってばかりいるのか。その目でちゃんと見ようとしないのは、何故なのか。どうして、カメラで撮りたがるのか。
無意識の 行動の背後にある、心理を読みとろうとしているのです。
こうしたプリミティブな風景や他者たちへの観光客の接触は、彼ら自身の肉眼や身体によってではなく、つねに写真機のファインダー越しに行われてゆく。(本文より)
身体的な接触が出来る位置に来ているのに、実際に見て触れて、体感することなく、必ずカメラを構えて、あれほど「夢見た」光景を撮っていく。
それが何処かおかしい。なんで、カメラで写すんだ?
と、筆者は観光客の行動を疑問に思ったのです。
さて、今日はここまで。続きはまた明日。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
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